はてなキーワード: ファストフードとは
ここでの『首都圏に行く』とは『旅行に行く』ではなく『定住する』という定義。
俺が住んでるのは割と田舎(近所のマックまで車で30分程度)なのだけれど、「こんな田舎は嫌だ!もっとこう都会に行きたい!!」って気分が日に日に強くなっている。もちろん都会に行ったところで娯楽を楽しめるのは金持ちだけというのは分かっているけど、便利かつ大量の娯楽というのは俺にとって桃源郷。そんなところに住みたい!
とはいえ、東京は家賃が高い割に部屋が狭いので個人的に今ひとつ。なので俺としては埼玉のような中途半端な都会に住みたい。
ところが、中途半端な都会があるからといって迂闊に今の会社をやめる気になれない。というのも、「もしも仕事が見つからなかったら」という感覚が強すぎるから。
今のところなんのスキルもないうえに新卒でもないので会社を辞めてもいい仕事は見つからないと思うし、入社して数年で辞めてしまったら転職しづらいイメージがある。しかし、まだ20代だからこそいっそのこと転職するのもアリなんじゃないかと思う自分もいる。
自分一人だけなので低賃金でもいいかといえばそういうわけでもない。なぜなら借金(ていうかローン)があるから。車のローンと奨学金を合わせて4万円/月。というわけで、それを踏まえて俺の求める条件は次のとおり。
<俺が求める環境>
●自転車で片道20分圏内にファストフード店・スーパーマーケットがあり、片道30分圏内にツタヤ・ホームセンター・漫画喫茶・巨大本屋があり、自転車で片道1時間圏内に映画館がある。
●月に4万円/月を返済しつつASDL以上の回線が利用でき、ガラケーでパケホーダイが使える。
●正社員
で、こういう仕事に就くために何を勉強したらいいのかな。ていうか勉強してもすぐに就職できる気がしないんだけど。いくら貯金があっても会社辞めたら次の仕事が見つからないままに貯金を使い果たしそうな気がするけれども、今のうちに転職しないと年取ってから手遅れになりそうな気もして(ループオチ)
オートメーションが進めば、なくなるのは「肉体」労働なのか。
機械だけになって機械を作る機械が出来ても、その機械を設計する人間は必要になる。だから、肉体で労働するわけじゃないが頭を使って労働する人間は必ずいる。
そして、次にメンテナンスが必要ということだけど、そのメンテナンスをそもそも人間自身も行ってるわけで、
なぜ他の人間がいなくてもメンテナンス出来るかといえばそれは自立行動し自分で栄養補給し排泄することが出来るからだ。
とすれば、全てを機械にやってもらうためには自動メンテナンスすることが必要だ。
さらに、知能労働が人間だけのものということでもなくなってくる。
自動メンテナンス出来る機械が誕生すれば、そもそも自分の意志で何かを考えることが出来る機械が登場してもおかしくはない。
その機械を何らかの方法を使って制御し、ある一定の労働のみを行わせることが出来れば・・
確かに教師ロボットなどの知能労働をするロボットは過去のSF作品でよく出てくるしありきたりな話ではある。
しかし、人間そのものが大幅に変わってしまうという作品はなかったかもしれない。
そこで人間がどうなっていくかを考えれば、やはりこれは機械に近づいていく。つまり、機械のような都合の良い肉体を求めていくということになる。
たとえば、視力が落ちない義眼、怪我に強く疲労しない腕や足、睡眠の必要がない身体。
そもそも人間が人間にとって都合の良い世界を作るために必要としたのが機械だ。機械を必要としているのは、人間というよりは人間の脳だ。
だとすれば脳以外の肉体をそっくり人工の、脳にとって都合のいい身体に変えてしまっても問題はない。というより、それが脳の願いなんだろう。
機械が徐々に人間らしくなっていき、人間が徐々に機械になっていく。どこまで行くかは分からない。しかし、今の自分の想像力では、機械が完全に人間になるということは多分ないと思うし、人間が完全に機械になるということはない。
機械が人間になるということは、本来の機械の役目(都合の良い労働力)が失われてしまうし、人間が機械になったら、つまり人間の脳まで機械になってしまったら、それはもう人間とは言えないし、都合の良い身体を欲しがる人間はいても、人間を捨てて機械になりたいと思う人間がいるとは思えない。
でも、人間と機械の微妙な均衡点というのが一体いつまで維持されるのか分からないし、それを維持するという明確な理由が見つからない。つまり、「人間が機械になってはいけない理由」や「機械が人間になってはいけない理由」。
人間が機械になるなら、都合の良い労働力として工場に派遣されても問題はないし、元機械だとしても性質は完全に人間のそれと同じなら彼らを機械とカテゴライズする理由もなくなってしまう。
個人的にこの未来は恐ろしいと感じる。この恐れは、多分自分が許容できる未来の限界点を示してるんだろう。
人間が機械になり、機械が人間になる、こんな未来がいったいいつになるのか想像も出来ないが、もしかしたら1000年以内にやってくるかもしれない。500年以内と言っても早くはないかも。
結局、脳は機械になることを望んでいるんだろうか。
脳の持つ性質は、人間味という言葉からはいずれも遠いし、脳が願ったものを見てみても、そこに人間らしさというものはない気がする。
デザインという右脳の意向が強く反映される部分だけ見れば確かにそこには人間らしさがあるが、ほとんどの部分は左脳の意向に沿ったもので、そこにあるのは無駄がないすっきりとしたデザインだ。
このまま行けば、もしかしたら右脳が完全に左脳にとってかわられ、人間らしさというものは完全に失われるのかもしれない。
たとえば、機能ごとに何を選ぶかという自由はあっても、同一の機能で違うデザインのものということはない。
