はてなキーワード: バラエティ番組とは
長時間残業が続いた昨夏の終わり、パニック障害と診断されて休職に入って半年が経った。
症状はしんどいっちゃしんどいけど、体の変化がおもしろかったので書き残しておきたい。
・耳が敏感になる
民放のバラエティ番組の音に耐えられず、テレビを見るときはなるべく音量を下げるようにしている。
どうしてもしんどい時には家族に断りを入れてテレビ消してもらう。
これまでイヤホンで音楽を聴けていたのに、聴いていられなくなった。
高音がつらい。若い女性の甲高い声を聞くと血の気が引く。
・味覚が敏感になる
あと、お刺身やらレバ刺しが好物だったのに、ナマモノ全般を受け付けなくなった。
お寿司屋さんの店内に一歩はいっただけで生臭さにまいってしまう。
家族が外出のおみやげにナマモノの入っていない太巻きを買ってきてくれたことがあったのだけど、
「これ、太巻きを切るのにナマモノ切ってた包丁洗わないで使ってる!」ってわかった。
・皮膚感覚が敏感になる
苦しくてワイヤー入りのブラジャーをつけられない。
化繊の服を着るととても気持ち悪い感じがする。綿ばんざい。
・光に敏感になる
太陽光は大丈夫だけど、コンビニとかドラッグストアみたいな蛍光灯ビカビカがつらい。
日が落ちた後の普通の室内照明もしんどいので、スタンドライトとろうそくを使って過ごしてる。
・匂いに敏感になる
ボディショップやらロクシタンやらLUSHやらの香料がっつりのものに耐えられなくなって
・これまで着れていた派手目の服や下着、ヒールの高い靴がはけなくなった。
気合いがないとオシャレってできないんだな。。と実感。
化粧も、コンタクトつける気も起らない。
・髪の毛が伸びた
半年間ずっと引きこもって美容院に行っていないので髪の毛がだいぶ伸びた。
・肌がきれいになった
・中学校卒業してから引き篭っているので、もう21歳なのに、夢の登場人物がぜんぶ中学校の同級生
・テレビとか見たり、音楽なんかを積極的に効いていたのが中学校卒業までなので、好きな曲もそれまでのものばかり
・昔は騒がしいところやテレビが好きだったけれど、無音の引き篭もり生活を続けているので少しの騒音でも、ものすごくうるさく感じる(車の音や、スーパーの店内放送、バラエティ番組など)
・とても涙もろくなった 泣かせる系ヒューマンドラマとかではなくて、昔のディズニー映画とかを見ているとなんとも言えない郷愁感?みたいな感動が押し寄せて涙が出る
・自分の死体が森の中でだんだんと朽ち果てていくさまを想像すると、なんだかホっとする
・寝るのが一番の楽しみ というより寝る直前のウトウトが最高の快感
・昼寝しようとすると50%の確率で金縛りに合うが、慣れすぎて怖くない ちなみに幻覚も見る
・食の趣味が変わった 肉食いてーって思っていざステーキを貪り食っても昔のようにうまく思えない 漬物やナムル、焼き魚、うどん、そばみたいなものを最高においしく感じる
・物忘れが激しい
高校生まで地味でまじめに過ごしてきて、
都内の大学に通うために上京して、
WithとかMOREとか、そういう雑誌に載ってそうな小綺麗な雰囲気で、
割と堅実に将来考えてて、手堅くOLとか目指してそうな女子大生と
今頃は温かい家庭を築いているのというのが夢だった。
何も行動しなかった代わりに、何の代償も求めなかった。
人前で、あんな格好を平気で出来るなんて頭がおかしいとしか思えなかったし、
外見が落ち着いた感じで少しばかり良いなと思っても、
バラエティ番組で話している様を見ると馬鹿っぽくて幻滅することはしょっちゅうだった。
理想と違う物で埋め合わせる位なら、何もしない方がましだと考えた結果かどうかは知らないが
気づけば魔法使いになっていた。
野球少年にとってプロ野球選手というのは神なのである。野球界には、たとえば「守護神」という言葉がある。「代打の神様」という言葉も。古くは、「神様、仏様、稲尾様」というのもあった。
今日は日本シリーズの第1戦だった。ふとつけたテレビのスポーツニュースで、ひどく悲しい場面を見た。
番組で、ロッテの成瀬のメールを紹介していた。インタビュー収録ではなくメールの紹介という時点で本当にプロ野球まわりは不景気なのだなぁと感じたのだけれど、あろうことか、成瀬のメールの最後にこんな文章があった。
「(番組の司会だったくりぃむしちゅーの)上田さん、ホームランを打たれない方法を教えてください」
