はてなキーワード: 神道とは
小学生の時聞かされた。
変だよね、こんなの。
遊郭としてたと言っても、すぐ前の世代ではなく、その前にやめて地主になって、それをある宗教に寄付して、無一文の状態になって・・・と色々あったらしい
その色々が続いてない事も無いから、こんな事を言ってくるのかもしれないが ( 精神的にいろいろあるからかもしれないが、別に親は生活やお金には困っていない。全然余裕なのに・・・ )
それにしても・・・・
昔から私に関する事だけ、洞察力が欠落したような事を平気で行う人だった
実の母親から、お前の幸せを願ってません と宣言されるようなものだし
普通の健全な家庭の特に専業主婦の人が聞いたら嫌がるようなことを好んで言う傾向もあった
(別にエロい事と言う訳じゃないです。エロい人ではないと思います)
言わなくて良い事実とか、厭世的になるような事とか
例えば、森村誠一氏の小説を読んで、なぜそんなものを読むのか聞いたら、「私は本当の事が知りたいもん」と言ったりされたりとか
森村氏は優れた小説家だと思うけど、年若い人が見ると、厭世的になったり人間不信になる可能性もあると思う。私に勧めてきたわけではないけど、こういう事も踏まえた上での答えとしては適当ではないと思う。
本当の事と言っても、小説はフィクションなので、本当の事が知りたいなら、ノンフィクションのドキュメントかルポを読むべきだと思うし。
言うとしたら、氏は、厭世観を持つような事実を扱いながらも、それだけではない深い何かがあるとか、それを超えたものもあるとか、何とか言えないものなのだろうか、と思う。
世の中にあるものを無批判に肯定的に受け止めるのではなく、時には皮肉や風刺も、クリティカルな思考をするために必要なように、社会の暗黒面を描くのもより良い情況を目指すためには、有効だとか、視点としては、そういう目も必要だから、とか何とでも良い言い方は色々できると思う。
しかし、彼女の場合はそんな事をわかって読んでいたのではないような気がする。
これは離れて暮らしている今もそうだが
どういう人間だったかと言うのが、チグハグすぎて思い描けないし、人に説明もできない。
これは父にも言える事だが。
それで、トラバはしてないけど、さっき書いた恋愛に夢が描けない話
これに繋がらない事もないわけだが
人様のお嬢さんを金にものを言わせて攫ってきて、性的搾取をしてきた先祖・・・と考えると、他人にそんな事をした人間の子孫は、恋愛なんてできない、と思いつめてしまった部分は、小学生だったので、少なからずあると思う。
小学生ごころにはきつすぎる。
ある程度、自己防衛的な思考や論理的な判断力が、育った状態でしかも安定した身分の状態の大学生くらいになってから、先祖の歴史として話すのなら、わからないでもないと思うが・・・
遊郭というのは、気になるから、何かの折に目に触れたものを読んだり、本を立ち読みしたりして、調べた範囲でも、摩訶不思議な構造になっている
江戸時代とそれ以降での違いというのもあるし、江戸時代でも、遊郭というのとその他のものでは、だいぶ違ったようだった
病気で亡くなった江戸を描く漫画家の杉浦日向子さんは、このあたりちゃんと書いていた。(ただ地名を正確に書いてたというだけだけど)
明治以降国家神道として神道を流行らせたりする時に、その町のイメージが悪くなってはいけないという配慮からなのか何かはよくわからないけど、映画でも何かの作品でもその町を舞台にしたものは、江戸時代は心中モノが描かれたりしてたけど、今は全然ない。他の町も吉原以外は似たようなもので、特にタブーだかたというわけではなく、吉原が通俗的にそのような場所として有名だからわかりやすいからかもしれないが。( 江戸時代の吉原と今のとではだいぶ趣が違うけど )
有名な江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目で、伊達の殿様に切り殺されてしまう太夫の話がある。実話かどうかは定かではないらしいが、その太夫の死体が流れ着いた淵や、亡骸が祀られたとされている寺か神社もあるらしい。この話は、武士より武士みたいな形で亡くなってしまった遊女というところが皮肉なのだと思う。 創作だとしたら、こういう人身売買に誑かされて鼻の下を伸ばしている武士に対する皮肉もあったのではないかと思う。
遊女の腹から生まれた大名 で検索すると 23人もいたと記したページも出る