ファッションを見ると、概ね左脳に支配されていない、つまり時間軸的には過去、文明でいえば未発展のほうがより派手で無駄が多いデザインになってる。
これは、右脳がそういうものを求めていて、まだ言語世界が発達していなかった世界ではそういう華美なものが求められていたのかなと思う。
逆に現代に近づくにつれ、だんだんと右脳よりも左脳がデザインに口を出すようになり、より合理的で、無駄がなく、画一的なデザインが選ばれるようになっていった。
グローバル化もそれに似ている。素晴らしいものが一つあれば皆がそれを真似し画一的になる。萌え絵、ハリウッドの方法論、ファストフード店、郊外型店舗などなど。
このまま左脳が優位になればどうなるか。人々は次第に画一的なものを問題だと思わなくなっていく。
たとえば草食系。必要のないものにはお金をかけない、すなわち安い画一化されたものを購入する世代の出現。
ユニクロがバカ売れする時代。もはや重要なのは「機能的かどうか」であって、個性的かどうかではない。
言語も統一される可能性がある。英語かどうかは分からないが、この勢いでいけばやはり英語が地球標準言語となる可能性は高い。
しかし言語というのはその土地に根差したきわめてローカルな存在だから、もし英語で世界の言語を統一するとなれば、よりグローバルな言語となるため進化が必要になるだろう。
ここで考えられるのが、どうやってグローバルな言語となるために進化するのかということ。
確かに元々ローカルな言語というものは、どうやったってその民族、環境などに影響されやすい。
まず環境を考えるとすれば、実は地球上では既に環境のグローバル化が起きている。それが、自然環境に左右されない都市化という現象だ。
都市は概ね自然から断絶されており、都市間には自然環境ほどの劇的な違いは見られない。どの都市もコンクリートで舗装された地面があり、車が走り、高層ビルが立ち並び、駅やコンビニが点在している。
ということは、実は都市だけを見ればほとんどの都市は似たり寄ったりで、そうなるのは必然なのだ。
次に、民族。これも、実は統一されつつある。都市間の流動が激しくなっている。
日本はそうでもないかもしれないが、アメリカには中国系日本系韓国系インド系ドイツ系・・いくらでもいる。
たくさんの民族が一つの都市で暮らすことが出来るのは、都市が画一化されていてどこにいても大して変わらないからだろう。
かつての江戸とロンドンはあまりに違う。人々が着ている服も習慣も全く異なっていた。しかし、今は不完全ではあるがすべてが画一化されようとしている。
また、混血も重要だ。日本人とアメリカ人を先祖に持つ人間というのは珍しくない。移民がネガティブな問題として取り上げられることが多いためまだ混血というのは多くないかもしれないが、確実に今後は増えていく。地球という広い土地の上で、かつて絶対に交わることのなかった複数の民族の血が混ざるという時代に既になっているのだから。
地球人という考え方が当たり前になれば、次第に言語も統一される。次はやはり宇宙の時代になるんだろうか。
「愛人を作った」が各方面で話題になり。有名ブロガーにも取り上げていただいた。
2000円の食事が高いというのに反応した人が多いのにびっくりしました。
彼女は高校出たばかりで、家ももともとそんなに裕福でないのでファミレス位しかいったことなかったんです。だから2000円くらいでも彼女からすると高いんです。だいたい最初のころデートのとき必ず彼女が「ジョナサンいこう」っていってたんだけど、私がそれじゃつまらないので、お互い酒も飲めないし洋食が好きなので、とんかつやハンバーグなどを食べログでうまいとこさがして行くんです。そのときがだいたい二人で4-5000円、たまに焼肉いったときだけ10000近くかかりました。つまり、ファミレスやファストフードに比べて高いということ。たぶん皆さん居酒屋とか酒飲むところに行ってるんだと思いますがチェーン居酒屋とかって実は安くないですよ、別にうまくないし。酒飲まない僕からするとなんであんなとこ行くんだろうと思いますね。ただし、いつもは彼女の家で一緒にご飯作ります。外食デートは月1くらいです。
http://stockkabusiki.blog90.fc2.com/blog-entry-1146.html
上記「愛人は税金を申告しなきゃいけない」と書いた方がいます。世の中の愛人でまともに申告して税金を払っている人がそんなに居るのかどうか知りませんが、私の文をよーく読んでほしいですね。彼女は自分のマンションを提供しているのです。その場所代、ベッドのリネン代などもろもろが当然必要経費なのです。もちろん、衣装代もです。私は彼女にアイドルの時着る衣装もきてもらったりもしますから。本来はマンション代を出した上で月いくらというのが愛人の本道だと思いますが、それは無理なので、以前から彼女が住んでるアパートにとめてもらってます。
あと月15万が高いという人は愛人を風俗と間違えてるんじゃないですか?実は募集前に、出会いカフェでリサーチ(よい人が居たらそのままあいじんにしようとした・・)したところ週一くらいで会う愛人になるとしたらいくらほしい?という質問に20歳前後の人は「8万-20万」というのがほとんどでした。年食って贅沢覚えた女じゃなければそのくらいなんです。8万って言った人はすごいガングロギャルでしたけど、そういうのが好きな人はギャルの愛人持てます。てか正社員で結婚してなくて30歳以上なら多少の節約すればだれでも愛人もてるんじゃないでしょうか?結婚して専業主婦のがコストがかかるのは間違いないですから。家事なんてやってくれる人の必要性を感じたことは一切ないですからね。圧力鍋と洗濯機と電子レンジと掃除機があれば専業主婦は一切要らないです。専業主婦持つことのほうが愛人持つことよりよっぽど贅沢だといえますね。もちろん子供がほしいとなったら別ですが。