最悪だと思った。日本シリーズの第1戦に出てくるピッチャーということは、日本最強を争うチームのエースということだ。そのエースが、芸人風情に「ホームランを打たれない方法」を伝授してもらおうというのである。
私は大人だから、それが番組を盛り上げるためのひとつのギミックであることは理解できる(それにしても面白くもなんともないが)。だが、野球少年たちはどうだろう。あれを見て、明日もキャッチボールの練習をしようと思うだろうか。子どもはそのまま受け取るよ。「上田は成瀬より野球がうまいのか、へんなの」と、そう受け取るよ。
この国のスポーツマスコミは、いつからプロ野球選手を尊敬しなくなったのだろう。スポーツの感動というやつを、そのまま伝えることをやめてしまったのだろう。試合やイベントににぎやかしでタレントを呼ぶのはいい。だが、冗談でも言っていいことと悪いことがあるはずだ。
成瀬は、全国の野球少年の夢を背負ったエースとして、この依頼を断らなければならなかった。テレビスタッフの依頼に対して、激怒しなければならなかった。プロ野球選手として飯を食っている限り、その場所には、真剣に練習をして、真剣に試合に臨んで、勝ち続けなければたどり着けないのだということを、明確に示すべきだと思う。
上田は、「とんでもない、冗談じゃない、あなたに教えることなどあるわけがない」と、真剣に否定しなければならなかったと思う。狼狽さえしなければならなかったと思う。スポーツマスコミとして飯を食っている限り、プロ野球選手の価値を貶めるような言動や態度は、意識的に排除していかなければならないと思う。スポーツが死ねばスポーツマスコミも死ぬ。それは上田自身の食い扶持を減らすことでもあるのだから。
テレビのスポーツマスコミはもうダメになる寸前だ。今日、はっきりとそう思った。現場がスポーツに尊敬を持っていないのだから、それを伝えられた視聴者がスポーツを尊敬できるわけがない。何もかも、バラエティに侵食されて、成瀬がどれだけすごい訓練と技術を持っているのか、誰も理解できなくなってしまっている。
だけど思うんだ。もしスポーツマスコミに復興があるとすれば、そのヒントはきっと、テレビバラエティの中にあるんじゃないかと。
ここ10年、バラエティ番組は字幕テロップに頼ってきた。「めちゃイケ」も「エンタ」も「ロンハー」も、面白いところを全部字幕で流す。視聴者にわかりやすさを提供し、より広い層にアピールする努力を重ねてきた。昨今のお笑いブームを牽引したのは、まちがいなくこの字幕テロップという工夫だったはずだ。
バラエティにはバラエティの、スポーツにはスポーツの面白さがある。だったらスポーツだって、その面白さをそのままわかりやすく伝える努力をすればいい。成瀬と上田の軽薄なカラミなんかより、もっと面白いことが野球の試合のなかで起こっていることは、現場だってわかってるはずだ。
各局のバラエティ班は、バラエティの面白さを伝えるために血の汗をかいて字幕テロップという武器を手に入れた。それにより、バラエティは隆盛した。現在のテレビのスポーツマスコミは、そのバラエティ班の努力によって知名度を得たタレントや芸人におんぶにだっこで、本来、自分たちが伝えなければいけないスポーツの魅力を表現する努力を怠っている。
かつて、日本シリーズやプロボクシング、プロレスは国民的関心事だった。それは、スポーツにしかない感動がそのまま伝えられていたからだ。スポーツマスコミが、「こいつらはすげえんだ」と言い続けていたからだ。今だって、オリンピックやワールドカップになれば、スポーツマスコミは節度と敬意を取り戻すことができる。確かに野球の人気は下がっているだろう。だけど、せめてスポーツマスコミの現場だけでも、「プロ野球の日本シリーズは神々の戦いなのだ」という主張を怠ってはいけない。建前でもいいから、それを怠ってほしくない。野球少年から、夢を奪ってほしくない。それは、夢を与える仕事や、夢を伝える仕事に就いた者たちの責務だと思う。
今日の現場スタッフは、想像してみてほしい。ワールドカップのあの試合の直後に駒野がくりぃむしちゅー上田に「PKを外さない方法を教えてください」と言ったら、どんなことが起こったか。
笑いたくて野球を見ている者はいない。野球にはみんな、別の感動を求めているはずだ。もう一度、自分たちの仕事が何を扱っているのか、見つめなおしてほしい。
そうではないフェミニストも居るんだろうけど、目に付くのはこんな人たちばかり。
本気で言ってる?
