はてなキーワード: キリストとは
増田が小学校低学年のとき母親から与えられたのは旧約聖書の絵本であった
ノアの方舟の話であったり
モーゼが海を割った話であったり
しかしその本は最後の方はキリスト生誕とか奇跡とかキリスト復活の話で終わっていたため増田はキリスト教の聖書と思っていたのである
そういうことでひとまずどちらも嫌いになった
預言者は神の言葉を啓示として預かり人々に伝える者のことで、初期ユダヤ教から一貫してアブラハムの宗教の骨格となる存在ですよね
キリスト教でもイザヤ、エレミア、エゼキエルなどの古代ユダヤの預言者らのことは預言者として認めており、初期キリスト教ではキリストや洗礼者ヨハネの他にも同時代人のロールの呼称として「預言者」は割とカジュアルに登場しますので、「預言者を名乗るからキリスト教とは異質」というのはおかしいと思います
私も元増田に負けず劣らず無知だけど、アブラハムの宗教について言及してるのに、冒頭の以下については、ノアの7戒とモーセの10戒とを混同している模様で、間のアブラハムのことも無視していてひどいと思う
※消えてるから元記事のアーカイブ→https://web.archive.org/web/20240505110254/https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
アブラハムの宗教について語るなら、「賢者ナータン」の「三つの指輪の譬喩」についても言及しておきたい。
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1158
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1187
元増田の個々の記述についてはレスであれこれついてるからいいけど、ムハンマドとイスラムについては特にもっとよく知りたい
イスラム教がキリストをどう捉えているのかなどの教義的なことはさておき、ムハンマドがガブリエルから啓示を受けて預言者となり、地域の多神教コミュニティと衝突を始めたって辺りの経緯というか動機が良く分からない。
キリストの場合は当時のユダヤ教の教義とコミュニティに対する宗教改革者としての位置づけが明確だと思うんだけど。
キリスト教の信仰の中心地から離れたところでキリスト教を説いて回ってるうちに地域の多神教コミュニティと衝突し、追い出されてメディナで一派を作って体制と規則を固めていってるうちに元のキリスト教とはだいぶ変質して宗教として確立した、みたいなものなんだろうか。
つまりキリストはすべての人間に「救われるチャンスを与えた」のであって、救われると確定しているわけではないということでしょうか
それを「キリストはすべての人の罪を償った」と表現するのは誇大広告ではないですか?
すべての人に「投票できるチャンスを与えた」としても、個人の努力によって獲得しないといけない所得条件がそこに課せられているとしたら、それは完全普通選挙とは言えないですよね?
キリストは神じゃありません!
キリストの力だけでは罪人を救うのに不十分だということでしょうか?
たとえば三国志の「劉備が来たので妻を殺して肉を振る舞った」という話を当時の価値観でそのまま受け取るのは現代人には不可能なはず。
時代と共に変化する価値観を逆算して、なんとなくで意味を感じ取ることは出来ても、その物語が出来た当時の感覚でもって受け取ることが出来るわけじゃない。
たとえば昭和の青春ドラマでは「俺は今からお前たちを殴る!このバカチンがー!」みたいなことをやっていて、これに昭和オヤジ昭和オババは「愛情やなあ……」と目をウルウルさせたというが、令和の価値観においては「は?暴力を振るうことで必死さアピール痛すぎでは?やるべきことは頑張って言葉を紡いで思いを表現することでは?」としかならない。
外国文化もこれと同じで、日本においてはイスラム的な価値観やキリスト的な価値観は全く根付いてないからそういった事柄を背景にした物語はどう翻訳しても刺さりきらないし、それを無理に仏教や神道に当てはめた所でどこかに限界は生じるものだ。
翻訳が完璧じゃないとか、翻訳された国ごとに意味が変わってしまっているシーンがあるとか、そういったことを過剰に気にする人達はこのへんが分かってない。
もちろん翻訳家が自分の爪痕を残そうとして余計な要素を追加して台無しにしてしまうことも多いし、単に仕事が雑すぎること、元の雰囲気を残しすぎてローカライズ出来てないことだってある。
だけども素人が安易に翻訳のクオリティを批判するのはどうかと思うんだよな。
既にその国の翻訳版で定着したキャラクターの口調が突然変わっているとか、男言葉女言葉がチグハグになっているとかはどうかと思いはするんだが。