それと、私のことを「この人は本当の愛を知らないひとだ」とか「かわいそうだなひとだ」とコメントした人も何人も居ますが、そのとおりなんです。私は本当の愛なんかないと思ってます。すべて脳内麻薬が見せる幻想に過ぎない。とおもってます。フェニルエチルアミンです。ドーパミンです。ひとつだけいえるのはこういうことを言う人はじつはその裏返しで私のことをうらやましいと思っている可能性があります。うらやましいことをしている人を貶めて自分の心の安寧を保つということですね。わかります。
実は前の記事に書かなかったのですが、どなたか指摘したように「岡田斗司夫さん」の本「フロン 結婚生活・19の絶対法則」「恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」にヒントを得たところがあります。岡田さんそして森永卓郎さんヒントをありがとう。
これからなんですが、まだ一緒に旅行いったことないんで、行こうと思ってます。私は外国に行きたいんですが彼女がパスポートもってないし飛行機がいやということで近場の温泉になりそうです。来月行く予定です。
あのさ、自分でも自覚しているとは思うが君の話は無茶がある。
これからの時代、新規事業を立ち上げるための資金を集めようとするような人は何を頼りとするべきか?(そもそもサラ金に頼るなという話は置いておいて)
置いとけるわけないでしょ。
新規事業の為の融資が大切なのは当たり前だが、それとサラ金を結びつけるような事を書くのはばかばかしい。
たとえるなら、これは健康の為ファストフードやジャンクフードの食べすぎには注意しましょう、という主張に「食べ物をとらなければ死んでしまう」と言っておきながら、(ファストフードやジャンクフードばかりたべるのは良くないというのは置いておいて)と付け加えているようなものだ。
ファストフードやジャンクフードだけ、というのは良くないが、それらにもそれらなりの良いところはある。
サラ金についても新規事業への融資のような明らかにサラ金の良い使い道とは思えないものを持ち出すんでなくて、消費者の消費のスムージングの有益性を言うべき。
長いよ。ごめんね。
時間もあったので、1時間ほど近況報告をしながらお茶を飲みました。
慰謝料はもらえず、養育費とアルバイトで生活しているのだとか。
実家の近所に住んでいて、アルバイト中は子供を実家に預けているという。
離婚してから精神状態が悪くなり、重いうつにかかってしまい、入院も経験。
今もぜんぜんよくならなくて、薬をたくさん飲んでいて、よく死にたくなるのだそうです。
ほら見てと腕まくりをすると、無数のひっかいたような白いリスカのあと。
彼女とは、その後もたまにメールのやり取りをするくらいの付き合いが続きました。
ある日、友達と旅行に行く直前になって、彼女から添付ファイルありのメールが届きました。
「死にたい、もう死ぬ、私もうダメ」という本文と、腕に切りつけたような傷の写真。
でも、先日ダンボールを切るときに勢い余ってカッターで切った傷よりぜんぜん浅い。
旅行をあきらめたとしても、彼女の家までかけつけるには、少なくとも2時間はかかります。
子供を頻繁に預けていることでわかるとおり、彼女の家から実家までは徒歩圏内です。
両親と祖父祖母、社会人の弟妹がいるので、人手もあります。
卒業アルバムをひっくり返して電話番号を見つけ、なんとか連絡をつけました。
すみませんと謝る妹さんに、早く行ってあげてと声をかけて、その件は終わりました。
終わったと思っていました。
旅行に行って早々に、携帯メールがうまく受信できなくなりました。
旅行先でショップに持ち込み、原因がわかって、設定を変更しました。
受信できるようになったとたんに、ものすごい数のメールが届きました。彼女からです。
最初のほうのメールはこんな内容です。1文1通な感じ。絵文字も使っています。
ひどいどうして返事してくれないの?
ずるいよ来てくれたっていいじゃない。
どうして○○(妹)ちゃんに電話したの?
まだまだ続いています。漢字と絵文字がなくなります。200通を越えたころです。
いたいよちがでてまっかだよしんじゃうよ
かぎかけてはいれなくした××(私)さんだけいれてあげる
なんできてくれないのなんでめるめるしたのに
たすけてたすけてたすけてなんでこないの
そして、数えるのも面倒になった最後の方。ご丁寧に赤文字です。
しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね(以下略)
ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし(以下略)
とんでもない通数に、パケット定額に入っていてよかったと思う反面、
何で私がそこまで面倒見なきゃいけないわけ?と不満に思って、内心ムカムカしていると、
友達が教えてくれました。(同じ中学出身で実家住まいなので、地元の情報には強い)
噂なので話半分に聞いてね、と言われたことによると、
洗濯掃除は旦那さんの仕事。彼女は買い物と食事の準備が担当(専業主婦ですが)
貯金を1ヶ月、給料を3日で使い果たし、実家に金の無心「ダンナが安月給だから」
朝食が食パンに牛乳、夜はファストフードかスーパーのお惣菜、カップめん。
子供が出来たら、食事の準備も旦那さん。気晴らしに一人で遊びに行き、朝まで戻らない。
あげく、生まれた子供は明らかに人種が違う。日本人じゃない。すったもんだして離婚。
実家に戻るも、資金不足とワガママが通らないことで頻繁に自殺未遂。別居になる。
そういう状態なので、地元にはもう相手にする人がいないらしい。
そうかー、私はいいカモだったのねぇ。メールアドレスを拒否設定にしました。
その後は平和です。
自宅の住所と電話を教えなかったのは、何か感じるところがあったのかも。
性別について考えるきっかけ、は色々ある。
不思議なことに、女性が極端に少ない場合、女性の行動は両極端な2パターンになる。