ちょっとはてなブックマークでも見てれば
それこそどんな話でも「男が悪い」に持っていくフェミニスト、
「男への攻撃意欲だけで駆動してるみたいなミサンドリー女」なんか幾らでもいると思うけど。
(ここでidを例示しないのは出来ないからじゃなく個人叩きになるから差し控えるだけだよ)
「女らしい女」を見下して袋叩きにし、
ええー…
「女」はあくまで低い地位に置いたままで、男に混じって「女」を見下して叩きつつ
あの話のどこに男が出てきたの?
筆者はどの男に混じってたの?
世の中、そんな人間の同類と思われたくない女が大多数だから「フェミ(笑)」扱いになり、
ちょっと「フェミっぽい」女はいちいち「私はフェミじゃないけど」と言わないとイタイ人扱いされる、
ようになったんだろうと思う。
フェミがイタイ人扱いされる世間ていうのは確かにあるけど
世間はそんなフェミ内女性内派閥抗争まで認識してイタイって言うわけじゃないでしょ。
やっぱり「ミサンドリー型で世間や男にヒステリック」という人物像になると思うけど。
そのあたりの人たちの断片的イメージの増幅としての。
浸透してない…?
まあフェミニスト達の思うままには浸透してないのかもしれないけど
理由は別の事だと思う
それより更に上の「男」がニヤニヤしながらそんな女達を見ている、と。
あなたみたいな人を男が目にしたとして、
ゾッとして目を背けるだけで、ニヤニヤ見守ったりしないと思う。
ここにきて「10万人の殺人予備軍」という言葉がホットになっている
http://h.hatena.ne.jp/y_arim/9234096833783701106
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20100731/1280595764
http://d.hatena.ne.jp/enjokosai/20100801/p1
まぁ、この言葉自体「一人歩きした言説」ってことで流れが出来つつありそうで。
だが、だからといって、30代後半とか40代の「あの日ヲタクだった人間」が味わった苦しみが幻になるわけではない。
ずいぶんあの日々が遠くなったせいか、「あの日々の苦痛とはなんだったのか」が風化しているし、下の世代に「あの苦しみは何だったのか」
が伝わっていないような気がしてならない。
ということで、思い浮かぶことを書き連ねてみる。
あくまで書きなぐった印象論ということで、正確性について勘弁のほどを。
(1)「あの部屋は犯罪者の部屋だ」
ビデオテープと雑誌で壁の四方を囲まれた、圧迫感のある狭い部屋が「犯罪者の部屋」だった。
かつてはネットも無ければDVDもない。ビデオテープと書籍の蓄積がすなわちヲタクとしての記憶の蓄積だった。
友人との口コミ越しに、あるいはイベントでの会話越しにこう聞こえてきた
「あの部屋は俺の部屋とそっくりだ。ああいう部屋にいる人間は犯罪者だとマスコミは言う」
実はあの事件が起こるまで、オタクという言葉は「アニメとか特撮とかホラーとかが好きな、身なりに構わないキモい奴」という意味での
後ろ指をさす言葉ではなかったはずだ。
おたくという言葉の由来は結構あれこれ議論の的になったりするが、あくまで自嘲句とか隣接ジャンルの人間からの当て擦りの言葉でしか
なかった。
だが、あの事件の後からいつの間にかテレビでオタクという言葉が当たり前のよう流布するようになった。そしてそれが、
「彼」をアーキタイプとした「アニメとか特撮とかホラーとかが好きな、身なりに構わないキモい奴」を後ろ指差すための差別語として
当たり前のように使われだしたのだ。
そして、当時のテレビニュース・バラエティ番組は無批判にその構図に乗っかった。
(3) 「彼は本当のマニアではない」
あの日々にテレビに出ていた文科系コメンテーターがよく発していた台詞だ。
(この言葉を吐いてあの時代を乗り切った一人が頭に浮かぶが、ほかの人も似たような発言をしていたので名前あえて出さない)
