はてなキーワード: 一部の人とは
id:aionarapです.自分のブログがなく,ブコメじゃ情報を書き足りないのでこの場をお借りしました.
“徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
はてなブックマーク - “徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
この中教審の答申に関して,ブコメでは否定的な意見が多数,というか肯定意見は皆無ですね.しかし,私個人はある程度この試みに賛成です.あ,先に書いときますが,完全肯定じゃないですけどね.修論は書いたほうがいいし,徒弟制の完全廃止もどうかとは思っています.
じゃぁ何が賛成なのよ,という話ですが,Qualifying Examの導入,及び広い範囲の教育に関してです.これは必須,と私は考えています.この辺りのお話に関するご意見を皆さんに聞いてみたいと思い,当エントリを書くことにしました.
今回の中教審の答申は,博士の現状の問題を反映した意欲的な取り組みに感じる.丸呑みにするには良くない部分もあるが,期待しても良いのではないのか.
さて,そもそもの出発点ですが,博士は「スペシャリスト」でありさえすれば良いのでしょうか?私は否と考えます.博士こそ「ジェネラリスト」にもならねばならない.…と書くと誤解を招きますね.要は専門馬鹿になっちゃいかん,ということです.
勿論,博士課程の人間は自分の専門分野に関して,国際的な第一線に立てるような知識と経験が必須です.一生懸命に自分の研究に取り組む必要があります.ですが,それだけではダメで,最低限隣接領域(まぁ定義が微妙ですが)に関して,可能であればもっと大きな枠組で知識を深めなきゃいけません.科学技術はどんどん煮詰まってきて,先に進むためには学際分野の融合による新しい概念の創出が必要です.それをイノベーションと呼ぶこともあるでしょう.それを生み出すためには,少なくとも2つの分野に関してよくものを知っていないといけません,そうですよね?
テクニシャンとして分野を極めるのもひとつの道かもしれませんが,博士に求められているのはそういうことではないと私は考えています.
加えて,博士が「スペシャリスト」のみを意識していると,博士課程の人材の活用先は研究者,それもかなり狭い分野に限定されます.
ここで,大学院設置基準が定めている博士課程の役割を見てみましょう.昭和49年の時点では,
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
と,敢えて変更を行っています.差分は,
「又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力」
「社会の多様化,複雑化等に対応し,博士課程において,大学等の研究者のみならず,社会の多様な方面で活躍し得る高度の能力と豊かな学識を有する人材を養成する必要から明確化」
(以上,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-3.pdfの2ページ目より引用.)
平成元年の時点で,大学院設置基準は博士課程学生に「社会の多様な方面で活躍しうる」人材たることを求めているのです.
「おいおい,博士が研究者にならなくてどうするのよ…」という意見もあるでしょう,それは理解します.ですが,包含関係を取り違えてはいけません.研究者として生きて行けるのは,博士号を取得したうちの一部の人間です.研究者になるのは博士号取得者でしょう.ですが博士号取得者は全員研究者にはなれません.国家として,限られた国庫の中から博士を全て取り込めるほどポストを恒久的につくるのなら別ですけどね….
それに,(ありえませんが)もしそうなったとしても,全員研究者になるのもどうかと思います.一人ひとりが研究テーマを持って,プロジェクトリーダー的な役割を果たしつつ,世界の最先端を突っ走ってきた人間が,その経験と知見を他の分野に持っていくことは非常に意義があるでしょう.ある意味,一人でプロジェクトチームに求められる役割を全て果たす必要があるのですから,その能力は推して知るべしです.是非,社会のあちこちで活躍するべきです.
非常にポピュラーなのは,専門を活かした職業でしょう.企業での研究開発を初めとした「明示的に博士を求めている」職業は多いです.…まぁ敢えて書く必要はないですね.
初等,中等教育の教師もいいでしょう.勿論高専も.起業もいいですね.
そして,本当はその他の「博士が求められていない」と考えられている職業にも行ったほうがいいと思うんです.だって,ずっと知的体力を鍛えてきたわけですから,同年代の博士号非保持者と比較してその辺りは大きくリードしているはずです.
彼ら/彼女らが持っている問題発見能力は,必ずや企業にとって大きな助けになります.
前節の内容に関して,同意して頂けましたでしょうか?して頂けた方も,そうでない方もいらっしゃるでしょう.
でも,同意/非同意にかかわらず,ほとんどの人は「夢物語乙!www」という感想を抱くのではないでしょうか.いえ,私もそう思います.
例えば,id:scicom 氏の快著,「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?」(http://goo.gl/Pd0ls amazonへのリンク)には現状の博士号取得者,特にポストドクター(PD)の状況が整理されています.