一つは“女王様”もう一つは“同化”だ。
男を顎で使うか、どんどん混じっていくか。私は後者だった。なぜか中途半端はやりにくくて仕方がなかった。
こんな事を書こうと思ったきっかけはある先輩とのやりとりが原因だ。
ある時作業が遅くなってしまい、先輩と帰ることになった。私は大学の最寄り駅の近くで一人暮らし、先輩は実家だった。
夕ご飯を食べていなかったので、何か食べて帰ろうかという話になった。
大学近くは学生向けの店が多くあったが、どこかに入るそぶりもなく先輩は一直線に駅まで向かった。
私が「何処行くんですか?」と聞くと
先輩「え、君の家で何か出して貰えると思ったんだけど・・・」
私「いや、そういうのはちょっと・・・もう遅いですし」
先輩「そっか、いやーそれぐらいには仲良くなれたかと思ったんだけどなー。ごめんごめん。」
ご飯出すだなんてそんなこと言ってない。確かに会話中に一人暮らしで家と駅が近いといいはした。
先輩が自分を襲うとは思ってはいなかったが、あんな遅い時間に男と2人なんてありえないと思っていた。
正直なところ自分がそう言うことに対して神経質であることは自覚していたが、
もしもなにかあったら取り返しがつかないし、そのような場合被害者も非難されるので防犯意識が高いことが悪いことだとは思っていない。
それぐらいで丁度いいと思っていた。
ショックは受けたが、そのときは男性はあまりそう言うことを考えないのだろうと思い、ファストフード店に入った。
なんとなく違和感を感じていたが同時はあまり気にしていなかったように思う。
先輩が、「君達は旅行とかしないの?」といった。
私「特にないですね。今女子私しかいないんで、せっかくみんなで旅行しても一人部屋になっちゃいますし。」
先輩「え、部屋別々なの?」
私は絶句した。すると同輩が
「やっぱ女性ですし。そりゃそうでしょー。」と言った。
私は確かに男と同化していた。重い物を運ぶときは体力腕力の違いはあれどできる範囲で運んだ。
重い物を誰かに持って貰うことは、私にとってお得なことだろう。でも私は女性だからと言う理由で優遇されたりはしたくなかった。甘えたくなかった。女性を武器にしたくなかった。
人それぞれとは思うけども、同じように何かすることの方が私にはよかった。
でも私は、彼らの前で服を着替えたりはしない。
私は女で男ではないから、女子トイレや女子更衣室と言った区別は必要だ。
私は確かに、男と同化していて、女っぽくないと評されるけれど、人によってはいい意味で女っぽくない、いい友達だと言われたりする。
でも私はやっぱり女性なので、女性的なものを完全に捨てているわけではない。
これを読んでくれた人の周りにも、さばさばしてたりとか、男性に混じって女性とは思えないような働きをしていたり、女捨ててるように見える人がいるかもしれない。
元々そう言う気質の人もいるだろうし、その方が楽という人もいると思う。
でもやっぱり何でも言っていい・していいというわけではないのだと、そう思う。
無駄な消費をやめることになると、文化、芸術、娯楽が真っ先に衰退すると思う。
こういう分野って、へんな言い方をすると他の産業の成長の「おこぼれ」を貰って成り立ってるわけで、
社会に無駄な金と時間が余ってないと回っていかないんじゃないかと。
出版、音楽、映像、みんな金が稼げる仕事じゃなくなっていくと思うよ。
ネットのサービスが基本無料なのも、広告を出す会社があるから成り立つわけで、
衣食も、高級なところとか個性的なところは軒並みダメになって、ファストファッション、ファストフードばっかになるだろうし。
性風俗産業とか、クラブ、キャバクラ、スナックとかも全滅するんじゃないかな。
経済成長のない「持続可能な社会」って、エコロジカルで地産地消で、みたいなイメージがあるけど、
実際にはその前に不景気で地方は軒並み衰退して、大都市でないと生きていけないようになる上に、
すべての消費が個人の趣味嗜好ではなくて、必要性で選ばざるを得なくなるような社会になるんじゃないか?
ニッチ向け産業が成立しなくなって、マス向けの大量生産、大量消費だけが残ってしまうんじゃないか?
ttp://diamond.jp/series/beyond_valley/10083/
検索を逆手に取ったメディア・ビジネスが今、アメリカで大きな羨望と非難の的になっていることをご存じだろうか。
その名は、デマンド・メディア。数々のサイトを傘下に持つメディア会社だが、そのビジネスの核心は、ネット・ユーザーがたった今、知りたいと思っている情報を探り当て、そのコンテンツをほぼリアルタイムで制作し、それをネットに上げてページビューを稼ぎ、広告でボロ儲けすること。創業から4年足らずの同社は、この手法で2009年には2億ドルの売上げを稼いだと言われる。
仕組みはこうだ。
同社が開発した独自のテクノロジーがミソだが、それによってまず現在ネット上で話題になっている事柄、キーワードが抽出される。これに基づいて、競合他社の動きも考慮して予想広告収入をはじき出し、さらに独自のアルゴリズムによって、コンテンツを制作するにふさわしいテーマが吐き出される。テーマには、検索ですぐにひっかかり、検索結果では上位に表示されるような目立った表現が盛り込まれている。
さて、いったんテーマが決まると、デマンド・メディアは「コンテンツ募集」というかたちで告示する。同社のデータベースには、何万人ものフリーランス・ライターやビデオ制作者が登録されていて、彼らは自分に合ったコンテンツを見つけると、さっそく手をあげて執筆や撮影、制作に取りかかる。
制作されたコンテンツは、他サイトのコンテンツからの無断流用がないかどうかを調べるために、これまたコンピュータにかけられ、合格すればデマンド・メディア傘下のサイトに掲載される。これが一連の流れである。
(中略)
