はてなキーワード: 小山田とは
知ってる。でも今回これだけ噴出したのは五輪参加=こいつは認めてはならない!という感情が後押ししてるのは否定できんね。
小山田米呂のエレキングのコラムなんだけどさ、これ今年2月にアップされたもので、トランプ支持者のミュージシャンが主題で、だから今回の騒動についてや彼の父についてのものでは全然ないんだけれども、以下の引用箇所の部分とか、「あっ、これって……」って色々考えさせられるよね。
http://www.ele-king.net/columns/regulars/whatsinmyplaylist/008025/
それでも僕はArielがレイシストであれど彼のレコードに罪があるのか? 2009年に天邪鬼な変人オタク野郎を〈4AD〉と世界が受け入れただけで彼自身は子供の頃から何も変わって無いような人で、そこがみんな好きだったんじゃないの? とも思ったり。 ただ、変わったのは僕らでArielのレコードはいつも変わらずそこにいてくれる。
このAriel騒動だけじゃなく、好きだったアーティストが突拍子もないことして幻滅なんてよくあることで、僕らは所詮自分から見た彼らしか見れないから、僕から見たAriel、友だちとしてのAriel、息子としてのAriel、アーティストとしてのAriel、Arielの自意識、と全部彼だけど彼じゃない。そしてArielの曲はArielだけどArielにあらず。これはアーティストや芸能人に限らず身近な存在にも適応すると思う。だからArielの政治的な態度は受け付けなくて批判しても、彼の曲まで嫌いになる必要は無い。そうやって考えると誰かを嫌いにならなくて済むんじゃないかと思った1月でした。罪を憎んで人を憎まず。アリエルのバカヤロウ!
正直「虚言だろ」というのも分かる気がする。だからこそ「あれは虚言でした」と今、声明を発表しなければ小山田は終わりだしそれすらしないならもう擁護できないよね。
太田出版に迷惑をかけることにはなるだろうが、それこそ25年前の記事がウソまみれだったなんて話は「時効」でしょう。
どちらにしろ、ここまでのどこかのタイミングであの時代を総括してこなかったサブカル界のツケがたまたま今回ってきただけで、全てが自業自得、自滅。オザケンも電気グルーヴ石野もいつか未来のどこかでこういうカウンターを食らう宿命だと思っている。
然るべき制裁を受けたあとでも延々と粘着され。すべての人生を破壊するようなネトストはたしかにどうかと思うね。
いじめに対する是非を関係者が裁判などで決着させ、それ以降周囲はノータッチでも良いと思う。
ただ、そこまで醜聞が広がってしまうと業界では生きられなくなってしまうかもしれないが。
そこはもう自分たちが関与することじゃない。
この問題の難しいところは、本来なら一対一の訴訟や戦いになるところを、学校という場が提供されているがゆえに社会性が高まり、かつ個人的な体験記などが重なって心理的問題と野合してしまうところ。いじめとなると集団性が発生する。
つまり、いじめ問題自体が社会的問題として拡散した挙げ句、社会的な集団による制裁に発展しやすい。もちろん制裁側にも問題はあって、例えば光市母子殺人や女子高生生き埋め事件の犯人たちへ未だに精力的に凸しようとするやつはいない。本当に恐ろしい犯罪者には何もしないが、そこそこ攻撃しても安全そうな人物にはいくらでも凸する。小山田は現状犯罪者でもないし、某弁護士も犯罪者どころではない真人間だが攻撃を受け続けている。攻撃しても当人たちになんの問題がないからだ。
今YouTuberで数年前に恐喝事件を起こした元反社の瓜田純士に攻撃できるやつは何人いるだろうか。彼は表の人間にも裏の人間にも顔が利くので、攻撃したほうが不利になりかねない部分もある。そして誰も凸なんてしてない。
小山田を免罪してほしいとは思わない。心情的には潰れてくれという思いはある。しかしオーバーキルする権利は我々にはない。オーバーキルするなら真に恐ろしい人物に立ち向かってこそだろう。違うだろうか?
小山田くらいの露悪が当時当たり前だったなら他のいじめ・暴行事例がたくさん出てきそうなもんなのにほとんど出てこないのはなんでだろ
鬼畜系っぽいのは根本敬とか村崎百郎、ねこぢる(もそうなのか?)とかをちょっと読んだことがある程度だけど、グロや下品を礼賛したり深刻な事件を茶化したり酷いものでは喧嘩や窃盗や覗きのような犯罪行為をしたりってのは見たけど、ここまで直接的、一方的に他人に暴行を加え尊厳を破壊してるのは記憶にないんだけど
道徳の教科書にでも載せたらどうですか。障碍者をいじめてたいじめっこはやがてネットでみんなにいじめられました。そうです「いじめはいけないこと」ってあらゆる層にアピールできますよね。じゃあネットの人は?
田舎のコロナ第一号の人が、誹謗中傷や家に石を投げられる等嫌がらせで引っ越ししたらしい。
ここでいなかっぺらしいなの一言で片付けるのは簡単だけど、なぜ「彼ら」は嫌がらせしたんだろうか。
想像だけど、世の中には「叩いていい権利」を行使したい人がいるらしい。
「叩かれて当然だから、叩いた」が「彼ら」の言い分。
「彼ら」は不利益を被ってない(コロナの場合は感染リスクで多少不利益あるかもだけど)のに権利を行使したがる。
叩かれてる側を擁護するつもりはないけど、叩いていい権利を最大限使おうと顔を真っ赤にして書き込んでる人を見ると、「いなかっぺらしいな」がよぎる。
当時この連載読んでいた確かに質は低かった。
覚えているのが、
テクノDJ(ジェフミルズかデリックメイだったと思う)はヒップホップDJにイジメられないか聞いたり、
トータスのジョンマッケンタイアへのインタビューでも音楽のこと聞かないからか、終始機嫌が悪い感じで、ライターもそれを隠そうという感じはなかった(これはイジメ紀行じゃなかったかも)。
彼らに比べれば小山田はノリノリで話していた。
こんなQJや、鬼畜系、電波系の雑誌が地方の本屋で簡単に手に入った。
自分は音楽の情報が欲しくてQJを買っていた。インターネットが無いのでサブカル雑誌を買うしかないのだ。
しかし、当時同級生がそういったサブカルをかじっていたかというとそんなことはないと思う。
話しが合う人いなかったし。
同世代でサブカル趣味はなかったけどなんかわかる。「優等生や真面目に社会に反抗する奴と思われるのがすげー嫌」というのが90年代の雰囲気で、小山田にとっては、そういう「俺は真面目優等生じゃない、学生時代は結構悪かった」というアピールをするためのエピソードの一つにしかすぎなかっったんだろう。
多分当時読んでたら、「ひどいやつだな」とは思ったと思うけど、それでアーティストとしての評価が下がるということはなかったと思う。むしろ「いじめられていた」という告白の方が「カッコ悪い」という印象になったんじゃないかな。
当時のテレビはとんねるずとダウンタウンが席巻していたけど、ほぼ学校でのいじめをバラエティ化したもので、いじめが悪いという建前こそ一応あったものの、その意識は現在よりもはるかに弱かった。今テレビがつまんなくなったというけど、90年代には絶対に戻っちゃダメだと強く思う。