はてなキーワード: 赤飯とは
赤飯の元は雑穀米だから赤かったんよ雑穀米を再現するために赤に染めた
お祝いとして優先的に飯が食えるってのは何処の文化でも普遍的にある
それを現代でやるのはどうか?という議論があって良いと思うが、経血の赤と赤飯を紐づけちゃう人が稀に居てもうちょっと調べろよとも思う
なんか『カラダから血が出る=重い病気』みたいなイメージを持ってたので。
だれにも打ち明けられなくて最初はティッシュでせき止めてたんだけど、だんだんそれも難しくなってきて、
最後は洗っても取れなかったパンツの血シミでお母さんにバレた。
怒られは……たぶんしなかったけど、あんまり良い思い出ではないかも。
お赤飯はあんまり好きではないのでピザにしてもらったのだけ覚えている。
生理用ナプキンのCMは観たことあったけど、自分が生理来るまで
という認識だったのよね。
あれなんで吸収される液体の色が”綺麗な青”なのかね?
血液の色っぽいカンジじゃダメなのかね? 生々しいからNGなんだろうか。
生理が始まった当初はなかなかナプキンを上手に使えなくて服を汚しまくったし、
自分が知らないうちに服が汚れて、誰かに指摘されるんじゃないかと恥ずかしくて不安で、
外に出るのが嫌だったなぁ……。
幸運なことに生理で失敗して誰かからからかわれたりというような経験は無かったけど、
そうでなくても多感な時期に自分のカラダが変わっていくことへの戸惑いとか不安はあったと思う。
めんどくさかったし。
今はアプリなんかでお手軽に生理周期の管理や予測が出来るけど、
子供の頃はいちいちカレンダーや手帳で自己管理しなくちゃいけないのも、
めんどくさがりな自分にはしんどかった。
楽しみにしてたプールに生理で入れなくなったときはつらかったし、
旅行先で突然生理になって露天風呂に入れなかったときも悲しかった。
大人になった今はもう慣れたので、習慣の一部としてこなせているけど、
初潮きたてのころは大変だったな~~と、改めて思った。
いや今でもめんどくさいけどね。
生理のハナシって女性同士でもあんまり深くは話さない。(もちろん関係性や環境でも違うと思うが)
女性の間で性的な話題自体が心理的なタブーになってて話題にしづらかったり、
まだ悩んでるんだけど、ここで言及した可能性について考察したい。
男性の性衝動には多寡がある。居ても立っても居られない男がいれば、常に平静さを保てる人もいる。加害を未然に防ぐのを考えているのだから、欲望の強い個体をどうするかに焦点をしぼる必要がある。
彼の性欲を抑える方法として、AV などのセックスファンタジーの摂取が役割を果たしているのは否めないと思う。夢精で済ますのが理想的と見る立場からは、ファンタジーは性欲を煽って高めているように見える。でも一方で、吐精を促して賢者化するハンディな手段という側面は確かにある。
私が提示した ❶ 夢精で済ます ❷ 理性を高める、このふたつは効率の側面で女性威迫型の虚構を超えるだろうか。厄介さは夢精体験がいつ起こるのか予測不能な点にある。あまり知られていないが、成熟した男性器は夢精しないらしい。生産された精子を体内に吸収してリサイクルする能力が完成しているからだ。不幸にして未成年の多感な時期に、夢精のトラブルは起こりやすい。
目覚めたときに夢精しているのに気づいて対処に追われた男子も多いと聞く。なんとか親にバレないように隠蔽しなければいけない。登校前に。
女子の初潮は、赤飯を炊いて祝う文化があったのを思い出して欲しい。夢精の処理をクリーンに行うために未然にする準備は、女子のナプキンやタンポンほどには整備されていない。いやさ全く開発されてないと言っても過言ではないと思う。男性器は収縮があるのでラップを巻いても就寝中に外れてしまう。粘度の少ない状態の液は、隙間から流出しやすい。進歩した技術で現実的に安価な解決策を作れるだろうか? 検討される間も無く、積極的な吐精か消極的な夢精かの選択は、まるで自明のように積極性へと舵を切っていた。事実上、少年たちは選択権を持ってないと言える。
理性を高める方法は、輪ゴムを使った方法が知られている。アルコール依存症の方々などが使うやり方で、お酒を飲みたい欲望が高まってきたときに、腕に巻いた輪ゴムを弾いて、我に帰るのである。極めて即時性が高いので、おそらく性加害を防ぐためにも有効だと思う。だが困難もある。アルコール依存は対処としてトリガーとなる刺激、お酒の広告などを避ける。コンビニやスーパーで酒類のある場所に近づかないようにする。日々注意して生きるのは社会生活を送る上で間違いなく辛い習慣だが、性欲での回避行動は輪をかけて厳しいはずだ。あらゆる場所に女性はいるのだから。
「スク水揚げ」を目撃しただろうか。要するにただの魚の水揚げの報告に集まったブックマークコメントは、しかし主旨とは全く異なるものだった。少女を性的に消費する祭りが大々的に興る一方で、それを注意する活動はおろそかにされてる。増田でだってベロベロ舐める女性への威迫が、そこかしこに付けられてるのに、ほぼほぼ咎められてないよね。回避行動の困難さの他方、
理性を高める何かは、個人的努力の範囲では手軽さはなく、むしろ厭世家の修行のような格好になってしまうだろう。言語でのコミュニケーションを媒介にして厚く行われる必要がある。いま私の中に浮かんでいるイメージは、往年の非モテ論壇のありようだ。非モテの男性同士がブログを通じてトラックバックを投げ合っている様子は、現在の中島のイデアとは似ているようで大きく異なる。
中島が友だちの弱者男性、磯野を誘って東京ドームでキャッチボールするイメージは、弱者男性の共助のロールモデルとして深く増田たちの心に刻まれた。牧歌的な光景は、まるでもともと孤独の救いの原風景であったかのようだ。しかし混じりなき善意にも関わらず、中島の救いは、磯野を言葉で説得することでは為されてないことに注意してほしい。
非モテ論壇の議論に結論は無かったかもしれない。しかし、彼らの価値観に作用したのは疑う余地がない。男性性の「善きあり方」を模索していく方向性は、未達のままに放棄された希望だと思う。その先に道を探すべきだ。内心の自由の内側にこもるのでなく。