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2023-04-11

anond:20230411122114

AI人工知能)とは、人間知的活動コンピューター機械模倣する技術です。AIは様々な分野で利用されており、ゲームの敵キャラクターもその一例です。ゲーム内の敵キャラAIで動いていると言うこともありますが、その技術レベルには幅があります

一般的に、AI技術レベルは以下のように分類されます

1. 弱いAI(Narrow AI): 特定タスクに特化した知能を持ち、そのタスクにおいては高い性能を発揮しますが、他のタスクでは性能が低いものです。例えば、チェス将棋AI音声認識システムなどが含まれます。多くのゲーム内の敵キャラクターも、限定された状況での行動パターンを持つ弱いAIといえます

2. 強いAI(General AI): 人間のように幅広い知識理解力、推論力を持ち、様々なタスク適応できるAIです。現在技術では、まだ実現していません。

3. 超AI(Superintelligent AI): 人間はるかに超える知能を持ち、ほぼ全てのタスクで圧倒的な性能を発揮するAIです。これも現在技術では実現していません。

ゲーム内の敵キャラクターは、通常、特定の行動パターン戦術に基づいて動くため、弱いAIに分類されますしかし、敵キャラクター学習適応能力を持ち、プレイヤーの行動に対応して戦術を変えるようなものであれば、より高度なAIと言えるでしょう。

2021-04-26

https://anond.hatelabo.jp/20210423230621

Vivyは、話を盛り上げるための不自然事件や行動や言動が多くて、自分には合わなかった

たとえばヒロインも含めたAIが、合理的な行動よりも、感情的な行動や言動に動くことが多いため、

素早く判断し行動すべき部分でも、妙に感情が先行することが多く、話のテンポが悪くなり行動や

言動イライラさせられる場面が多い (もっと素早く行動しろよ!)

自分は、BEATLESSplanetarianは好きなのだけど、両者にそういったストレスは感じなかった

BEATLESSレイシアの場合は、超AI判断合理的で速いため、レイシアの行動が読めず、少し

後になってから、「そういうことだったのか...」と納得できるようなところにスピード感があり面白かった

planetarian場合は、AI技術がまだ未熟であるため、ところどころで不器用な反応が返ってくるようなところに、

子供のような無垢純真な部分を感じさせられる点が魅力だと思う

Vivyの場合は、人型AIが妙に人間くさく合理性を欠き、言動全体が湿っぽく感情的なのが不自然

そもそもAIに反対するテロリスト存在からして、説得力が欠けていると思う

AI危険性を論理的に納得させる部分が無いし、集団武装し様々な施設を襲うのでは、

AIでなく人間管理しているシステムだって、同様にシステムの脆さを露呈するはずなんだよね

そういう意味では、暴力に訴えたAI批判というものが嘘くさいし、アクションを見せるためだけの方便しか見えなかったりする点が、どうも自分には安っぽく見えてしま

AIの危うさを世間に知らしめたいのなら、もっとシンプル頭脳戦でシステム盲点を突いて見せな

いと、世の中の人々は危機感を覚えないと思う

ストーリーがお涙頂戴の方に傾きすぎていて、AIかわいそうってだけで、AIについて論理的に考える部分が少ない感じがするんだよね

2019-06-23

anond:20190623180903

存在としての自分トラックバックが「以前の自分にささる」のは、自己修復型のコード書き換えプログラム超AIかいわれるやつ)みたいなもの

2019-04-11

[]キャプテン・マーベル

キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ

総評

ほどよく100点。点数の基準は「上映時間映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。

MCU(マーベルヒーロー映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。

ゆえに以上で感想終了である

ヒーロー内面資格

というわけで、ここからさきは感想じゃなくて感想風になる。

キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点から全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。

でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃん言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。

いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。

ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者ヒーロー感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。

アイアンマンキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面孤独や、大切な人を失ってしま絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローヒーローでありつつ僕らと同レベル人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。

マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品性質上、ヒーロー専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。

その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係コンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。

そういう内面的な危機を乗り越えた「から精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。

言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。

この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。

この構造において、ヒーロー内面的な資格は「不幸とその超克」だ。

でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。

ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。

主人公キャロルダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女内面悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。

リー指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。

映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女内面的な意味ヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画破綻してないしちゃんドライブされている。

これってどういうことなのか? 内面葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーロー資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?