簡潔に言えば,現状は散々たる物です.企業は博士号に魅力を感じていません.これは伝聞ですが,採用担当者は「博士は当たり外れが大きい」と感じているようです.ハズレを引くリスクを恐れて採用を控えるそうです.
そもそも,皆さん,博士号をとっている人間が「最低限」「共通して」何を出来るか,分かりますか?
言い換えると,博士号が担保しているものは何か,知っていますか,ということです.
特に,博士課程では,①学生に特筆すべき顕著な研究業績を求める大学院もあるなど,博士の学位が如何なる能力を保証するものであるかについての共通認識が確立されていないこと,②博士課程(後期)の教育が,個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまり,学位プログラムの整備という観点から不十分であること,③大学と産業界等との間において,大学院が養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく,修了者が産業界等の社会の様々な分野で活躍する多様なキャリアパスが十分に開かれているとは言えないこと,といった問題点が見られる
(http://goo.gl/Jq0LU, pdfファイル,5ページ目)
文科省は,博士号が担保するものに関する共通理解は無い,と述べています.また,教育の質もバラけていることを指摘しており,このことも共通理解の妨げになるかと思います.
個人的には,博士号は「専門知識」と「プロジェクト(研究)遂行能力」は担保していると思います.…が,サンプル数が少ないので断言はできません.
この「一般的な博士像の不存在」が,世間一般への博士の浸透を妨げていることは想像に難くありません.
当の本人たる博士号取得者は活躍の場が減る,すなわちたつきの道の選択肢が減ります.
納税者の皆さんは,せっかくお金をつぎ込んで育てた人材が有効に活かされず,「税金の無駄だ!」と感じるかもしれません.
後進の学生は,この惨状を見て博士に進まなくなります(というかそうなってます).
こうして,本丸たるアカデミックの世界ごとジリジリと衰弱し,…あとは言わずもがな.
勿論,「これさえやれば万事解決!」みたいな簡単な処方箋はないでしょう.でも,チャレンジは出来ます.
私は,そのチャレンジの一環が今回の中教審の答申だったのではないか,と考えています.(というか資料はそれを物語っています)
専門の知識だけではなく,基礎知識や計画力,語学力,倫理観などもちゃんと持っていることをQualifying Examで保証しましょう.
どこに放り出しても生きて行けるほど強くするために,総合的な教育もちゃんとしましょう.
そういった取り組みが,今回の答申の意図ではないのでしょうか.
この新課程を出た博士がその有用性をアピール出来れば,在野の博士号取得者にもスポットが当たり始めるでしょう.
さて,ここで,「大学院に進んでまで人に教育を受けるとかwww自分で学べよそれぐらいwww」という気持ちになる人もいるかもしれません.
正直,私も「それぐらいじぶんでするわい」と思ってたりします.
でも,主眼はやっぱり「質の保証」なんだと思います.ちゃんと大学院は「最低限」「共通して」一定の能力を持った博士を輩出しますよ,という保証.
さぁ,経営者の皆さん,安心して共同事業を博士が経営するベンチャーと行って下さい.
さぁ,保護者の皆さん,安心して博士の教員を迎え入れてください.
そういう事を,皆が自信を持って主張できるように,ということでしょう.
ええ,上記の効果を狙ったとしても,逆効果になる部分もあるでしょう.
徒弟制を完全廃止すると,一本軸の通った研究ができなくなって,結果として「スペシャリスト」にもなれなくなります.
(念の為に再度主張しますが,博士は「スペシャリスト」の能力を最低限備えてなければなりません,と考えています)
博士課程に進学希望の学生が修士論文書かないと修士/博士の間のフレキシビリティを損なうことになります.
なので,細かい部分は考える必要があるでしょう.
でも,今回みたいに,現在抱えている問題に対してちゃんとコミットメントしたということで,私は文科省をちょっと見直しました.
というかなんか雰囲気で「お役人は肝心なことに取り組まない」みたいな思い込みがあったのですが,やっぱりそんなこともないよなぁ,と思いました.
なんせ,前述の「博士漂流時代」を読んで気になったことを調べ始めたら,殆ど中教審の資料にまとめられていたのですから.
さて,長くなりましたが,これにて本エントリはお終いです.お付き合い下さり誠にありがとうございます.
