2010-12-12

間接的な殺人可視化される時代

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20101212/p1

ここで、「間接的な殺人」とは、現行法で処罰することができない、「一枚以上の壁」を隔てた殺人すべてと定義します。

もちろん、すべての殺人は偶然に依るものだ、という主張を否定するつもりはありません。

これからの時代、その「間接的な殺人」を、自己意識に基づいて確信的に行なうだろう層が現れるという、いわば予言です

加藤被告は、秋葉原で多くの人を殺しました

彼の背景には、しかしながら、それはそれで一部の人共感されるような、卑近な背景を持っていました

一部の人ができなかったことを、加藤被告は一線を踏み越えていたのです。対象はともかく。

そして、彼が為したことは、法律で裁かれなければならないものです

けれども、それはあくまで彼が直接手を下したから現行犯逮捕に至れたわけです

多くの人間は、おそらく一度ぐらいは殺意を抱いたことがあるのではないでしょうか。

私自身は、まだ殺意を抱いたことはありません。

しかし、いつ衝動的に、あるいは信念を持って、人を殺してしまうかはわかりません。

私はおそらく、まだ「溜め」のある人間なのだとおもいます。

ですが、「溜め」のない人間が今の社会生きづらいことは、ある程度察知できるぐらいしか、溜め込んでいません。

ですから、私もいつ「そっち」へ行くかわかりません。

では、そっちに行ったとき、何らかの殺意を持った私、あるいは周囲は、彼と同じように直接手を下すでしょうか?

いや、そんな愚かしいことしないだろうと断言します。

目の前に先鞭をつけた人間犠牲になったのだから、そうしてしまっては進歩がありません。

では、どうするか。



ひとつの例として、不買運動サイレントテロが挙げられます

そうして潰れた企業は、私たちに勝利の優越感を与えます

しかしたら、その中に自殺者が出るかもしれません。

しかし、それすらも、優越感を与えます

彼は、犠牲になったのです

そのとき、私たちが殺しました、と誇ってしまうかもしれません。

ですが、我々を捕まえることが、裁くことが、できるでしょうか?

私たちは、その企業の商品を買わなかっただけなのですから

もっと確かな方法があります

民間企業就職し、競合他社に勝つのです

合法的に、殺せますよ。

自殺は、自己責任ですからね。


こうしたように、自ら手を下しておきながらも、間接的に人を殺すようなケース、罪に問えないケースが、

どれだけでてくるでしょう?

陰湿だ、とおっしゃるあなた、私より「溜め」があるだけで、あなたも、じきその気持がわかりますよ。

ところで、「それはお前も殺される可能性があることだ」と言いたいあなた、賢いですね。

そのとおりですよ。

Kill or Be killed.

Dead or Alive.

Living dead or Dining alive.

これを胸に刻み、明日から社会という戦場へ赴きましょう。

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