曰く、「本当のホラーマニアならそんな考え方はしない」とか、「映像を撮るのに凝っているならあんなカメラの使い方をしない」とか。
苦し紛れに、あるいは同類扱いを嫌って吐いたその言説は、つかの間の安心感を得られたとしても、結局は仲間同士をばらばらにする寒い言説だった。
これは今のテレビ番組につながるものである、というかあそこが原点といってもいいのではないだろうか。
連日連夜ニュース番組「報道番組」の美名の下ステレオタイプの映像イメージを垂れ流し、ワイドショーもバラエティ番組も「報道番組化」して
さらにステレオタイプを垂れ流す。
「犯罪者の部屋」「アニメとか特撮とかホラーとかが好きな、身なりに構わないキモい奴」をイメージ化して勝手に犯罪者像をでっち上げ、
したり顔のコメンテータが上っ面の現代の病巣とやらを解説する。
もはや手垢のついた手法が、あの当時は極めて有効だったのだ。
今までオタクなんて言葉を知らなかったおじ様・おば様方までが、「ああ、気持ちの悪い犯罪予備軍のことでしょ」なんてイメージで語ることが
可能となったのだ。
まぁ、何が言いたかったかというと、「10万人の殺人予備軍」という言葉が出てくるだけの時代背景があの時代にはあったということだ。
今の世の中を見ると信じられないが、かつては確かに「あの苦しみ」は存在していたのだ。
最近になって気づいたことがある。僕はフィクションに興味が沸かない性分であるようだ。
映画や小説、漫画、アニメは話題であり、かつ個人的に気になったものを除いて、ほとんど見ない。
読む本のほとんどは新書や実用書だし、好きな番組のほとんどがドキュメンタリー番組で、バラエティ番組も、漫才やコントが中心のものよりも、トーク番組や面白おかしい企画をする番組のほうが好きだ。
小さいころもそうで、おとぎ話に全く興味が無かった。むしろ、図鑑のほうが好きだった。「こんなものがあるのか!」と子供ながら感激したことは今でも覚えている。
そのことを昨日学校で話していたら、「心を動かされるフィクション作品にまだ出会っていないから、お前はフィクションに興味がわかない」との意見があった。
確かにそうだ。単に感受性が乏しいだけなのかもしれないが、僕は今までフィクションの映画や本、ドラマを見て感動したことがないし、いくら名作と呼ばれているフィクション作品でも、心を動かされたことは1度も無い。
これ面白い!と言ったときも、大抵の場合は口先だけで、実際はほとんどが無味乾燥だったし、感想さえも持っていなかった。
もし仮に心を動かされる作品に出会っても、そこから先は何も発展していかないと思う。出会ったところで、それだけが好きな作品になってしまうだけだ。そこから発展していこうと思うことはないだろう。
日本のバラエティ番組は一時期アメリカのバラエティ番組のパクリだらけだったことをあちこちに書いていたんだが、無視されまくったんで疲れたことがある。
セミリタイアした大物司会者Oは早くから自宅にパラボラアンテナつけて外国のテレビ番組を見ていて、面白い番組を見ては自分が考えた企画のように局に売り込んでいた。
しかし1980年代後半からNHKのBS放送が開始され、パラボラアンテナが認知され始めたことで危機感を感じて番組製作から手を引いた。
その後は(順不同だが)「料理の鉄人」とか「風雲たけし城」とか「開運!なんでも鑑定団」のように、日本人発の企画がヒットされて海外でも楽しまれていることが知らされるようになった。
大物司会者が関与した番組、確かに面白くて視聴率も取れていた(だから今でも威張って出演している)けど、海外在住日本人とかのコメントがあるかというと、全くない。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20091130-00000002-aera-soci