中学のときにクラスのあいつとあの子がつきあってるって話題になったとき、
そういうのはませた一部の人達だけで、自分を含む大多数にはまだ早いのだと思った。
高校のときに、中学では大人しかったあの子が今はやりマンなんだって話を耳にしたとき、
セッ○スなんてこういう不良が面白半分にしているもので、
大学で同じサークルの先輩が彼女と同棲しているなんて聞いたときには、
しかし大抵の大学生が恋愛したりセッ○スしていることは想像したこともなかった。
社会人になり、知り合いが結婚するって人伝いに聞いた。でもまだ結婚するやつなんて少なかったから、まだ俺には関係ないなと思った。
しかし同年代の大多数は恋愛経験を積み、すでに恋人をみつけているということに気づいて愕然とした。
俺が女の子と付き合うのはまだ早いのだと、ずっとそう思い続けてきた。
いつそういう時期がくるのかはわからないが、そのうちだろうと軽い気持ちでいた。
セッ○スは2次元やAVの中の出来事でリアリティがなかったから、こんないやらしいことをみんなしているなんて思いもせず、
とてもいい経験をして、
とてもいい環境にいるのにも関わらず、
スタンド使いの如く似たもの同士を呼ぶ傾向があるため、
深みに陥りやすい。
口は回るけど、何の生産性もない人のこと。口を回すことが趣味。
先にあるとびっきり楽しいことよりも、
目の前にある小さな幸せや嫌なことに振り回される人。
嘘も本当と思い込んでる人。
オトナになるほど増える。
流されても前に進むことはできるけど、行きたい先がどんどん見えなくなる。
流されて前へ進んでいると思っていたら、川の底へ沈んでいた。
どの年齢にも一定数存在する。
目指すべき目標⇨とるべき行動という本来の順序を反らし、
目標がどんどん遠ざかっていく。
壁にあたった人ほどなりやすい。
周りの環境があわないとどんどん捨てて進む人。
それがよい方向に進む人もいるけど、落ちて行く人も多い。
通報を受け(下の増田では口座振込みの腹いせとの説あり)たはてなの対応はともかくとして、ブログは公共スペースかどうか、議論が必要ではないだろうか。
すなわち、ネットに公開されたブログは私的なものではない、公的なものなのか、という話である。
仮に公的なものなら、これからいくら規制されても我々は黙る外ないだろう。公共は、言ってしまえば万人の共通部分である。一人でも不快にさせてしまうものがあるなら、それは改善されねばならない。それが真の公共だ。公共ではディスアドバンテージによる差別はもちろん、学歴、職歴、可能なかぎり性別による差別も許されない。だからトイレは男女にかぎらず、だれでも使えるものがたいていは用意されている。
仮にエロがダメならば、横断歩道無視だろうと割れ自慢だろうと犯罪行為も規制されてしかるべしだし、買った商品のネガティブな批判も通報されて削除されるだろう。逆に言えば、これらはいいけどエロはダメという理屈は通らない。すべて公序良俗を損ねるものである。
おそらくはてなのスタンスは通報されるまで放置、だろうが、背景を知らず、ただただ通報したものを事務的に処理していけば、自然とそうなる。はてなも普通の企業になったね(悪い意味で)、という象徴的な出来事のように思う。
思えば、近頃ニコニコ動画でも、通報が入った場合はひとつ間を挟む形式を採用した。これはこれで住み分けができるのだろうが、ニコニコ動画もはてなと同じ道を通っているようでなかなか興味深い。
はてなにせよニコニコ動画にせよ、人口に膾炙したサービスは底辺なり、過激な一部の人間に配慮した対応を取らざるをえないのだな、というのがよくわかる。2チャンネルは長く持った方ではないか?
ともかく、ウェブサービスをこれから公開するにしろ、ブログなりつぶやきなり公開するにしろ、実社会と同等の扱いをされることが増えてくるのではないか。それはネットが普及したことの証左でもあるが、生きにくい実社会がウェブ上でも再現されるということだ。
たったひとつのつぶやきが逆鱗に触れ、ブロックを通り越して名誉毀損で訴えられるかもしれない。著名な人間なら免れようが、フォロワー数2000程度の弱小漫画家が過激な言動をすると、首を吊らねばならぬなんてこともあるかもしれん。
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20101212/p1
ここで、「間接的な殺人」とは、現行法で処罰することができない、「一枚以上の壁」を隔てた殺人すべてと定義します。
もちろん、すべての殺人は偶然に依るものだ、という主張を否定するつもりはありません。
これからの時代、その「間接的な殺人」を、自己意識に基づいて確信的に行なうだろう層が現れるという、いわば予言です。
彼の背景には、しかしながら、それはそれで一部の人に共感されるような、卑近な背景を持っていました。
一部の人ができなかったことを、加藤被告は一線を踏み越えていたのです。対象はともかく。
そして、彼が為したことは、法律で裁かれなければならないものです。
けれども、それはあくまで彼が直接手を下したから、現行犯逮捕に至れたわけです。
多くの人間は、おそらく一度ぐらいは殺意を抱いたことがあるのではないでしょうか。
私自身は、まだ殺意を抱いたことはありません。
しかし、いつ衝動的に、あるいは信念を持って、人を殺してしまうかはわかりません。
ですが、「溜め」のない人間が今の社会生きづらいことは、ある程度察知できるぐらいしか、溜め込んでいません。
では、そっちに行ったとき、何らかの殺意を持った私、あるいは周囲は、彼と同じように直接手を下すでしょうか?