http://kkubota.cool.ne.jp/saihouji.htm
皮肉だ
江戸時代でも人身売買は悪いとわかる倫理観はあったと思う。わからないわけがないと思う。
それなのに、簡単に誑かされてしまう。
江戸時代まで日本の「神道」で最大勢力誇ってたのは稲荷信仰だよねとか、いわゆる国家神道(伊勢派)系の創世神話と全然関係ない菅原道真(天神様)が信仰されまくりとか、そもそも明治の強制改宗まで日本全国神道といったらわけのわからん土着信仰だらけだとか、明治に入ってから政治的に神道が再編されるにあたっての伊勢派と出雲派の争いとか、神道を歴史の観点で見るのもそれはそれで面白いけど、宗教としての神道的には黒歴史とまでは言わないにしろ割とアレじゃないですか。都合悪いっつーか。
だからこう、神道側の人はとりあえず古事記(創世神話)→本居宣長→国家神道みたいにホップ・ステップ・ワープで扱うのがお約束になるし、反神道側の人からすりゃわざわざ扱うほどのことでもないし、第三者的な視点でおもすれーとか言ってるのって民俗学者くらいじゃないですかね。
「そういえばキミさ、今年が厄年だよね?」
と聞かれた。
「ええまぁそうですが」
と曖昧に答えたのだが、
「厄払い行った?え行ってないの?じゃあしばらくキミは仕事を出せないよ」
と言われた。
確かに体調を崩したり精神的に迷いが出る年頃なのかもしれないが、
そんなことは厄年に限らずいつでも心構えているべきことだ。
厄年だから良くない事が起こるのではなく、厄年だからと仕事を減らされたり
さて、今の私に与えられた選択肢は3つだ。
(1)こんな客先とは付き合わない
最初の選択肢は自分の信念を貫き仕事を失うということである。プライドを取るか
仕事を取るかということだ。
2はその逆である。ある種のゴマスリである。いっそ本当に厄払いに行った方が
潔い気がするが、それこそ神社なり寺に対して失礼な気もする。
ただ、厄払いに行ったことを公言したところで、仕事上のトラブルが起きれば
あいつ厄年だからなぁと言われるのは目に見えている。厄を気にする人間とは
とでも言っておけば許されるだろうし、それが社会における処世術というものだろう。
しかしどこか釈然としないのはちっぽけなプライドを捨てきれないからだろうか。
3は効果的な気がするが、他人が持つ私のプロフィールにクリスチャンと
まったく、公の場で政治と宗教の話は避けるべきだとよく言われるが、厄の話も
しないで欲しいものだ。本当に悩ましい。
ニコニコ神社っていうユーザが画面の向こう側から参拝者にコメントをするという形式の神社
発想それ自体はどうという程でもないのだけれど
もしかして有史以来初めて人間が本当の神社を作った瞬間なのかもとふと思った
そういうチラ裏
異議は認める
2011823追記
もし仮にそうやって集合的無意識を神様として見立てるならばの話。
祀られる側に集まってる人間が“異常に優しい”
それほど可愛くもない女の子でもブスなんて文字は滅多に踊らない
不細工な男で多少うざくてもわりと大らかに受け入れている
本来ならばネットに顔を晒すような人間を馬鹿にするメンタリティーの人々とは思えないくらいにだ
荒霊や和魂的な神道信仰において祀られると魔王が強力な神になる理屈に
そのまま今回のネットの中の集合的無意識が当てはまるかもと思った
言わば、気に触ることをしただけ、もしくは触れただけで祟り殺される荒御霊は
無秩序な状態では鬼女やらなんやらになり、
一度ああやって祀られると来たものを祝福する和魂状態へなったりして
わりと興味深いかもしれない。
神様ってそう考えるとそんな感じなのかもね
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
1
>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
2
ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
国技(こくぎ)とは、その国固有の文化や伝統に根ざしたスポーツ競技・武術を指すが、厳密な定義は存在しない。また、国技であっても、国内で最も人気のあるスポーツとは必ずしも一致しない。
日本国内において一般的には、相撲を国技と見なす風潮が存在するが、正しくは日本国内に正式な国技はない。 過去及び現在においても、その時代を担った政権に相撲を正式な国技と認定した記録や省令は存在しない。