珍しく本年の女性参加者は自分だけという紅一点の状態だったが、とても紅一点とは思えないほどの冷遇っぷりに新年早々鬱な気分になった。あとから来た男の人のほうが、店に入ってきたときに「お〜○○!」と歓声が上がったり、その都度乾杯もやり直してくれたりとよっぽど歓迎されてた感じ。ちょいと遅刻した自分は「入り口でもたもたすんなよ」と怒られたっきり。乾杯もし直してくれる気配がないのでその辺の梅酒を手酌で入れて、(アルコール苦手なのだが飲み放題でノンアルコールメニューが水かジュースだけ)新年会の間じゅう、一人ひっそり水で薄めては飲み、減ったら水を足し、を繰り返した。いや自分もそんな頻繁に他人へお酌とかしてないから、手酌はあんまり気にしてないのだが・・・。
「新年会だし」と、ちょっとがんばってお洒落をしてみたけれども、「増田には華がない!(下の名前で呼ばれる他の女性陣とは違い。当然、大学時代から名字で呼ばれている。)」「これだからおまえみたいな売れ残りは〜なんだ(〜内のセリフはもう忘れた)」等々、新年早々ダメだしコーナーとなる。お気に入りの服にはタバコの煙を(あえて)吹きかけられる。
そのへんのバラエティ番組級に、美人かそうでないかで女性への態度が変わる我がサークル内での自分の立ち位置は、引退後いつまでたってもヨゴレ芸人枠なのだな。というか「『女』芸人」扱いすらしてもらってないような。
自分の外見ぐらいはわきまえているから、別に、周囲のかわいい/きれいな女性陣のようにちやほやしてほしいわけではない。でも、扱われ方の格差社会に疲れきっている。ごくふつうの人として接してほしいだけなのに。
Twitterをなにもつぶやかないまま使っているが、それなりに興味ある情報が流れてくる事もあれば、安いテレビのバラエティ番組みたいなのもあって、それなりに面白い。
たださ、ネチャネチャ群れあってる有名人達(もちろんマイナー分野の中の有名人達だが)が散々群れあった後、「この世界的実験」とかいってるのを見ると、おもわずアホですか、とオフラインでつぶやいてしまう。
日本語世界に閉じこもって、日本語世界のマイナー分野の有名人が群れあってるだけで、一体何が「世界」なのか?
別に日本語世界から飛び出そうとか言っているわけじゃなくて、正直「世界」なんかうっとうしいだけなのでどうでもいいが、なぜ「世界」とか言ってしまう人がいるのかは、気になる。
だいぶ前ですが、mixiが株式を上場するのと前後して急激に路線を変更した。テレビ番組が「低学歴」「社会不満層」「下流」と括られる人々に向けて作られ、その質や番組作りのモラルが問われるご時勢ですけども(その最たるものが安上がりなだけが取柄のバラエティ番組とか、パチンコのCMとか、茶番なだけの報道合戦やみのもんたの舌禍ですね)、mixiも携帯認証を認め、年齢制限を緩和し大量にそういう括りで見られる人々を、ただ集めた。集めたはいいがフォローしたり啓蒙することを怠ってきた。肝心のインフラや雇用が未整備で都市型スラムが生成されてしまうのと同じような過程を踏んでしまったんですよね。つまり、大量のライトユーザと若年層が増えることで、全体の質が下がる。それにつけこんだ業者や犯罪も増える。結果的に生活環境はひどくなり、人は減り、世間からも糾弾され最後は存在自体が忘れられるか葬られる。いまじゃマイミク以外に積極的に足跡踏んでくるヤツはMLMとFX勧誘してくる業者かその信者、頭も尻も軽そうなネーチャンの援助募集と相場が決まってますからね。「足跡帳」ってわざわざ作ってあげてるのにただ踏みに来るだけ。この人たちは日本語が不自由なんでしょうか?でも携帯をいじれるくらいの知能はあるようですね(笑)で、そういう連中がガキを相手に営業活動してる。事務局も規約で謳ってるくせに取り締まろうとしないですし。いったいなんのための規約だよ、と灰皿を無闇に叩きつけたくなります(苦笑)
大阪市における弱者救済のための社会政策が、結果的に西成の生活保護率の異常な高さとそれによる市の財政危機を生み出し、さらにはそういう人々をエサにピンハネで懐を肥やす手配師。暴動を煽るプロ市民に麻薬を路上で売るヤクザ。mixiって例えたらそういう場所なんですよいま(苦笑)