目の前に先鞭をつけた人間が犠牲になったのだから、そうしてしまっては進歩がありません。
では、どうするか。
そのとき、私たちが殺しました、と誇ってしまうかもしれません。
ですが、我々を捕まえることが、裁くことが、できるでしょうか?
もっと確かな方法があります。
合法的に、殺せますよ。
こうしたように、自ら手を下しておきながらも、間接的に人を殺すようなケース、罪に問えないケースが、
どれだけでてくるでしょう?
陰湿だ、とおっしゃるあなた、私より「溜め」があるだけで、あなたも、じきその気持がわかりますよ。
ところで、「それはお前も殺される可能性があることだ」と言いたいあなた、賢いですね。
そのとおりですよ。
Kill or Be killed.
Living dead or Dining alive.
俺はゲームが大好きだった
子供の頃からだ
一番好きなゲームはメガドラのエイリアンソルジャー
でもね
今
ゲームがおもしろくないんだよ……
俺はCoDも大好きだった
3のマルチも狂ったように延々やったよ
でも
今月発売された新作のBOでは
キャンペーンの各レベルに配置された隠しアイテムを、ひとりで延々探している……
おまえもスト2好きだったろ?
俺もだよ
誰の家でスト2やっても自分が一番強くて
調子に乗って初めてのゲーセンに行ってみたらボコボコにされたよな
でも
俺の体は毎晩勝手にXbox360の電源を入れ、拳が痛くなるほど台パンを繰り返す……
使いたくもないキャラでボコボコにされながら、全キャラBランク入りを目指すために……
わかるか?
実績だよ
実績なんだ
ビル・ゲイツがウィンドウズビスタを作る片手間に考えた
この
実績という
俺を責め苛むんだよおおお
いいか
CoDのマルチはよくできてるが実績がないという最大の欠点があまりに大きすぎる
デススマイルズのオンラインcoopは楽しいけど実績ないからやる価値なし
でもな
実績のためならなんでもやるんだよ
白痴の顔をしながらデッドライジングで徹夜でゾンビを轢き殺し続けるんだ
誰か
Achievementという語を取り除いてくれ
ついでにTrophyもだ
それからビル・ゲイツに、この十字キーのまま発売したら世界が滅ぶぞと伝えてくれ……
実績は生まれてはいけなかった……
人類がなんとしてでも誕生を食い止めるべき悪魔のシステムだったんだ……
実績は何もかもを変えてしまった……
助けてくれ
誰か俺を救ってくれよ……
ハードって何さ?
いわゆる最先端ハード CPUなんかは、設計は とんでもなくインテリで少人数。作るのは機械という世界で普通の人には携われない領域だし
どんな分野だって、グローバル社会の中で競争を繰り返している以上 単純労働はどんどん置き換えられていってしまう。
やりたければ、最先端で戦える一部の人間が先頭にたって、そいつが便利なところに単純労働を集約するという方式しか無い。
最先端で戦える一部の人間がいなくなれば、関連する仕事もまとめて海外に行く。そうなれば、否応なく単価競争になって安いものが勝ちになって、どうころんでも、貧乏になるだけだ。
言いたいことはわかるんだけれどね、それにしてもここが大学と呼ぶに値するかは大いに疑問だと思うんだ。あなたが書いてるとおり
に尽きるんだよ。そして、海外どころか日本の外大附属短大レベルなの。語学以外の科目を日本語でやれば2年間でそれぐらいのことができてしまう(一部の人が言ってる「大学は英語で教えろ」というのがいかに愚策かという格好の証明だね。高等教育を母語で受けられるという特典は失うには余りにももったいないものだ)。結果、国際教養大に行くことは、普通の4年制の外大に行くことに比べてなんの優位もないんじゃないかな?
とても雰囲気がいい大学。すれちがった学生が自然に挨拶してくるの。
自然に挨拶できるのは、少人数だから「中の人間」の顔を一通り知っていて、「外の人間」を見ただけで判別できるというのがまずあるよね。それに、活気というのは創立まもない時期に話題が集まっているからこそという面もある。慶応SFCが数年で色あせた轍を踏む可能性はないのだろうか?
まあ、高卒・短大卒と同等の「兵隊」が欲しいならそれでもいいのかもね。しかし今でさえ、外資系などでは「英語『しか』できない人間が大きな顔をしている」と揶揄されていて、現在英語「しか」できない人材がバブル起こしていることはもはや周知の事実。となれば、この大学の卒業生の市場価値はいつまで持つのだろうか?