1日にサイトにアップされるテキストやビデオ・コンテンツは、何と4000件を数える。これもファストフードならぬファストコンテンツとでも呼ぶべき量産体制の賜物だ。この体制を支えるライターやビデオ制作者は、同社のサイトで常時募集している。
フリーランサーたちは、テキスト記事では15ドル程度、ビデオ制作では30ドル程度の報酬を受けている。失業者があふれる昨今では、珍しくペイされる“開かれた機会”を提供しているということにもなるが、ペイの水準はよくてファストフード店員並みか、それ以下。一時ユーザーが生み出すコンテンツ(UGC)という動きが話題になったが、デマンド・メディアは、そんな悠長な善意に頼るのではなく、もうスウェットショップ並みのコンテンツ工場なのである。
(中略)
こうした人気に羨望が集まる一方で、批判も決して少なくない。批判の中心は、他でもないコンテンツの質である。ライターやビデオ制作者はプロ級の人材とは限らず、「数打ちゃ、当たる」式のデマンド・メディアの方法に則って、ともかくコンテンツを量産し続ける。あまり質の高くない、使い捨て的ファストコンテンツで収入を稼ぎまくるというアプローチに、メディア・サイトのかたちをとった「あこぎ」な商売だという非難は多い。
この論を読むにあたっての前提
・「バカ」とは単に学力に限らず、知的活動全般(コミュニケーション,芸術なども含む)における能力が劣っている人物を指す
・「美人/ブス」をx軸、「賢い/バカ」をy軸とし論を進める。(「学力/EQ(学力以外を暫定的にこう括る)」というz軸は議論を煩雑にするので省略する)
・「不幸」の定義が非常に曖昧ですが、「幸せが少ない」よりも「苦しみが多い」寄りのニュアンスで捉えてください
自意識を植え付けられた現代人に共通すると思われる欲望の一つとして、「自己承認欲求」というものがある。これは己が他者から承認されたいと思う欲望である。これが満たされない場合、人間はフラストレーションを募らせ、不安定な状態に陥りやすい。
しかし、当然ながらこの自己承認欲求は万人に対して保障されているわけではない。ここの自己承認欲求の不均衡が起きる。そして、危険なことに、この自己承認欲求を満たすために女性には安易な「性」という交換価値が与えられている。
しかし、「性」を交換して得られる自己承認欲求は概して薄っぺらく浅いものであることが多い。「性」と交換に承認を得た女性たちは、結果的により深い、より切迫した欠乏感に苛まれる。
典型例としては、「ヤンキー娘が男をとっかえひっかえした挙句に妊娠して高校中退」のようなものである。この場合、彼女は「勉強ができない」という劣等感や、不幸な家庭環境による愛情への飢餓を、「性」というエサに群がる男性から求められることによって補おうとしたものと考えられる(ヤンキー娘の家庭環境が不幸とは限らないという反論に対しては、前提条件で挙げた「バカ」が知的活動全般を含むという点に注意を喚起しておきたい)
しかし、概して、このような過程を経た出産、それによって形成される家庭というのは同じ末路を辿りやすい。これが文化の再生産・階級の固定である。彼女の、「性」をエサにして自己承認欲求を満たすというプライドのファストフード店は、妊娠・出産というクライマックスを経て閉店に追い込まれる。生まれる子供が女子であれば、その子供も「バカ」で「美人」である可能性が高い。
では、「バカでブス」の場合を例にとってみよう。彼女たちも「自己承認欲求」が満たされず、苦しい時代を余儀なくされるという点ではバカな美人と同じである。しかし、この場合、彼女たちには交換価値となる「性」がそれほど高い価値を持たない(まあそもそも若いってだけでブスであろうとデブであろうと性的価値はあるんだろうなとも思ったけど、飽くまで二者間の比較において)
よって、どうなるか。彼女たちは男性たちから得られる浅薄な愛情すら受けられず、非常に厳しい環境で生育することになる。最初は男性から求められるバカな美人を見て羨望に身を焦がすこともあるだろう。しかし、やがて気付くのである。あんなことをしても何にもならない。
器質的に同等の知力を持つと仮定した場合、大人と子供では大人のほうが賢い。なぜならば、それはそれまでに培われた経験、そしてそこから得られた「情報」が存在するからである。よって、「子供でバカでブス」よりは「大人でバカでブス」の方が賢い。そしてこの場合の「経験」は必ずしも自分自身によってなされる必要はないのである。バカなブスはバカな美人の失敗を見て学ぶ。
ここで、「でば、バカな美人であっても、経験によって己をブラッシュアップすることは可能なのではないか」という質問が成り立つ。それは正当な反論であり、その場合は「美人」というカードが役に立ち始めることもあるだろう。しかし、彼女たちの場合、それ以前に妊娠や結婚において、人生の再チャレンジにおける不利なカードを引かされている可能性も高いのである。
バカなブスは少しだけ賢くなって漕ぎだしていく。
バカな美人は錨を下してしまったため港から離れられない。
そのような意味において、「バカで美人」よりも、「バカでブス」のほうが、不幸に「なりづらい」という結論が成立する。
以下は余談
平たく言えば「同じバカならモテるよりモテないほうがむしろ幸せなのでは…
幸せが言い過ぎなのだとしたら受ける傷は少なくて済むのでは…」ということを加護さんについて考えて思ったのでした(彼女はそれで生活の糧を得てるから上の論には必ずしも当てはまらないけど)。しかし、「モテ」を分水嶺にすると知的能力云々のあたりがややこしくなるので(「モテる時点でバカではないんじゃん」等)今回は容貌を用いました。
とりあえずイメージとしては、
「高卒派遣OLひとりでバラエティ番組を眺めながら食べるオリジン弁当の夕食」
と
「ヤンキー上がりシングルマザー母子家庭でワーキングプア水商売はじめました」