「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」で有名な割れ窓理論*3というものがありますけども、そっくり当てはまる気がしますね、いまのmixiって。
「誰が見てもすぐ理解できる」
「みんなが参加できる」
それがこの体たらくです。必然的にもっともレベルの低いヤツを基準にしなきゃならないでしょ?それってテレビが衰退した事例と似てませんか?積極的に情報発信する人間がますます減り、ただ受け身なだけの人間が増え続ける。で、登録制ですもんねいま(まだ?)。招待制なくなって。
せめてmixiだけはそうなってほしくなかったですけども。そういうテレビを好んで観る層が大半を占めてしまったいま、それを望むのは贅沢なのかもしれませんね。
そういえば最近GREE真似て?mixiもついにあのアプリとかいうのを実装してしまいましたからね。質より量を、さらに促進しようという方針です。これはもうやばいなと。受け身でつまらない場所にしかもうなりませんよ。こないだも違法な動画アップでお騒がせな事件があった。西成の第○次暴動みたいに報道すらされなくなったらもう潰れますね。mixiはそういう場所なんだって認識されて。いや、もうされてるか(苦笑)もう続けていくのはやばいなとは思ってますけども、惰性でまだやめてません。どうせならその崩壊まで見届けてみたいという悪趣味な視点もありますしね。どんな事件でmixiが壊滅に追い込まれるのか(苦笑)
抽象的だと思う。
例えば、
という本来まったく別の要素がすべて同じ「空気を読む」という言葉で呼ばれている。
相手と意思を伝達しあう技術。ある感情・目標をひろく共有するための手段。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DF%A5%E5%A5%CB%A5%B1%A1%BC%A5%B7%A5%E7%A5%F3%C7%BD%CE%CF
コミュニケーション能力という言葉自体が多義的。
この論を読むにあたっての前提
・「バカ」とは単に学力に限らず、知的活動全般(コミュニケーション,芸術なども含む)における能力が劣っている人物を指す
・「美人/ブス」をx軸、「賢い/バカ」をy軸とし論を進める。(「学力/EQ(学力以外を暫定的にこう括る)」というz軸は議論を煩雑にするので省略する)
・「不幸」の定義が非常に曖昧ですが、「幸せが少ない」よりも「苦しみが多い」寄りのニュアンスで捉えてください
自意識を植え付けられた現代人に共通すると思われる欲望の一つとして、「自己承認欲求」というものがある。これは己が他者から承認されたいと思う欲望である。これが満たされない場合、人間はフラストレーションを募らせ、不安定な状態に陥りやすい。
しかし、当然ながらこの自己承認欲求は万人に対して保障されているわけではない。ここの自己承認欲求の不均衡が起きる。そして、危険なことに、この自己承認欲求を満たすために女性には安易な「性」という交換価値が与えられている。
しかし、「性」を交換して得られる自己承認欲求は概して薄っぺらく浅いものであることが多い。「性」と交換に承認を得た女性たちは、結果的により深い、より切迫した欠乏感に苛まれる。
典型例としては、「ヤンキー娘が男をとっかえひっかえした挙句に妊娠して高校中退」のようなものである。この場合、彼女は「勉強ができない」という劣等感や、不幸な家庭環境による愛情への飢餓を、「性」というエサに群がる男性から求められることによって補おうとしたものと考えられる(ヤンキー娘の家庭環境が不幸とは限らないという反論に対しては、前提条件で挙げた「バカ」が知的活動全般を含むという点に注意を喚起しておきたい)
しかし、概して、このような過程を経た出産、それによって形成される家庭というのは同じ末路を辿りやすい。これが文化の再生産・階級の固定である。彼女の、「性」をエサにして自己承認欲求を満たすというプライドのファストフード店は、妊娠・出産というクライマックスを経て閉店に追い込まれる。生まれる子供が女子であれば、その子供も「バカ」で「美人」である可能性が高い。