逆に、普通の研究型の4年制大学を出ている人材は、文学・歴史でも専攻していない限り英語論文の読み書きを指導されている。そういう人材に半年かそこら本気でしゃべる訓練を施せば、専門能力と英語力を兼ね備えた人材のできあがりだ。一方で、ここの卒業生みたいな学生が専門能力を磨こうと思うのなら、どこかの大学の二部にでも入って勉強し直すしかないだろう。何しろ、卒論やゼミをやっていないのでは学士様として使い物にならないといってもいい。
そういう学生には、まさにうってつけ。
ところが、海外に出てもしゃべる内容がなければ向こうのガキ以下の価値しかないわけだよ。つまり海外では全く使い物にならない、国内でこそかろうじて戦力になる。例えば企業にとって「翻訳通訳」が必要となるのは経営や知財や法務に関する場面だろうが、だとすれば「翻訳通訳」ができるためには相手方の言語だけではなくて経営や技術や法律に関する知識が必要だ。早い話、英語の技術文書を書かせたら、英語ネイティブのガキよりも俺の方がずっと上なのは明らかだ。そして、ここの卒業生は下手したら「英語ネイティブのガキ」よりも英語はできず、「英語ネイティブのガキ」並にしか専門知識がない。まるで市場価値のない人材だよ。
国際教養大は、英語環境を充実するために、たくさん外国人留学生を呼んできてる。
彼ら向きの講義も、それなりにあるみたいだけれど、
それがまずおかしいんだよな。HP見ても、「外国人」は白人ばかりだ。多分米英豪ばかりから呼んでいるんだろう。しかしあなたの言うように彼らにとってこの大学の講義には価値がない。むしろ「外国人」を呼ぶなら非英語圏、準英語圏(旧植民地など)から呼んでくるべきだ。中韓台、あるいはマレーシア、インドネシア、シンガポール。それならば向こうだってわざわざ日本の田舎に来る価値があるだろうし、企業が喜ぶのも、むしろそのあたりとの付き合い方がわかっている人材じゃないのか。
結局、この大学は英語コンプで商売してるという意味でNOVAとやってることが大差ないと思うわけだよ。ここの学生を採るくらいなら、普通の大学で国文学とか日本史みたいな「役に立たない」学問をやってた人間の方が、ゼミや卒論を一通りこなしている分マシかもしれない。そのあたりの事情が結局あれだけ鳴り物入りの割にはお粗末な就職実績に表れているのじゃないかな。
また補足書く。
今気になってるゲームがあって、アロッズオンラインっていうんだけど、これはまさしく スポーツ のようなものらしい。
完全にプレイヤースキル依存で、じゃんじゃんPKされる。PKしなきゃどうにもならない仕様にわざとしているらしい。
PKって概ねスポーツだよね。殺し合いスポーツ(?)というか。
ソーシャルゲームだったら、数字が大きいほうが絶対に勝つし、勝たなければクソゲー、バグの烙印を押される。
で、このスポーツスポーツしてるアロッズオンラインだけど、えらく不評らしい。
これがまさに、マニアック化して一部の人間しか出来なくなったゲームの典型だと思う。
こういうのはもう、無理でしょ。全員が全員やるのは。本当に一部の人しか出来ない。いや、やれるけど続けられないという。
こういうものが俺は衰退していくと思っていたんだけど、おそらく縮小するだけだ。縮小は衰退と同じか(w
プロスポーツの世界はなくならないからね。STGや格ゲーみたいなマニアックなゲームの代表格は、既にスポーツの世界の野球やサッカーみたいなもんだろう。
それらは一定数発売され続けるんだと思う。ただ、万人がやれるものではない
元増田だけれども。
【本人の考え=作品】
って構図でしか見られないならそれは仕方がない。
いや、そうは言ってないよ。
ただ、全く切り分けられるとは思ってないだけで。
これはまぁ同意かな。
自分は元増田と全く考えは真逆で、ネットでの配信という敷居の低さは
作品の質そのものが見出せる物だと思っている。
いや、これもほぼ同じ意見。
だから、純粋に作品で勝負したいって言う人は
メジャーに行くより、ネットで満たされたちゃうんじゃないのっていう話だから。
これはまぁ半分はそうだなーと。
ただ、アマとプロの違いってもう限りなくなくなってきてるよね?
坂本龍一とかもこの辺り(http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY200812180219.html)で言ってるけどさ。
古い記事の引用で申し訳ないけど。
ネットは一種の民主化を起こした。それはよいことだと思っています。かつては、多額の投資をして工場を運営する一部の人や企業しか音楽の複製と頒布ができなかったが、この独占が崩れた。ネットの登場で、工場もお店もいらなくなった。質を劣化させずに、大量複製ができるようになった。誰でも曲を発表し流通させることができる。プロとアマチュアの境目はなくなりつつある。マイスペースなどネット空間では素人も有名人もフラットに扱われる
さらに、何のために音楽を作るのかについて、こう語っている。
ネットのおかげで、ぼくはたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆に分かった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。
結局、こういう感覚がある人はやっぱりこの先の音楽業界をどうしたって悲観的にしか見れない。
「万人に受ける音楽」を作ることが、そもそも創作のきっかけとして違うんじゃないかっていう
ところを考えるか、それを割り切って考えるかっていうのは、もうそれは人それぞれだからいいんだけど、
今の業界の状況が、その「万人」が出した答えなんじゃないの?
