まずもって私は他人に指図されるのが大大大の大嫌いなのだ。それを野菜の洗い方はこうだ、切り方はこうだ、味付けはもっと薄くなんて一挙手一投足にケチをつけられることに腹を立てたのだ。なんやかんやあるけど結局はこれが一番の原因だ。ここからは目をそらしてはいけないだろう。
具体的に起こったことはこうだ。私が晩飯の料理中に、その様子を眺めていた母が野菜の洗い方に指図をしてきて、私はそれに腹を立てた状況である。こう書くと我ながら心の狭いことだ。
野菜の洗い方への指摘ごときで怒った心の狭さを認めたくなかったのだろう、私は別方向に飛躍した怒り方をすることになる。それは、母の「なんで?」という問いかけが独善的だと感じるというものだ。
自分の中の基準と違う言動を私がしているのを目にすると、母は「なーんで〇〇しちゃうの?」と相手に聞く。これは一見相手の言い分を聞き、言い分を勘案した上で意見の擦り合わせをする動きに思えるが、私の感じ方はそうではない。結局母は他人の言い分を聞きっぱなしなのであって、それを自分の意見に反映させることはないのだ。あくまで、自分の中の納得の一助とするだけ。だからこの問いに対して理由を説明することは無駄だと思っている。申し開きの有無に関わらず、この質問の後は自説がいかに正しいかの説明と、自説に基づいた行動を採ることを相手に求める説得が始まることが確定しているのだから。
であるなら何故理由を一旦聞くのか。それは相手の言い分を斟酌した、というエクスキューズを自分の中に求めているだけなのだ。どこまでも自分の意見本位に動くつもりなら、「私は相手に自分の意見を押し付けてなどいない、あくまで話し合いの上での合意である」という言い訳まで用意しないでほしい、せめて自分の独善を承知した上でそう振舞ってほしいという怒りである。
これを伝えたところ、母から帰ってきた言葉は「あんたがやりたいって言ったからピアノも習わせてやったのに」であった。自分が相手の要求に十分応じているアピールと誰のおかげでここまで生きてこれたんだ論法の併せ技である。自身の独善を承知してほしいと伝えての回答がこれで、母の逆撫で能力の高さに慄き、そして当初とは別種の立腹を得た次第である。
まあ私も私である。母の独善があるように私にも私の独善がある。自身の独善によって他人を支配できると無邪気に信じないでほしいと思う私の気持ちもまた、独善である。
長年の仕事を辞めて家族のために帰郷してきた。本当にくだらない怒りではあるが愛憎入り混じっているなと感じる。愛の方が格段に多くはあるが、愛に免じてここは謝ってくるべきなんだろうか。悩むね。