の対比としてイメージしてもらえるといいと思います。
それでも「ひとりじゃないだけ後者のガマシ」という人に関しては私とは価値観が違うとしか言えない。
「賢くて美人」と「賢くてブス」とを考えた場合は、個人的にそこに(不幸になりやすいかどうかという点において)あまり差はないんじゃないかと思います。幸せになるために踏まねばならない手数の多さという意味では「賢くてブス」のほうが上だろうけど、それをきちんと踏襲するというニュアンスも「賢い」にはこめてあります。
そもそも、(前提で述べたような極端なケースを除けば)「美人」と「ブス」という分け方が極めて恣意的なものなので、この場合の「美人」というのは単に「多くの人がその人を美人と思う」という事実に過ぎず、また「ブス」も然りです。そして、重要なのは、「需要の多寡は必ずしもそのものの優劣と比例するわけではない」という点です。
よって、例えば「ブス」だったとしても、自分を需要する層というのを的確に判断する能力があれば、それは決して弱いカードではなく、単に使いどころの難しいカードであるに過ぎないのです。むしろ、場合によって強いカードにもなりうる可能性を秘めているのです(RPGで、人魚のキャラが陸上戦ではHP少なくて弱いけど、水中戦では無敵みたいな感じ)
以上をまとめて「不幸になりづらいランキング」を作るのであれば、
という図式が成立するのではないかと思います。
十八才の時、自らの進路を決めるために志望校を決めた。本当は十八才なんて若さで将来のことなんか分かるわけないのに、その時の感情のおもむくままに、また周りの友人に流されるままに進路を選んだ。
冬になってセンターを経て受験が始まった。どこの会場に行っても、殺気に似た息づかいがひそひそと聞こえてくるようだった。寒い校外とは別に、教室の中だけは熱気に満ちていた。
第一志望の受験は一番最後だったのだけれど、その前にいわゆる「滑り止め」をいくつか受けた。受験しているときは自分が自分でないような気がして、もしこのまま受かってここに来ることになったら、いったいどんな四年間(以上)を過ごすことになるのだろうと不安にも思っていた。
幸か不幸か、その学校には合格した。あとは第一志望の受験を残すのみとなった。
第一志望の受験会場に行ったときには、足が震えていた。それは決して寒いからではなくて、周りのあまりの士気の高まりに自分がついて行けず、怖くて震えていた。それぐらい周囲の誰を見てもやる気に満ちあふれていた。
この時点で負けは決まっていた。当然ながらその学校には落ちてしまった。それも完敗だった。受験会場を後にした時点で負けを自認していた。
親には反対されたが、もう一度、第一志望の学校を来年受けてみようと思った。自分の進路に対する思いというものが、この敗北により徐々に明らかになっていくのが分かった。そう考えると、一度落ちたということは良かったことなのかもしれない。
四月になり、みんなの新生活が始まった。無事進学した者はそれぞれの場での活動が忙しいし、自分たち浪人組もまたこれから一年の戦いが待っていた。
最初は不安だった。勉強をするのは苦ではないが、それだけでこの貴重な十代最後の年を過ごしていいものか。また、勉強したからと言って確実に受かる保証をいったい誰が与えてくれるというのか。
これらの不安を払拭してくれたのは友人たちだった。授業が終わると一緒にファストフードやカラオケにいってお互いを励まし合った。自分が一人でないことを確認できた。みんなで一緒に壁を乗り越えていこうという気持ちになった。
やがて夏になり、秋が過ぎて、冬が来た。
今年もセンターの季節になった。しかし一年前とは違っていた。自分が進むべき道は自分の頭の中ではっきりと描かれていた。だからモチベーションを維持できた。この一年間、友人たちとも話しながら、決して遠くない将来の自分たちの姿を語り合ってきた。こうあるべき、とまではいかないが、こうなりたい、という希望や願望を夢とともに話し尽くした。
そんなバックボーンを抱えたまま、センターの会場に向かうと、周りの人間を圧巻した感じになる。自分は自分の力で道を切り開いて進んでいるのだという自負がある。
その年のセンターは大成功だった。予想以上といってもいいぐらいの成績を収めることができた。
二月になって、試験もいよいよ本格化してきた。昨年、事情により「蹴っ」た学校にも再び合格することができた。そしてまた、いよいよ、第一志望校の受験の日がやってきた。
受験会場に着いたときは、去年の自分とは違っていた。去年の自分のような人を横目に見ながら、さっそうと会場を練り歩き、目的の教室へと向かっていた。昨年と同じ会場で、二回目の会場なので、余裕もあった。
試験中は自分の最大限の力を発揮した。迷いはなかった。緊張もどこかへ吹き飛んだ。あるのは目の前にある真っ白な答案用紙のみ。そこに思いの丈をこれでもかとブチ込んだ。周りを威嚇するために、わざわざ大きな鉛筆音を出してカリカリと答案用紙を真っ黒にしてやった。
試験が終わって会場を出たときには、何とも言えない達成感があった。自分はやり遂げた。目標や夢というものに向かって歩き続けているという現実感を感じていた。そこに結果は必要ではなかった。自分の成長具合に自らが興奮していた。
約二週間後、合格発表があった。
…自分の番号はなかった。
もちろん泣いたが、そこには進歩した涙があった。これはあくまで予定調和で仕組まれた道なのだと、後になって十分に納得した。やるだけやって、自分が進んできた道は間違ってないと確信していた。結果というものは運命の導きであるから、それは胸を張って受け入れなければいけないと思った。
…結局、その後に受けた第二志望の学校に無事合格した。そして入学した。そのことについて、何ら負い目はなかった。確かに自分が想定していた進路は変更になったが、それについてはこの一年間で十分に吟味して、いろいろな可能性を考えていた。人間、どういう道をたどることになっても、そこで自分の力を発揮できればいいし、そうでなければいけないということを分かっていた。