っていうことは言っておきたい。
テレビの中から、夢を見せたり、語ったり、そういうことやる人が居なくなったよね。
『大衆』の立場では、そういうものを信じられない世の中になったと思う。
だからなのか、今の20代より下の子たちは現実主義的で刹那主義的。その場が楽しければいい。
で、テレビの中の世界とか政治家とかの「スゴイ人たち」は、夢を見せるのが一番の仕事なのに、
不景気やら業界規模の縮小やらで、影響力を持ちにくい、理想主義者や若者はどんどん切り捨てられた。
利己的で扇動力のある人間、上手く立ち回れる人間、彼らに扱いやすい人間ばかりが生き残る。
この時代、「プロ」を志向したり、業界経験のある人は知っていると思うけど、
今から叩き上げで入ろうとしても、既にポジションを確立した一部の人間以外は搾取される宿命だ。
働けど楽にならざりき。
一部の人には有名なPvsNP(P!=NP)問題の別解をhttp://arxiv.org/abs/1008.2247でまとめたのですが、twitter弄っていたらなんかまとまったのでこちらにも転載しておきます。
誰か突っ込みをお願いします。
まずチューリングマシン(TM)の大きな特徴を考えます。TMの計算力の源として「複数ある入力をまとめていくつかの計算結果にする」というものがあります。
例えば足し算 1+2+3+4+5 は、あらかじめ定められた計算によって15という計算結果となります。 10+5, 1+14, 5+5+5 なんかも同様ですね。これらの入力も結局は15という計算結果にまとめられます。
もちろん、人間の別の入力やランダムを活用すれば何とかなりますが、基本は入力だけに依存するという条件になりますので、入力が同じならば結果も同じになります。
「複数ある入力をまとめる」というのがTMの特徴だとすると、その入力同士の関係はどのようになっているのか?というのが http://arxiv.org/abs/1008.2247 の骨子です。
TMの入力と出力の関係が簡単であればあるほど、計算する時間も短くて済みそうです。逆に入力と出力の関係が複雑であればあるほど、逆に計算する時間が長くなるでしょう。
では、TM計算量と入力/出力の関係はどういうものがあるのか?
関係を扱う数学の道具はたくさんありますが、ここで私は大好きな対称性を使ってみました。
複数の入力をまとめる時、決定性TMでは高々1つの文字しか変更することができません。計算途中のテープの文字は一致している必要があります。
しかし、入力/出力の関係が複雑だと、これをまとめあげるのに多大な苦労があります。気を付けないと、間違った入力まで一緒にしてしまう可能性があります。
そこで、http://arxiv.org/abs/1008.2247 で一つ仮説を立てました。 「テープ全体を使って、テープの変更する場所&文字を1ヶ所以上決定できる」 この関係が常に成り立つのがPではないかと。
HornSATやCNFSATをベースに色々と弄ってみたところ、ビンゴ。あたりのようです。このような問題を秩序問題と名付けました。
秩序問題が来れば今度は混沌問題でしょう。ということで混沌問題を定義して対比させます。
秩序問題は下記の通り「計算結果が対称となる1文字を活用して虱潰しに可能性を制限することができる」という特徴があります。
ならば、混沌問題は「複数の文字がセットでないと計算結果が対称にならない」ということでしょう。この複数の文字を拡張文字と名付けます。
こちらもビンゴ。あたりです。CNFSATやSATでは、拡張文字の長さに上限がありません。つまり、拡張文字は無数にあることがわかりました。
それでは、拡張文字とは何でしょう? 「0,1,2……を使った数の表記みたいなもの」です。文字を組合せて使うことで、その部品だけでは表現できなかったたくさんのことを表現する文字です。
秩序問題にはこの拡張文字のような「一つに固まった塊」「どこまでも増えていく塊」という概念はありません。結局文字一つ一つをバラバラに扱えますので、塊として扱う必要がありません。