では、「バカでブス」の場合を例にとってみよう。彼女たちも「自己承認欲求」が満たされず、苦しい時代を余儀なくされるという点ではバカな美人と同じである。しかし、この場合、彼女たちには交換価値となる「性」がそれほど高い価値を持たない(まあそもそも若いってだけでブスであろうとデブであろうと性的価値はあるんだろうなとも思ったけど、飽くまで二者間の比較において)
よって、どうなるか。彼女たちは男性たちから得られる浅薄な愛情すら受けられず、非常に厳しい環境で生育することになる。最初は男性から求められるバカな美人を見て羨望に身を焦がすこともあるだろう。しかし、やがて気付くのである。あんなことをしても何にもならない。
器質的に同等の知力を持つと仮定した場合、大人と子供では大人のほうが賢い。なぜならば、それはそれまでに培われた経験、そしてそこから得られた「情報」が存在するからである。よって、「子供でバカでブス」よりは「大人でバカでブス」の方が賢い。そしてこの場合の「経験」は必ずしも自分自身によってなされる必要はないのである。バカなブスはバカな美人の失敗を見て学ぶ。
ここで、「でば、バカな美人であっても、経験によって己をブラッシュアップすることは可能なのではないか」という質問が成り立つ。それは正当な反論であり、その場合は「美人」というカードが役に立ち始めることもあるだろう。しかし、彼女たちの場合、それ以前に妊娠や結婚において、人生の再チャレンジにおける不利なカードを引かされている可能性も高いのである。
バカなブスは少しだけ賢くなって漕ぎだしていく。
バカな美人は錨を下してしまったため港から離れられない。
そのような意味において、「バカで美人」よりも、「バカでブス」のほうが、不幸に「なりづらい」という結論が成立する。
以下は余談
平たく言えば「同じバカならモテるよりモテないほうがむしろ幸せなのでは…
幸せが言い過ぎなのだとしたら受ける傷は少なくて済むのでは…」ということを加護さんについて考えて思ったのでした(彼女はそれで生活の糧を得てるから上の論には必ずしも当てはまらないけど)。しかし、「モテ」を分水嶺にすると知的能力云々のあたりがややこしくなるので(「モテる時点でバカではないんじゃん」等)今回は容貌を用いました。
とりあえずイメージとしては、
「高卒派遣OLひとりでバラエティ番組を眺めながら食べるオリジン弁当の夕食」
と
「ヤンキー上がりシングルマザー母子家庭でワーキングプア水商売はじめました」
の対比としてイメージしてもらえるといいと思います。
それでも「ひとりじゃないだけ後者のガマシ」という人に関しては私とは価値観が違うとしか言えない。
「賢くて美人」と「賢くてブス」とを考えた場合は、個人的にそこに(不幸になりやすいかどうかという点において)あまり差はないんじゃないかと思います。幸せになるために踏まねばならない手数の多さという意味では「賢くてブス」のほうが上だろうけど、それをきちんと踏襲するというニュアンスも「賢い」にはこめてあります。
そもそも、(前提で述べたような極端なケースを除けば)「美人」と「ブス」という分け方が極めて恣意的なものなので、この場合の「美人」というのは単に「多くの人がその人を美人と思う」という事実に過ぎず、また「ブス」も然りです。そして、重要なのは、「需要の多寡は必ずしもそのものの優劣と比例するわけではない」という点です。
よって、例えば「ブス」だったとしても、自分を需要する層というのを的確に判断する能力があれば、それは決して弱いカードではなく、単に使いどころの難しいカードであるに過ぎないのです。むしろ、場合によって強いカードにもなりうる可能性を秘めているのです(RPGで、人魚のキャラが陸上戦ではHP少なくて弱いけど、水中戦では無敵みたいな感じ)
以上をまとめて「不幸になりづらいランキング」を作るのであれば、
