人付き合いってしなくてはならないのだろうか。
先日母と、上司に誘われた飲み会や会社の新年会、忘年会などには参加すべきか否かという話をした。
僕はエンジニアを目指してる学部一年で、母はいままで仕事らしい仕事はしたことのない専業主婦である。
結論から言うと、僕は自分の参加したくない飲み会などには一切参加したくない。大人数で行動することが非常に苦手だし、そもそも人付き合いがあまり好きじゃない。
それに対して母は、接待や上司の機嫌をとることは大切、といった考えらしい。日本には昔から接待ゴルフや、花見のときに部下が場所取りをする慣習がある。昔ほどではないが、いまもこういった慣習があるので日本で就職するなら嫌でも人付き合いはしなくてはならず、どうしても人付き合いがしたくないならアメリカに就職するべきだ(日本よりアメリカのほうが会社での飲み会などが少ないのは事実らしく、現地で働く日本人エンジニアのインタビューで僕も読んだことがある。)、と。
日本で就職するならやはり飲み会には参加しなくてはならないのだろうか。まったく興味がないどころか、苦手な人付き合いもしなくてはならないのだろうか。
だからこそじゃん?
だからああいった炎上系のものが上がってくる事自体が間違ってるわけ。
だけどバカなはてな−が多いから、嫌な記事に文句をいうためにブクマ付けて逆に燃料になる、って事が多くなってる。
で、じゃあ、あの記事に対してお前は本気で「ブックマーク」してる人間があれだけ居る、と?
あんなの何度も読んでどうすんの?
強く言いたいのは、どっちにしてもコメント見えないんだから、ブクマの言及もしなきゃいいし。どうしてもしたいなら、今回みたいに
http://anond.hatelabo.jp/20150111133207
うすうす思っていました。
じっくり見られたり、広げられたりしているところが、たまらなく可愛いのです。
どちらかというと、遊ぶというより鑑賞に近いです。
あれにさ、ブクマする人ってさ、普段他の炎上ブログであーだーこーだ言ってるのとはわけが違うわけじゃん?見られないわけだから。
なんなの?
じぶんでかんがえたらそう思った!って人たちがいいね!感覚でブクマしてんの?
いい加減にしてくれないかな?
実は自動販売機でお金が先なのは、支払うべき金額が予めわかっている時にのみ有効な特例なんだよ。自分がこれから購入する合計金額が不明だったり、販売している商品の価格がバラバラだったりするときには、商品選択→合計額提示→支払い、という流れのほうが合理的。お釣りを最適化するような金額を投入できるしね。最近このタイプも増えてきてると思う。Suica で払うタイプの販売機なんかだとそもそも支払い額が決定してないと決済できないから自然にそうなってるしね。お金が先、という観念は、昔のようにジュースやタバコにしか自販機が使われなかった時代の名残かと思う。
人事部のような銃後が、何言ってんの?
あれ、そうだったの?そもそもまともな期間勤めてないような感じだけど、いきなり人事部とかってあるの?
それだったらお前は何も考えずに吠えてるだけのバカじゃん。
フクイチなんとかしたら何が変わるん?
今、フクイチがあることで放射能的な人的被害が直接出てる所ってあるん?
妊婦に何か影響あった?
フクイチによって住める環境が変わったり精神的被害が出てることは誰も否定してないし誰も隠してないし
それによる影響を無かったことにしろなんて誰も言ってない。
一方で、フクイチから出てる放射線による影響が今離れて住んでる人たちに対してどれだけ影響が出ているか、と言う問題を議論して
その影響は無い、と言う話をしてる。
そんなことも理解できないの?
まえにフランス書院の「レイプ肉地獄」みたいなエロ小説を買おうとしたらレジが若い女の子で、レジに行くのを一瞬躊躇したけど、まあ本屋の店員だしいちいちこんなの気にしないだろって思って差し出したら明らかに動揺した反応で、やっぱやめときゃよかったって思ったことがあったな。
ヘイトスピーチを規制するとしてそれを行うのが行政だということに問題はないのか
自分の立場としては表現の自由の中にヘイトスピーチは含まれると思う
もちろん人種差別には反対だ。色んな人間が力を合わせないと社会は立ち行かないし、損得で考えても異文化に寛容なほうがその逆よりずっとメリットが大きいと思う
それとは別にヘイトスピーチは法律で制限されるべきではないと思う
http://anond.hatelabo.jp/20150110212010
ほとんどの男は触られてもそれが痴漢なんだって気づくこともないと思うよ。
なんだこいつって思うかもしれないけど自分が痴漢されてるなんて思わない。
せいぜい何日も後から「もしかしてあいつは」みたいに思い出すかもしれないけど
いちいちキレるようなことでもないんだよなあ。
そもそも、触られて恐怖を感じるという感覚がないんで。
あれの趣旨はテロ肯定ではなくて、シャーリーは表現の自由の旗印としては相応しくないだと思うが。
表現の自由を絶対不可侵のものと捉えている人と、何か公共的な目的のための手段と捉えている人がいて、あの増田は目的のための手段と捉えている。
で、シャーリーは目的外の表現の自由の利用でそれをabuseだと言っている。
表現の自由を絶対不可侵と捉える見方にも一利あって、表現の自由を適用するしないを選別できるのであれば、
ドラッグストアでコンドームを買ったらレジを担当していたのが実習生だった。
仕事だから当たり前だとはいえ女子高生がコンドームの箱を手にする様を観て、覚えなくていい罪悪感を覚えた。