そして、拡張文字は、長さのべき乗規模で数が増えていきます。 ……ここで「指数規模」というPvsNPに繋がるギャップが出て来ました。
ここまで来ればあと一息です。
秩序問題と混沌問題の違いを浮き彫りにします。 まず、NP完全の混沌問題はP完全の秩序問題そのものでは表現できません。そして、指数規模に膨れ上がった拡張文字のせいで、秩序問題を多項式規模で繋げても混沌問題を計算することはできません。
よって、P(秩序問題=P完全) << 混沌問題=NP完全 となるので、PvsNPはP!=NPとなります。
……という話をhttp://arxiv.org/abs/1008.2247 にまとめています。 誰かコメント貰えると助かります。 もう自分じゃギャップ見付かりません…………
http://arxiv.org/abs/1008.2247 の日本語ファイルはhttp://arxiv.org/e-print/1008.2247v4 にあります。拡張子を.tar.gzに変更して展開して下さい。
@Hamachiya2がぶちまけて大荒れしている電話問題。
個人的には電話大嫌いなので、支持したい。
ただ気になるのが、この人の話を聞かない態度。
なぜここまで傲慢なのか。
「ぼくは電話が「突然時間を奪われること」を問題にしてるのであって「時間を奪われること」を問題にしてるのではないよ。メールも突然だよ、時間奪われるよとか言ってるひとってあたま大丈夫なのかなー」
「情報弱者の方をそのまま情弱などと呼んでしまうと差別にあたるので、ちゃんと「ITに不自由な人」と呼ばなきゃだめだよ」
「自分の意見を公に晒されて反論される度胸がないのなら、@もニックネームも使わずに仲間内だけで思わせぶりに不満をつぶやいておけば良いのに。賢明な一部の人はだいたいそうしているからそれで大丈夫だよ」
「自分の都合を押し付ける理由に「相手の度量」とか持ち出すとかってアホか」
そしてこの発言。
「相手の立場に立って考えてみることって大事だよ」
どの口が言ってるのかと。
この際だから書くけど、プログラマって選民思想強すぎじゃない?
なんで自分たちが頭がよくて特別だと思ってるんだろ。
ちなみに俺もプログラマね。
「なんで営業畑っぽい人って「思いついたら今すぐ電話」があんなに好きなんだろう。素直にメール打てばいいのに…」
こんなの職種によって時間軸が違うからに決まっている。
そこでなぜ技術職が優先されるのが当然だと思うのか。
でもさ、君達はただの兵隊プログラマじゃん。
君達の理想の為に営業職の時間が犠牲になったり、仕事の仕組みが変わったりはしないんだよ。
それは会社にとって君達のリソースがそこまで大切じゃないから。
ホントに大切なら、プログラマには社内電話は掛けないとか取りつがないっていうルールを会社側が作るよ。
それをしないのは会社が「バカ」なんじゃなくて、君たちの時間の価値がそこまでではないから。
いい加減プログラマだけが特別な職業で高度な仕事をしているという選民思想は捨てたほうがいい。
代わりなんてたくさんいるんだから。
非モテの高校で恋愛しないと取り返しつかない、人間歪む的な意見を見るたび不思議なんだけど、男ってそんなに高校時代に恋愛したかったん?
中高までは恋愛ってごく一部の人がやってるなーって感覚で、皆が当たり前にやる、やっとかないと一生歪むなんて重大な物に見えなかったよ。
むしろ恋愛を誰でもする、しないと取り返しがつかない、一生歪むレベルでヤバいのは、20代に入ってからだと思うんだが、特に後半。
私も中高は恋愛に無縁だったけど友達や部活で充実してたから悔いはないし、その後の恋愛で取り返しがつかないとも全然思わないんだけど。
ギャルゲやりすぎて高校神聖化してんじゃないの?ギャルゲみたいな恋をしたい→高校生じゃないから無理!じゃなくて現実だから無理!だよ。
現実の同級生に恋をして恋愛したかったなら、何でもうちょっと格好いい身ぎれいな女受けする男にならなかったの?