という図式が成立するのではないかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20090923013046
こういった意見を見ると気持ちは理解できる反面、付き合うと言うことをあんまりしたことがない本人こそが、最も「恋愛至上主義」的な価値観にやられてしまっているのではないかと感じる。
増田に、「私の彼氏は素敵なんだよ」と惚気てくる人も、「私の彼氏こういうとこが嫌で」って愚痴ってくる人も、恋愛で頭が沸いてる状態な人なんだと思う。
そういう恋愛的な部分の方が、部外者の耳には良く入る。
もちろん、好きで好きで仕方が無くてという恋愛も世の中には多くあるし、それはそれで楽しいものなんだけれども、必ずしも全部の人が付き合っている人とそう言う状態なわけじゃない。どのカップルも、互いに性欲を感じて仕方が無くてセックスをしまくっているかというと、それもそうではない。
ある程度の年齢になって、付き合って(或いは結婚して)いる人たちの少なくない部分は、相手を最も信頼できるパートナーとして、とても親しい友人のような感覚で付き合っていると思う。
毎日仕事があって、ご飯を食べなくちゃいけなくて、休日は暇だったりすることもある、といった普通の生活があるわけだよね。
そこで、互いに頑張って仕事をして、仕事が終わったら一緒にご飯を食べて、たまに休日に遊びに行って手を繋ぐという、つつましいカップルもたくさんいる。
その中で、夏には花火大会に行って、面白いマンガがあったら貸しっこして、バラエティ番組を一緒に見て笑って、つらいことがあったら一緒に乗り越えて、親が死んだら一緒に泣いて、子供が出来たら可愛がるっていう人生のイベントを一緒に過ごす。
それが出来る「友達」(友達という言葉が恋愛と対極にあると感じるなら、「パートナー」でも良いが)を、恋人と呼ぶんじゃないだろうか。
もちろん、そんな穏やかな関係が全部では無いし、人によって異なるのだけれど、そう言った関係も、「付き合う」の一つだと思う。
むしろ、恋に狂っている期間なんかより、そういった穏やかな関係を持っている期間の方が、人生的には全然長い。
「この人とセックスが出来るか」
「この人は家事分担してくれるのか」
「この人のことを好きで好きで仕方が無くなれるのか」
なんて、拘るべきポイントではない、些末な問題だと思う。
全ての人が「この人が運命の人だ!絶対付き合いたい!ラブ!」と爆発的な恋に落ちて、「この人となら超セックスしたい!濡れ濡れだぜ!」って思って、付き合うわけじゃない。というか、そんな人はあんまりいないと思う。(男性は知らないけど)女性は、普段性欲なんて感じない人もたくさんいるし、セックスをする前の段階では、その人とのセックスなんて全く想像も出来ないって人は多いでしょ。
いっしょにいたら楽しいなって思うし、相手もそう思ってくれたら嬉しいけど、「付き合いたい!」ってわけじゃないんだけどなってこともよくあると思う。でも、最初はそんな感じで付き合って、互いを大切にして一緒に人生のイベントに立ち向かっていくような親密さだって、一つの「付き合う」で、一つの愛情じゃん。
だから、元増田の言う「恋愛感情がわかない」「性欲がない」はすごく解るけど、だから即「付き合う必要がない」って結論になるのは、いろんな付き合うがあるのを知らないんじゃないのかな、って思う。
彼氏がいる人みんなが、彼氏が欲しくて仕方がなかったわけじゃない。
燃えるような恋をして、性欲を満たすのが、彼氏の役目とは限らない。
自分の人生の近くで、自分以外の人のこともちょっと大切に思って、一緒に緩やかに助け合いながら人生のイベントを過ごしていこうよっていうのって、結局は友情に近い親密さだと思う。
そういう形で、一緒にいれたら楽しいなって思う人は、いないだろうか。
そういう人と一緒にいたいなーって気持ちは恋に限りなく近いし、それが実現したら結果として「付き合う」という形になっちゃったりするんだよ。