結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロルダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。

この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。

作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代記憶としてカートレース事故にあう。子供野球三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。

そして彼女はなんだかんだ人生につきもの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロットエリート象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。

その実験部隊トラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディローソン博士を助けるために飛行任務立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。

その実験部隊で同僚でもありキャロル親友黒人女性パイロットマリアランボーセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロット立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友主人公を思い返した言葉だ。

この立候補ときキャロルスーパーヒーロー能力を持たない普通地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである

能力のみならず、内面危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきもの特別悲劇経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷帝国に焼き尽くされたりしていない。

この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。

まりカートレース事故から負けん気で立ち上がったとき子供野球三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロルダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーロー資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルヒーロー能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのもの子供時代と変わらない。

あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。

それはつまり主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇喪失必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。

これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマ構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。

そのチャレンジがとても良かった。

ハリウッドアメリカロールモデル

アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さら子供ターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要ポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。

日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカアイアンマンがいる。

人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。

近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。

アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。

MCUにおける二大ヒーローキャプテン・アメリカアイアンマンは「能力を持つもの社会貢献」をめぐる物語対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。

その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。

困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇から、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。

主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰位置すると思うのだけど、政府超人兵士計画で生まれキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長発明家大富豪ちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。

その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。

2018-08-10

anond:20180810122715

からほら、書いてんじゃん

別にIQでなくてもいいけど

知能指数運動能力社会貢献度など、総合的に人間能力を数値化出来るスカイネットの様な超AIがあったとして

満30歳になった全人類を判定して、一定能力を持たない人間社会ゴミとして処分してくれる

そういう機能が実行される、起動ボタンがあったら押す?

anond:20180810120327

別にIQでなくてもいいけど

知能指数運動能力社会貢献度など、総合的に人間能力を数値化出来るスカイネットの様な超AIがあったとして

満30歳になった全人類を判定して、一定能力を持たない人間社会ゴミとして処分してくれる

そういう機能が実行される、起動ボタンがあったら押す?

2018-08-08

IQ100未満は死滅させるボタン

あったら押す?別にIQでなくてもいいけど

古い漫画だけど『愛がゆく』って漫画があったんだよね

その漫画物語の中に

地球人知的活動能力に関する数値化を機械が行って、

一定能力を有してない人間は跡形もなく消滅するってシステムがあったんだよ

幼心になんて素晴らしいシステムだろうと思った

知能指数運動能力社会貢献度など、総合的に人間能力を数値化出来るスカイネットの様な超AIがあったとして

満30歳になった全人類を判定して、一定能力を持たない人間社会ゴミとして処分してくれる

そういう機能が実行される、起動ボタンがあったら押す?

はっきり言って、この世界には不必要人間が多すぎる

せっかく早期帰宅命令が出たのに、この台風の中を満員電車に揺られながら帰りたくないんですよ

くっそ臭いし、お前らマジで要らんわ

満員電車に揺られている瞬間なら迷いなく押すわ

ブクマカーはタイトルしか読めないか低能消去装置で綺麗に消去出来そう、という知見は得られた

追記』俺のIQは140以上

https://anond.hatelabo.jp/20180821180057

https://anond.hatelabo.jp/20180821181703

狙って釣れる事を証明してくださいね

同じようにやるだけなんだからIQ80以下のガイジにも出来るよね?w

自分記事があれば、ね

やっぱり逃げちゃったね

2017-01-23

http://anond.hatelabo.jp/20170123113224

元増田ちょっと誤解しているところがあるようだが、超AIがなにか超思考をしたとして、物理的な結果は観察できる、

だが、なぜその結論に至ったか人間理解できないということだ。

たとえば、ある人物処刑するようにAIに命じられる。

だが、なぜか?と問うても「説明しても君たちには理解できない」と返すようなのが代表的超AIシナリオスタイルになる。

仮にこれが物語の中でわかるように解説されてしまうと、そもそも成立しないので、その意味では元増田のいう「物語の中の超AIは、説明できるなら超AIでもなんでもない」ということはたしかにそのとおりだと思う。ただの超人模倣である

5次元だの6次元だのになってしまうと、そもそも映像文章での表現には「それっぽいもの」でしかなくなる。

このタイプ映画では「オートマタ」がオススメ

http://automata-movie.jp

 
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