非モテってどこでそんな服や眼鏡みつけてきた、どこで頼んだらそんなに酷い髪形になる!って感じで、むしろもてない方向に全力投球で頑張ってるように見えるよ。
自慢の母だったんです。
父は私が幼い頃病死。そこから女手ひとつで育ててくれた。
1人でお店をはじめ成功させた。「みんな店長の人柄に魅かれてこのお店に集まってくるのよ」とお客さんにも褒められた。
60代後半に見えないくらい若いし、同年代の人と比べても柔軟な頭を持ってる方だと思ってた。
だから、その分ショックが大きかった。
そういう人たちは昔「えったもん」と言われててね。
そんな人達と結婚したらあなた自身だけでなく子供、孫までかわいそう…」
買い物帰りの車中の会話。
今時こんな時代錯誤な思考をする人がいるとは
結婚をする予定は今のところ全然ないしお肉屋さんや鞄屋さんの知り合いもいない。
その場では「その考えあんまり好きじゃない…」と濁らせたが、いつかハッキリとそういう差別はして欲しくないと言おうと思っていた。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3060010.html
今日、このページを印刷して見せた。結構な量があったが最後まで読んでくれた。
「ああ、こんな酷いことがあるなんて。お母さんの考えが間違っていたわ」
落ち込みながらこう言ってくれるとばかり思い込んでいた。
「ほら、こういうふうにね世間には差別があるの。苦しんでいる人がいるの。
あなたのことを大事に思うからこそ同じような辛い思いはさせたくない。
肉屋と鞄屋の人とは結婚して欲しくないという気持ちは変わらない。」
…そうきたか。
どうやら母自身には差別をする気持ちはないのだが
世間からの風当たりを考えてそのような人達と結婚して欲しくない、という考えだそうだ。
「その考えは間違ってるよ。差別意識を持っているということは自分に教養が無いって言っているのと同じだよ!」
「教養が無いと思われたらそれはそれで仕方がない。人それぞれ考え方は違うんだから。」
「"考え方は人それぞれ"っていう問題じゃないよ!差別はいけないことなんだよっ!!なんでそんな単純な事が理解できないのっっ!!!」
いつまでたっても平行線。母もわたしも変わらない。だんだんイライラしてきた。
ヒートアップしてきた私は机をバンバン叩きながら大声で罵倒していた。
「お母さんは今までどういう教育を受けてきたんだっ!!こんな親に育てられたのかと思うと恥ずかしいっ!!!」
「わたしとあなたは別個の人間。他人の思考を変えようなんて傲慢!」
…反省しています。
非実在青少年規制反対派のごく一部の人とか攻撃的で怖い所があって、いやもっと冷静になれよ・・・って傍から見て思ってたけど
思考が合わない人間に対して冷静さを失い(物理的にも)攻撃的になるという人間に今回自分自身がなってしまいました…。
でも今わかりました
20代になってやっとわかりました。
母と私は別個の人間である。
そんなことはとっくの昔に理解していたと思ってたんだ。
でも心のどこかで細かい所は違えど信念とか心の芯の部分とかは同じだと思ってたんだ。
でも違った。
結局母は、年の割に物分かりがいい特別な人間ではなく、
年相応に頑固で融通の利かない古い思想をもった"ごく普通"の人間だったんだ。
わたしは諦めた。
親に対して諦めるってこういう気持ちなんだ。
違う。
母の気持ちもわかる。
いやだからって考え古すぎないか
とりあえずどうやって仲直りしようか考えてます
仲直りできるのかな…
あなたの考えには同意できないけど、考え方は違うけど、けど一緒に生活し続けたいんだ。
深刻で基本的には世代間の負担の問題である。
ことによってこの問題を改善することは不可能だろう。
一部を税方式にして徴収能力を強化したりといった
上げるための改革は一層難しくなる。
若年層が世代の利益を確保するには、
この利益配分争いにうまく付け入るしか方法がない。
仮にあなたが年金問題の世代間不公平を
「高齢世代は、将来世代のために応分の負担を」
といった記事ではインパクトが弱く失敗に終わるだろう。
もっと、個別の層にターゲットを絞るべきだ。
例えば、裕福な高齢者の生活を分析し、
こんなにたくさんの年金支給が必要なのだろうか?と問いかけ、
「厚生年金の報酬比例部分の支給は切り下げるべき」と議論を持っていく。
そうすれば、多くの若年層だけでなく
あるいは、70代で元気に働く高齢者を紹介し、
元気なお年寄りが多い今、65歳で引退する必要があるのか?と疑問を呈し、
生活保護の稼動年齢の基準は70歳にすべき、と持っていく。
仕事確保のため、役所の単純作業を割り振るのも一案だ。
多くの有権者の支持を受けられるだろう。
有権者の平均余命より後の部分について年金の段階的削減を提案するのも一案だ。
多くの人は「長生きの人はこれだけ得をしているのだから」
と納得する可能性が高い。
喫煙者の肺疾患は保険でカバーしないといった方法も考えられる。
こうした策略に満ちた社会は寛容性が低下しており
望ましい社会とは言えないだろう。
「日本国民である以上、過去に日本国が犯した犯罪に責任を持て」ってことなんだろうけど、
それならば「北朝鮮国籍持ってる在日は拉致事件に責任を持て」と言ってもいいんだろうか?
「一部の人間が国の名を借りて行った犯罪であり、一般の国民は無関係」と言うのなら、
逆に、国家や民族による犯罪は、その国家や民族に属する国民にも責任が及ぶとすれば、
右翼は日本の戦争犯罪の責任を認めた上で、拉致問題の責任を在日に追求すべきだし、
在日は北朝鮮の拉致事件の責任を認めた上で、戦争責任の追求をすべきだろう。
「〇〇については謝罪します。でもお前らは××について謝罪しろ」となるか、