相撲は日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として「奉納相撲」が地域住民により、現在も行われている。健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為である。
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52410978.html
米国人がこのオブジェクトを見ても気持ち悪いとは思わないだろう。
プロテスタントの立場からすれば神が作り出した人間以外の生き物は所詮ただのモノ扱いだから。
だからケルトゲルマンの自然宗教の意識が残っている欧州や神道の自然宗教の意識が残っている日本と違って
アメリカ人は遺伝子組み換え作物や遺伝子工学を駆使した合成生物を創りだすのに何の躊躇も抱かない。
フィギュアに命が宿ってるかのような汎神論的宗教意識は神道に由来する。
気持ち悪い・マジキチという感想を述べているのは紛れもなく日本人である。
国際化社会において必要な教養とは、己が何者であるのかを外国人に説明できる知識である。
日本が外国人と融和できず移民政策を実行したらかなりの確率で国家解体に向かうであろう理由は、
日本人は自らが何者か知らず、何者か語れないから。日本とはどんな国なのかを外国人に説明できない。
自分が何者か明確でないから、おそらく外人の価値観に”染められる”。
今のまま移民政策を実行したら、外国人の自治区を作られて、排除できなくなる。
日本とはこれこれこんな国だから、郷に入れば郷に従え!と外国人に言えるほど自国について理解しないと国際社会を生きていけない。
古くは中国朝鮮、明治以降は欧米に学んできた日本が、かつての日本自身を学んで日本に帰還する時代がやってきた。
日本の宗教観は自然宗教としての神道があり、そこに大乗仏教が入ってきて神道の影響とともに戒律外しが行われ、土着化し、日本仏教としか説明できない独自の仏教を形成した。
キリスト教が欧州でケルトゲルマンの自然宗教の影響を受けてカトリックになったのに似ている。
長い歴史をかけて神道と日本仏教を土台として儒教、道教、キリスト教などありとあらゆる宗教を取り込んだ。
黒船がやってくるまで、数える程度しか国家の存亡をかけた外国との戦争というものを経験しなかった。
たえず異民族に攻めこまれ安定した国家を築くことができなかった中国とは違い、海に囲まれて異民族の侵入を受けなかったため、
シルクロードを通って日本にやってきたあらゆる文化と宗教が、日本から出ていくこともなく、壊されることもなく、日本列島の中で密閉されてぐつぐつと煮込まれて、融合した。
神道の最高司祭=天皇の存在が日本人が特定の宗教に支配される事態を防いでいる。
天皇がある限り、日本に入ってくる宗教は全て相対化されて平等化される。
天皇の権威を否定したらカルト宗教が流行る。天皇になりたがる奴が後を絶たなくなる。
第二次大戦後、日本でどれだけの新興宗教が権力を増し、あるいは事件を起こしたか考えてみればいい。
皇室を政治利用させず、皇室を守り続けることが日本を宗教先進国たらしめる。
天皇がかつての聖武天皇のように仏教徒になろうが、キリスト教徒になろうが、イスラム教徒になろうが大勢に影響はない。
神道は教義がなく異宗教との二股三股が可能だから。軸を神道に置いてさえいれば、いくらでも世界中の宗教をつまみ食いしてOK。
イスラム教、キリスト教など、経典のある宗教は”意識”である。
神道は教義を持たないからいくらでも変わりうる。神道は”無意識”である。ESである。ゆえに無敵である。
宗教がまったくなければ人間は動物になる。宗教に染まりすぎれば人間は機械のように柔軟性を失う。
ユニクロ柳井氏 「日本国民は自分に不都合な情報には耳をふさぎ、過去の栄光に自己満足している滑稽な国民」「驚くほど能天気」
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1291803726/
日本の労働者の人件費を新興国の労働者並みに下げる策(非正規社員の拡大)が格差社会というスローガンと共に批判されて頓挫、他国に企業拠点を移転する方向に変更されつつあるのが現在。
日本の宗教観は神道(多神教)と仏教(無神論)が神仏習合して築き上げられただけではない。
神道にそんな教義あるっけ?