結果的に受験自体は成功はしなかったけれど、この一年で得たものには限りない財産性があることを実感した。
一年前と比べると、自分の意志が確固としたものになっていたし、この一年間は決して無駄ではなかった。単なる時間つぶしのためのものではなかった。この一年がなければ、自分は人生において大きな欠損を抱えたまま生きていくことになるのだと思った。
浪人を勧めているわけではないが、人はどんな状況においてでも自分の価値を見出し、その価値を実現するために行動できるということが分かった。その信念に基づいて行動すれば、一般に辛いといわれる浪人の状況でも前向きに生きていくことができた。
今ではこの一年というのは、自分の人格形成を司った、極めて重要な一年だったということができる。そして友の存在。彼らとは未だに全く関係が切れていない。むしろ年々盛り上がっている。
自分は、こんな素敵な一年をこんな素敵な友と過ごせたことに感謝している。この時点において、自分の人生はまだ「点」に過ぎなかったが、今やそれは現在につながる「線」になっている。「点」が多くなければ「線」は存在し得ない。
そして今もまた、mixiやインターネットを経由した色々な面から「点」の形成をなしえている。感謝してもしきれない。
思えば、自分がもし第一志望に合格していたら、今の自分はなかった(もちろん別の自分があるのだけれど)。そう考えると、今の「線」のつながりを振り返り、また、前を向いて「線」を展望するに、不合格だったことはまさに運命のなせるものだったのかもしれない。
今、友人として多くの人と交流させてもらっている。これは運命なのだと。そしてその運命を今は楽しんでいるし、受け入れている。加えて、運命の「線」を先に延ばそうとがんばっている。その過程がとても楽しくて幸せである。
人によって「幸せ」といったものの定義は違うだろうが、少なくともここに一人、人生において「幸せ」をありがたく享受している人間がいる。たとえささやかなものであれ、それがみんなに行き渡ることができたらこれほど素晴らしいことはない。
人は、どんな状況からでも「幸せ」を獲得することができる。無駄な時間は一秒たりともない。自分が「幸せ」になろうと思えば、誰だってそうなることができる。間違いなくできる。「幸せ」になる権利がある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ziprocker/20090910
2001/8/9発売の本の引用に、わらわらと750人以上が群がっている。
911テロ、マイケル・ムーア「アホでマヌケなアメリカ白人」、モーガン・スパーロック「スーパーサイズミー」… 一連のアメリカに批判的な言説(の相当にメジャーな部分)へちょっとでも興味があれば、ネタ元「ファストフードが世界を食いつくす」にたどり着くのは簡単だ。たどり着いていないのであれば、それは興味なんてほとんど持ち合わせていなかったということだろう。
「パンドラの箱を開けよう」なんてネゴトをいうziprocker君も大概だが(それは邦訳時点ですら8年前からずっと開きっぱなしなんだぜ。しかもアメリカのマックは日本では食いたくたって食えない)、それに群がるブックバカーはなお低レベルだ。ひどいのになると証拠が欲しいだの言ってやがる。ネタ元は画像つきで紹介済なんだからさっさと読んでみろよ(笑)。それとも全文Webに上げてタダで読ませてくれなくちゃ嫌だってか?
まともなのも何人か混じっているとはいえ、大多数のやつらはさしたる興味もないのに考えなく騒いでいるにすぎない。ほんとに興味があるなら今からだってネタ元へぐらい触れろよと思うが、Amazonの「ファストフードが世界を食いつくす」ページについたブクマは現時点で15。見える分ではこの9月以前に興味を示していたのが6人、9月11日から興味を持ったのがやっとこ6人だ。そう、たったの6人!
つまり、ほとんどのブックバカーたちは「身近な『貧乏人のメシ』について」の「すでに多くのブクマを集めている」ものに、「カネのかからない範囲」でようやく反応しているだけのことなのだろう。それ以上のこと―例えば本を一冊読むとか―なんてできやしない! 8年前からも、これからも。
かりに「マックが食べれなくなる無数の理由」があっても、それがどうしたというのか。少しのカネさえ惜しいバカたちもまた無数におり、「マック」もまた無数にあるのだ。かれらがそれらを拒絶するわけはあるまい。
数字だけでは味気ないので(食生活の話だけに)
そう考えた経緯を書きたいと思う
今日は訳あって自分の食事をスーパーで揃えなければならなかった
なおかつ台所が使えないので調理することもできない
ただ買うだけは詰まらんのでちょっとした遊びを考えてみた
モスよりも安くて満足できる内容で揃えたい
自分の中の定番メニューだからである
そんなこんなでスーパーに行ってみた
同じもので500kcalとるよりも複数のものでとった方が幸せだ(限界効用逓減的に)
次に食事で大切のは栄養素だと思った
そこで500kcal以上を目標とし、炭水化物、タンパク質に注意して選ぶことにした
そしてモスに対等になるためには調理をしないことが必要となる
以下今日買った物
計844円(特売・値引きがなかったら1118円)
家にあったティーパックのお茶で+5円ちょっとと言ったところだろうか
400円強、これはモスに対して勝利したと言っていいだろう
でも200円足すことで、食器洗わなくてよかったり
お帰りなさいご主人さまと声をかけてもらえたり
そういうサービスが受けられると考えると
ファストフードで済ませてもよかったかなと思った
スーパーにおいておおむね1食は400円前後で手に入れられるだろう
