はてなキーワード: 動詞とは
読む量は増えたが書く量が減ったことに起因するのではないかと思ったが、英語に関して言えば読むどころか聞く量すら激減していることに気づく。これで翻訳を生業にする夢を諦めきれていないというのだから驚きである。高校大学と授業や試験で英語を扱ったときも「自分は中学英語の知識だけで問題を解いているなあ」と思っていたふしがあるが、まさかここに至るまでその意識を捨てきれていないというのはいかがなものか。むしろ劣化しているとさえ感じる。
この現状を打破するためにも積極的に英語に触れていこうと思うまではよいのだが、いざ自由な時間ができたところで訳しかけの『緋色の研究』に手を付けた試しがない。翻訳が趣味と言っていた自分は何だったのか。ただの就活用のアピール項目に過ぎなかったのか。お前の情熱とはその程度のものなのか。社会人になったら新聞の投書欄に投稿したいと言っていたのではなかったか。
と、ここまで考えたところで、なぜここまで翻訳業に固執するのかと思い直したところ、「自分のしたことが目に見えて分かる」ことに喜びを感じる自分というものに気づく。大企業にいるとそのようなことはそう起こるものではないし、それゆえに半ば業務に対する情熱を(半年も携わっていないのに!)失いかけているのだろう。さらに欲を丸出しにしてしまえば褒められたいのだろう。贅沢である。褒められなくとも自分が何かを創りだし、それに満足のいくことのできるような仕事がしたい、というのが恐らく本音だ。だがそのような職に就ける人間が果たしてどれほどいるというのか、と夢物語の一言で片付けてしまえばそれでお終いであるのに、いかんせん身近にそういう人がいるものだからどうにも未練がましくなってしまっているらしい。
なんだお前は、つまるところ物を書いて飯を食う人間になりたかったのか。
likeとcanは動詞と助動詞、レイヤすら違う話なのに。昔から文章にすることでストレスを発散してきたというだけで、どうしてそこまで思い上がれるのだろう。少しばかり英語の成績がよいというだけの、ただのいち理系学生だった自分が、中学生から抱く翻訳作家という夢を未だ捨てきれず、性懲りもなくくすぶらせ続けている。なんと往生際の悪い。だが文字通り今が往生際になるとすれば、きっとそのことを後悔するのだろうと思うと苦笑せざるを得ない。
我が家にインターネットという近代的通信網が導入されてからしばらく経ち、国語の授業で作文をするというとき、どうにもネットスラングを入れてしまいそうになる自分にふと気が付き「ああ自分はこんな文章しか書けなくなってしまったのだな」とショックを受けたことを思い出す。恐らくそれ以来、自分なりに人一倍言葉遣いに用心するようになったのだと記憶するが、それも言うなれば自己満足でしかなく、「言葉遣いが正しい」ことは「いい文章である」ことの十分条件ではないのである。
もっと言えば「いい文章である」かどうかは読み手が判断するものであり、いくら自分で「いい文章が書けた」と思ってもそれが万人にそう思わせるものであるとは限らない。「いい文章だ」と感じる読者がなるべく増えるようにするためにできる最低限の努力なのだ。そんな自己満足の世界で生計を立てられるほどの能力などあるはずもないのに、こうして毎日夢を見ているのは、まだ「お前には到底無理だ」という現実をはっきりと突き付けられていないからであり、それはある意味で幸福なことなのかもしれない。
「SMなんてするやつ、人格疑うわ」http://anond.hatelabo.jp/20151124132957を書いた増田です。トラバありがとう。
http://anond.hatelabo.jp/20151124135007
http://anond.hatelabo.jp/20151124141101
http://anond.hatelabo.jp/20151124175900
読みました。なるほど。言及する価値もないクズ、ごく一部のやばいやつに過ぎないということで、誰も本気で反応しなかったということね。
http://anond.hatelabo.jp/20151124142814も読みました。「かわいい子には旅をさせよ」w
”苛愛ずる”(←動詞つくってみた)はジャパニーズカルチャーである、と? はー。
”苛愛ずる”は子どもや猫等を対象に老若男女が嗜むエンターテインメントであり、そこにはなんら美学や矜持といったものはなく、多かれ少なかれ、いきものすべてがもつ単なるサガである、と? ひー。。
”苛愛ずる”というサガに自覚的で理性の弁を開放しているのがSM嗜好の人々で、対象が子どもや猫にとどまらず、BBAを虐待して可愛いと思うのがご主人様、おっさんを虐待して可愛いと思うのが女王様である、と? ふー。。。
可愛い子を殴りたいという元増田は、なんら特別な人間ではない、と? へー。。。。
非性的パートナー(プレイの同意を得ていない相手)を強制的に”苛愛ずる”のは、社交界に集う紳士淑女の嗜みである、と? ほー。。。。。
まみむめもー、ばいばいきんたじたじ…;;(´﹏`);;
個人的な感想としては、とにかくもう、「悪趣味…」のひとことであるのだけども。。。(当然伝わってると思うけど、悪っていうのは善悪というより、私の美意識からするとかっこ悪いみたいな意味。大元の増田、最近私が遭遇した人間の中でも1,2を争うレベルでかっこ悪いわ。。。)
先日増田でホッテントリしてた「親から子供への冗談が大嫌い」http://anond.hatelabo.jp/20151025173243を読むにつけても、今回のトラバを読むにつけても、SM嗜好って闇教育の産物っていう側面があるんじゃないかという疑念を強くするわ。 ※「闇教育」については、アリス・ミラーの著書を参照のこと
http://anond.hatelabo.jp/20150115140524
「頭痛が痛い」は「頭痛→頭が痛むこと。頭の痛み」だから訳すと「頭の痛みが痛い」という意味になるからおかしくて、
「数を数える」はただ漢字が同じというだけで「数を」の「数」は名詞で「数える」の「数」は動詞の一部だから全く意味が違うんですよね。そう説明すればいいのにと思いました。
これらの問題は熟語の意味の曖昧さも関係してると思います。熟語になると動詞でも名詞のような用法になってしまうことがありますから紛らわしいんでしょう。
たとえば「算段」という単語の意味は「苦心して方法を考え出すこと」と英語で言うところの動名詞のようになっていますが 「算段を立てる」という慣用句もありますしね。
という使い方は違和感がある。
「(なになに)したことあります」
じゃないのか。
過去の行動を表すときに、なぜか時を示す代名詞っぽい「とき」を使う場合は
「(なになに)したとき(なになに)した」
これは「とき」「こと」の後に「は」をつければ判別できることを発見した。
「(なになに)したことはあります」
↑違和感無い
「(なになに)したとき"は"(なになに)した」
大まかな意味は変わらん。
ちなみに
「(なになに)したことは(なになに)した」
↑おかしい
自分が「とき」を使われて違和感がないのは、他の動詞を修飾する場合だ。
これらのことがどういうことを示しているのよくわからんが。
おおまかに、おそらく主体が語り手でもなく事象でもないということではないか。
という口語は自分も事象も主体にしないで、そのときとかいうよくわからんものが主語の形式をとっている。
ことであれば
「そういう事象があった」
ということだが。
とか
もはや完全にひと事。