コンドームなり生理用品なりはビニール袋に詰める前に、中身が見えないように茶色い袋に包むのが一般的なのだが、
如何せんその女子高生はまだ不慣れなので、なんとコンドームをダイレクトにビニール袋へ詰めたのだ。
ここで一言優しく指摘するのもよかったのだけれど、あろうことに俺という男は、
「女子高生が詰めた丸見えのコンドーム」という状況にしばらくないときめきを覚えてしまっていた。
question:http://anond.hatelabo.jp/20150110214339
宗教を信じる人(イスラム教徒ぽい)が信じない人(non-believer) によって書かれたものを見て、傷つきショックを受けている様子。その横には宗教を信じない人が信じる人によって短剣で殺されている図。
確かに、イスラム教、キリスト教を煽るような鋭い風刺画が数多く書かれたかもしれない。それが嘘ではなく本当のことだからこそ、多くの人が反応し、論争を巻き起こし、それがメディアとしての立場であったのだと思う。それに対して暴力で抵抗するという行為が短絡的で幼く、卑怯で、どんな理由があったにせよ許さざる行為であることは誰の目にも明らかであるはずだ。だからこそ、多くの人が"Je suis charlie”を掲げているわけで、私もここにいる、意見をもったその一人だ、という意味だと思う。をれを卑怯な行為として責めるという人がいることに驚いた。
追記:言いたいことはこの方 http://blogos.com/article/103027/ が的確に言い表しておられますので追記しました。
この種の事件が起きると、被害者の落ち度を指摘する声が上がる。テロは許されないが、被害者も悪い、というわけである。テロが現実に行われているこのタイミングで、被害者側のアラを指摘するということの意味は、どんなにテロはゆるされないとの前提を置いたとしても、結局テロにも一分の理があるといっていることになるのだ。そう、ちょうど性犯罪被害にあった女性に、挑発的な服装だと非難するようなもので、その指摘が真実にかなっていたとしても、その効果は犯罪行為の許容をもたらす。表現行為の当否をめぐる議論は、また別のタイミングで、暴力にさらされていないところでのんびりやってもらいたいものである。
Charlie Hebdoを
非常に極端な新聞社
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか
といじめられっ子に仕立て上げる、ここが論点の間違いです。だから"Je suis charlie”は適切でない、という理論は結局成り立たないばかりか、テロにも一分の理があるといっていることになると思います。
追記:http://blog.goo.ne.jp/iida-miki/e/0d68f604177d2bdeb387e20a5dc9afb0 フランスの新聞社 シャルリー・エブド襲撃事件について
に詳しく書いてあるように、Charlie Hebdoは
シャルリー・エブドの風刺については、何もイスラム教だけに限ったことではなく、イスラム教、というよりもイスラム原理主義など、行き過ぎてしまったものに対する風刺を中心としていたようだ。「表現の自由」というフランスのプレス、フランスの文学、哲学の根幹とも言えるようなものを代表し、具現しつづけていた新聞社だった。彼の風刺画はあくまでもユーモアであり、誰かを傷つけようという意図ではなく、「ちょっとこういうのって行き過ぎ難じゃないの?」という状況を風刺画で描いていた、ということだ。
わけで決してイスラムに対するヘイトスピーチではなかったということは非常に大切な事実であると思う。
追記:根本的にテロ容認論ではないと言っていながら"Je suis Charlie”を掲げることは卑怯な行為というのがどうも矛盾しているとしか思えない、いま、この時期に多くの人が"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”からである。”Je suis Charlie"は、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。
追記:id:angmar ジャイアン=Charlie Hebdo のび太=イスラム教徒とする理由がわからない。どちらかというと逆だと思う過激で暴力的で人の意見に耳を貸さないジャイアン=過激派イスラム教徒に対して、コツコツとジャイアンを風刺(非難嘲笑含む)してきたのび太=Charlie Hebdoがジャイアンに殴り殺されたという風にも言えると思う。クラスのみんな=フランスはいろんな意見があって、ジャイアンが悪いという人もいれば、でもジャイアンはジャイアンなりの生き方があるだろうと寛容しているひともいる、ジャイアンが怖いし敢えて面と向かって非難することはなかったし、のび太もちょっとやりすぎじゃないって思う人もいたんだけど、この機会に誰もがジャイアン、いくらなんでも人を殺すのはよくない、となっているんではないんですか。
追記:id:kantei3 私はこの時点で"Je suis charlie”を掲げること=”テロ容認できない”ということだと思うので、"Je suis charlie”は卑怯ではないと思います。イスラムなんとかが主要メディアを買い取って、それ方向の出版ばかりやったらそれは非難されるべきことだと思います。Je suis charlieは、繰り返しますが、私はレイシストです、私はイスラム教徒をヘイトします、というような意味ではないと思います。