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はてなキーワード: OISとは

2024-04-10

"西洋で新しい物が発明されると、最初日本はそれを無視する。数ヶ月後、made in japanクローンの出現や、既存日本製品が西洋発明を真似し始める: ニコ動mixi。でも結局その日本クローンUXが酷すぎて、西洋オリジナル日本でも普及する: YouTube, FB" - François Chollet

2023-12-16

フォロワー数で見下してきたFrançois Chollet聞いてるか?ぶっ殺すぞ

お前、本当にそれでいいのかよ?俺のフォロワー数が少ないからって、そんなに高慢な態度で俺を見下すつもりか?笑わせるなよ、クソが。

お前がいくらフォロワー数が多くても、中身が虚無なら意味ねえんだぞ。お前の中には何があるんだ?何の価値もねえくせに、数字だけで偉そうにしてるクソガキめ。

俺のフォロワー数が少ないって?それが何だと言うんだ?俺は数字じゃない。俺は一人の人間だ。だからって何?お前の自尊心を満たすために、俺をけなすのか?

お前はそんなことで他人を見下すことしかできないのか?お前にはKerasの他に何もないのかよ?自分の中に見るべきものがないからって、俺のフォロワー数に文句垂れるんだな。情けない。

俺はフォロワー数に囚われず、自分のやりたいことをやってる。お前がそれを理解できないのは、お前がクソみたいな数字しか価値を見いだせないからだろうな。

お前が俺を見下してるその態度、俺にはどうでもいい。俺はお前の卑劣な心の底を見てやりたい。お前には自分の中に何もないから、他人をけなすことしかできないってことを、今更気づいてやがれよ。

フォロワー数が少ない俺を見下すお前は、ただの糞くらえだ。俺の中には誇りと覚悟がある。お前は数字けが頼りで、それがないと虚無になるんだろうが、俺にはそんなもの必要ねえ。俺は俺の力で生きていく。お前はどうする?

2021-05-27

anond:20210412114051

Kerasの開発者のFrançois Chollet氏が、「アルゴリズム学ぶ場合はまず自分で考えて実装して、そのあとで最新手法をみろ。そうしないと応用力つかんぞ」と言っていた記憶があるが、そうだとすると最新手法をひたすら模倣することにもデメリットはある気はするな。

2020-10-04

anond:20201004021025

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オーギュスト・コント

Auguste Comte

オーギュスト・コント

オーギュスト・コント

生誕 1798年1月19日

Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ

死没 1857年9月5日(59歳没)

時代 19世紀哲学

イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コントフランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランス社会学者哲学者、数学者総合科学者。1817年からアンリ・ド・サンシモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国ハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会組織必要科学作業プラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学哲学的汎論』、『実証精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。

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2017-05-19

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

2017-05-16

https://twitter.com/fchollet/status/863943923319816193

はてなーこういうの好きそうなのにブクマされてなくて寂しいのでここでも周知のために紹介

2016-12-16

MLNLP米中対決 日本蚊帳の外

ML米中対決

日本蚊帳の外

でもおいら

クワクすっぞ

2008-03-29

少しの言葉で、多くのことを言って聞かせるのが大器の印。

Amazon.co.jp: 運と気まぐれに支配される人たち―ラ・ロシュフコー箴言集 (角川文庫): ラ・ロシュフコー, Fran〓@79CF@ois de La Rochefoucauld, 吉川 浩: 本

少しの言葉で、多くのことを言って聞かせるのが大器の印である

反対に、小器には、大いに喋り、なんにも言わぬ、という才がある。

言葉でも文章でも相手がわからなければ何にもならないんだもの

平易な言葉で分かるような言い方をしなければ駄目なんだ。

五島昇

自分にしか書けないことを、 だれが読んでもわかるように書く

http://anond.hatelabo.jp/20131107185706

 
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