http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20101212/p1
ここで、「間接的な殺人」とは、現行法で処罰することができない、「一枚以上の壁」を隔てた殺人すべてと定義します。
もちろん、すべての殺人は偶然に依るものだ、という主張を否定するつもりはありません。
これからの時代、その「間接的な殺人」を、自己意識に基づいて確信的に行なうだろう層が現れるという、いわば予言です。
彼の背景には、しかしながら、それはそれで一部の人に共感されるような、卑近な背景を持っていました。
一部の人ができなかったことを、加藤被告は一線を踏み越えていたのです。対象はともかく。
そして、彼が為したことは、法律で裁かれなければならないものです。
けれども、それはあくまで彼が直接手を下したから、現行犯逮捕に至れたわけです。
多くの人間は、おそらく一度ぐらいは殺意を抱いたことがあるのではないでしょうか。
私自身は、まだ殺意を抱いたことはありません。
しかし、いつ衝動的に、あるいは信念を持って、人を殺してしまうかはわかりません。
ですが、「溜め」のない人間が今の社会生きづらいことは、ある程度察知できるぐらいしか、溜め込んでいません。
では、そっちに行ったとき、何らかの殺意を持った私、あるいは周囲は、彼と同じように直接手を下すでしょうか?
目の前に先鞭をつけた人間が犠牲になったのだから、そうしてしまっては進歩がありません。
では、どうするか。
そのとき、私たちが殺しました、と誇ってしまうかもしれません。
ですが、我々を捕まえることが、裁くことが、できるでしょうか?
もっと確かな方法があります。
合法的に、殺せますよ。
こうしたように、自ら手を下しておきながらも、間接的に人を殺すようなケース、罪に問えないケースが、
どれだけでてくるでしょう?
陰湿だ、とおっしゃるあなた、私より「溜め」があるだけで、あなたも、じきその気持がわかりますよ。
ところで、「それはお前も殺される可能性があることだ」と言いたいあなた、賢いですね。
そのとおりですよ。
Kill or Be killed.
Living dead or Dining alive.