僕には、日本の歴史や文化、伝統や国柄といった文脈で「日の丸」というシンボルを見たとき、自然と思い浮かんでくる事がある。
ひょっとすると、別に当たり前のことで、誰かがどこかで同じようなことを書いているかもしれないが、とりあえず今まで見たことがないので、
日の丸は、白地に赤の丸を真ん中に描くと出来上がる。
この真中の赤丸は何かというと、小学生に聞いても簡単に返事がかえってくると思うが、「太陽」「お日様」。
昔ながらの言い方で言うならば、「お天道様」とも言う。
ヒノモト、日本の国旗だからお日様が真ん中というのはシンプルでわかりやすい。
「清明心」という言葉がある。聞いたことがある人は少ないかもしれないが、神道や武士道で聞く言葉であると思う。
これをやまとことばで言えば、「きよきあかきこころ」と読めると思う。これも昔からある言葉らしい。
「あかきこころ」は、明か(あか)、あきらかで偽りのないこころもち。正直など?
つまり、日の丸の白地は「きよきこころ」、赤は「あかきこころ」と解釈できるのではないだろうか。
日本では、純真無垢な、子供のような心はとてもよいものだという価値観があるが、これは神道からくるものだと思う。
西洋では、子供は未発達な、未熟なもので、理性的や秩序的でないのであまり良いとされないものだと思うが、日本ではそういう考え方は
あまり馴染みがないように思う。
善でもなく、悪でもなく、清らかさや無垢さがいいという価値観は神道的だが、しかし僕にはかえってしっくりくるものがあるのは、日本人だからだろう。
それから、日の丸の真ん中に描いてある「お天道様」はどういう意味だろうか。
お天道様の天道とは天の道。「誠は天の道なり。之れを誠にするは、人の道なり。」という中国のことわざがあるそうだ。
これを勝手に訳すると・・・
誠(まごころ?)は、天(宇宙?)の道(道理)である。これを実際に行うのが、人の道である。
といった感じだろうか?
でも天の道ってなんだろうか。
たぶんそれは単純な話、昔から言われているように、「お天道様に恥ずかしくない生き方」じゃないかとおもう。
普段の生活の中で、事あるごとに、じぶんの心に問いかける。これはお天道様に恥ずかしくない生き方か?きよきあかきこころで問いかけると、
天の道が指針となって、すべきことがわかる。そうやって行ったことがまごころなのなのではないかと。
つまり、きよいあきらかなこころでお天道様にはずかしくない生き方、天の道を行うというのが日本人の自然なまごころの道ではないかと思う。
日の丸の、白地はきよいこころ、赤丸はあきらかなこころ、お天道様は天の道。
何が言いたかったかというと、ようするに日の丸というのは、日本人のありようをあらわしているんじゃないかと思ったのです。
日の丸がいつからあったのか、ヒノモトという名前がいつからあるのかしらないけど、日の丸は日本の神様のメッセージじゃないかと思う。
世の中の仕事や学校や家庭、人間関係やその他でいろんな試練があると思うが、その時々に、きよきあかきこころで天の道を行ったらどうなるだろうか。
天の道を行って悔やむことはあるのだろうか。
僕は、神社に行って、もしくはお天道様の前で自分を誇れるようになれたら素晴らしいだろうなと思う。
だから、神社に行って神様の前にちゃんと立てるか、定期的にお参りしたらどうだろうかと思っている。そしてご神体の鏡にうつるのは自分。
あなたは神です。ちゃんと神できてますか?あなたの神の道と差があるようだったら、その差をとってください。さとってください(笑)
神道っていうのはこういうことなのかな?そう思いました。そのうちきよきあかきこころで行う天の道、実践編を書けたら面白いだろうか。
モスク建設反対論の薄っぺらな本音 | アメリカ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.newsweekjapan.jp/stories/us/2010/08/post-1547.php
モスク反対論は「理不尽な感情論」「ムスリム差別」「信教の自由の侵害」であるらしい。
確かにその通りだと思うが、ちょっと自分の中で引っかかる点があった。
例えば、在韓日本人がソウル市内に神道の神社を建てたら、韓国人はどう思うのだろうか。
神道はその日本人の信仰してる宗教だから、これを韓国人が妨害したら「信教の自由の侵害」だろう。
神道最高!とか言ってる人にいまだかつて出会ったことがないw
神道 と 御仏 って並べていいの?
そこにちょい違和感あるけど。俺よくわかんねーけど。
そーいうの自由な国に、俺もお前も生きてるってことだよな。