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「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
一月ほど前、突然思うように動かなくなった左手の小指。
一つ判っていることは 「局所性ジストニア」 という病気の可能性があるらしい。
痛くもないし、痒くもない。痺れてもいない。
全く動かない訳でもなく、曲げ伸ばしも出来る。
日常生活に重大な支障があるかと言えば、そうでもない。
しかし、思うように動かないし、力が余り入らない。
正しい動かし方を忘れてしまったような感じだ。
ギタリストと言っても、長年バンド活動を行ったもののメジャーになれずに沈み、
ギターしか取り柄が無いから、スタジオミュージシャンやったり、
左手小指が動かなくなってから、ギターは全く弾けていない。仕事も出来ない。
ギターを弾いてみると、押さえたと思ったフレットを空振りしたり、押さえきれていない。
当然、まともな音楽になんてなる筈ない。そもそも医者にもギターの演奏を止められていたりする。
でも、このままの状態が続くと、緩やかに絶望に近づいて行く事は明白だ。
別の仕事なんて出来る自信もない。また、雇ってもくれないだろう。
中学生の時にギターを手にして以来、人生の殆ど全てをギターに費やしてしまったツケが来たんだろう。
原因がわかってないので、個人的には楽観視出来ない。
皆の前では努めて明るく振舞っているが、内心相当落ち込んでいる。
人生も半分過ぎて、一番好きな物を無くしてしまうのではないだろうか。
俺は右利きなんだけど、左利き用のギターを購入して左利きのフォームでギターの練習を始めた。
今までは体の一部のようにハマってたギターも逆に持っただけで恐ろしい程の違和感だ。
やってみればそれこそ初心者以下で、音もロクに出ず、弾くというレベルにも達していない。
レフティでの練習は続けるつもりだが、音は出ねえのに涙がボロボロ出てきて辛い。
左手の小指、返しちゃくれませんかね。
今までみた漫画・アニメというと、小さい頃はドラゴンボールだったりスラムダンクだったり。
まあ誰もが見て友達同士話のネタになりそうなメジャーなものばかりだ。
そんな自分が、あるカラオケで女友達がけいおん!のEDを歌いだした。
プロモ一緒に流れて、最初は「何だコレwww」と思ってみていた。
歌を聞きながら映像を見ていると、ある事に気づく。
親近感を持たずにはいられない。
こういうアニメで左利きキャラは何か珍しいなーと結構見入ってしまった。
家に帰り、とりあえずけいおん!でググってみる。
するとEDがオリコントップとっただとか、ベースの子の漫画に出てきたヘッドフォンや楽器が実際に売上げ大幅アップしただとか、結構人気があるらしい。
ふむふむと見ていると、次第に原作が見たくなり今まで家電しか見に行かなかった秋葉原にけいおん!を見に行ってきた。
まずは漫画を購入し、読んでみる。
原作者が左利きの演奏者らしく、秋山澪というレフティの子にそれを反映させたいとあとがきに書いてあり納得。
見終わると、やっぱり最初気になっていた秋山澪が一番のお気に入り。
すると段々オフィシャルなイラストだけでは物足りず、同人作家が描いたイラストも見て楽しむようになる。
秋山澪がメイド服を着て手でハートを作るシーンや、平沢唯が声が枯れた時にお相撲さんの真似が妙にリアルだったり、印象的なシーンがニコニコ動画で編集されてアップされてるのも全部チェックするようになる。
無意識に秋山澪の壁紙を集めだして、集まった画像をまとめておく為に「澪」というフォルダを作りいれておく。
初めて増田に書くので色々と不手際があると思いますが、そこら辺は適当にスルーするか、律儀で真面目な方は
コメントなりなんなりでご指摘頂けると有難い、何せ「論理的思考」って奴が本当に苦手な人間なもので・・・
大目に見てやってくださいましm(_ _)m
http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20090404/1238773291
この手のエントリは正直誰が先に書くのかなーと気になってたけど、案の定放映された直後に数日程度で書かれていて、
しかもちゃんと純粋に楽器を演奏する楽しさや誰かと共に音を奏でる幸せを知ってもらいたいという熱意がエントリに溢れていて、
それがとても嬉しかった。私のこのエントリはその補足にもならないかもだけど、まぁ増田ってことで書き殴らさせていただきます。
私は高校を卒業してもう10年近く経ちますが、私の経験からすると「軽音楽部に入部する」という行為ははっきりいってかなりの
ハードルがありました。学校によって上下関係がどうなのかは想像の範囲を超えませんが、まず最初に外見か楽器の腕前で先輩からの
評価が下って、人によっては場合によってい辛くなることが往々にしてありました。私の高校時代はそうでした。
何より「けいおん!」を視聴している方のほとんどが楽器に触ったことなどない方なのではと自分勝手な予測を立ててしまったり
します(ニコ動を見てると唯や澪のキャラクターとしての可愛さ、OP/EDの完成度にばかり目をくらばせている匂いがするので・・・)。
実際の軽音部というとかなり柄が悪い印象が先走りして、さらに自分が在学中の頃は後輩を無下に扱うような態度が蔓延っていた印象が
あって、そういう風潮はけっこうどこの学校でも存在していたのではないかと勝手に推測してしまいます(違ったらごめんなさい)。
そういう慣例が今はないこと願いつつ声を大にして伝えたいことがあるとするならば、
・楽器はいつ何歳になっても始められるし、上達することができる。
・今まで触ったことのない新しい楽器を触るだけでも人は幸せだと思える。
・そして誰かと共に演奏したときの一体感はどれだけ色んな見識を積んでも経験できないし、どんなアカデミックな知識や
そこから生まれる共通観念を理解しても、こういった経験をしなければまるで別種の感覚であることを絶対に知りえることは
できない。
ある程度演奏できるようになっても「上には上がいる」と自分を卑下していませんか?
貴方が好きな音楽を、他人の評価に影響を受けて尻込みしたり過小評価したりしていませんか?
「音」を「楽しむ」から音「楽」なのです。学問で「学」ではなく「楽」と書くものは音楽だけです。
その意味を理解できていますか?音楽がどれだけ人生を豊かにしてくれるか、そのことを軽視していませんか?
ここ数年で楽器も随分安価になりました。特に弦楽器は澪のようにレフティでも安価なものが手の届くようなものになりました。
どうか音楽を聴くだけでなく、音楽を演奏する立場に立つことの喜びを知ってもらいたいです。
唯が幼少時にカスタネットを叩く姿を思い出して、どんな楽器でも誰かと共に音を重ねる幸福感を味わってほしい。
そして何より、「けいおん!」の彼女たちのように常に喜怒哀楽をストレートにぶつけられる友人を見つけてほしい。
つまらない、めんどくさい、そう思わずに飛び込んでほしい。おっさんはそう思っています。
冗長な駄文、失礼致しました。