300円くらいと予想してたが思ってたよりも高かったかなというのが印象
面白いのが、人件費を100円と考えるとスーパーでもファストフードでも
1食はだいたい400円で用意できるということだ
おおむね400円で食という財を同じ満足で用意できる
食の種類は豊富に選べるというのにだ
僕にとってはとてもいい条件である
非常に早計な考えなんだが、こういうことを考えたら
ご飯を食べながらしみじみ思ったわけでした。
1、2ヶ月に1度という頻度でサシ飲みする女友達がいる。
僕は日常的にはお酒を飲まないのだが、彼女はかなり頻繁に飲む人。
「『酒は飲んでも飲まれるな』って言いますよね」と言うと、「でも『飲んで飲まれて飲まれて飲んで』とも言いますよ」と返してくる、晩酌当たり前というお酒好き。
双方の趣味嗜好に重なる部分が多く、いつも終電間際まで飲みながら楽しく話し込んでしまう。
先日いつものように2人で飲んでいたら、彼女がビール5、6杯で酔い潰れてしまった。
それまでの経験から、まさか彼女がビールだけで潰れるとは思わなかったので驚いた(後で聞くと彼女自身も驚いたらしい)。
予想外の酔い方をしたのは、若干の体調不良と睡眠不足からくるものだろうというのが彼女の弁。
ビール2杯とサワー1杯しか飲んでなかった僕は早々に酔いが醒め、しばらく休ませれば大丈夫だろうと、テーブルに突っ伏したままの彼女とファストフード店で雑談しながら休憩していた。
しかし終電間際になっていざ駅へ向かおうとすると、20mも歩かないうちにビルの壁に手をついてうつむき立ち止まってしまう彼女。
こりゃ結構酔ってるなーと思いながら、とりあえず彼女の背中をさすってみる。
「このまま電車に乗ったら降りる駅で乗り過ごすかもしれません」
「それに気持ち悪くなって途中の駅で降りたら、終電後に立ち往生しちゃいそうです。だから私はここ(繁華街)で一晩過ごすので、先に帰って下さい」
というようなことを言われ、酔っているが状況分析はできているなと思った。が、素直に帰るわけにはいかない。
「大丈夫ですから、もう帰って下さい」と必死に何度も乞われる。
うつむいて相手にもたれかかりながら言う台詞じゃないですよ、それ。
「もう大人ですし、限界まで酔っているわけではないので、独りでも何とかなりますから」
確かに大人だが、酔った友人(しかも女性)を置いて帰るというのは、人としてどうかと思いますよ。
「ひどい状態に見えているかもしれませんけど、それは人が一緒だと甘えてしまうからで、独りになれば気が張るので大丈夫です」
説得力ゼロです。本当に大丈夫な人は「大丈夫」とは言いませんよ。
「じゃ、とりあえず駅に行きましょう」
そう言って歩き出した彼女が、足元をふらつかせてよろめいた。危なっかしくて見ていられないので、有無を言わさず僕の腕を掴ませる。と、しがみついてきた。
ああ、こりゃだめだ。とても独りにできる状態じゃない。
この時点で帰る気が完全に失せた。
走ればまだ終電に間に合ったとは思うのだが、駅に着いても僕が帰る様子がないのを察すると彼女も観念したらしい。近くの店を探して入ろうということになった。
駅を出ようとすると本格的に雨が降り始めていたので、傘を差して彼女を入れる。
「お酒を飲む人間として、飲まない人間の前では潰れないようにしようって思ってたんですよ」
僕と腕を組んでしがみついて歩きながら話す彼女。
「誰しも他人にいいところを見せたいっていう思いがあるじゃないですか。こういう姿は見せたくないんですよ」
それは分かりますが、貴重な姿なので見ていて面白いです。
「一応、酒飲みとしてのプライドもあるんです」
そんなものは犬にでも食わせろと思います。
「でも、これで酔っ払いを介抱する貴重な経験ができましたね」
まったくです。
「隣にいるのが別の可愛い女の子だったら『ウフフ』な展開で良かったんでしょうけど。……なんかオヤジですね」
ねーよ、と思った。そもそも一緒に飲むような女性なんてあなたしかいませんから。おそらく今後も。
「本当にすいません……」
今回、彼女の口から「すいません」という言葉を50回くらいは聞いた気がする。
結局、iタウンページから探して見つけた近くのネットカフェで一夜を過ごすことに。
寝やすいようにフラットタイプのブースへ彼女を入れ、温かいお茶を渡すと、僕はリクライニングチェアのブースに入った。
空調が少し涼しかったので、受付で借りたブランケットを彼女に渡そうと思い、ノックしてブースの扉を開けると既に素足を放り出して寝入っていた。
見たところ特に異常もないようなので、広げたブランケットを彼女にかけるとすぐ自室に戻り、原哲夫『花の慶次 ―雲のかなたに―』を読みふけった。実に面白い。
いつしか寝入っていたらしい。ふと早朝に目覚めてから、ぼーっと色々なことを思い返していた。
そこで、女性と腕を組んだのは人生で初めてだということに気付く。もしかすると女性との相合傘も初めてかもしれない。
そういえば意識的に女性の肌に触れたのすら何年ぶりだろうか。だから何だと言うわけでもないのだが。
余裕がないと、あまり考えずに行動してしまうものなのだなと。
「がっつり寝てしまいました」と寝起きの彼女。それはよかった。
何だかんだで、別れたのは昼も過ぎた頃だった。
昨日新宿のマックでモンハンやってたら、仕切りを挟んで正面の席に女の人が座っていた。服装は派手だったんだけれど、顔はまあパッとしない感じ。残念な子だなーとか思って特に気にせず、えいやーと狩猟に興じていたわけですよ。
黒龍を狩り終わって、一仕事終えた後のコーヒーが美味いのは「ごうけつ」の証だね、だなんて言ってたら、正面の女の人の顔が激変してた。アレですよ、劇的ビフォーアフター。メイクをし始めていたのには気づいていたんだけれど、いやまさかそんなに変わるのか。ビフォーは本当にビフォーアフターに出てそうな感じだったのに。
そりゃ化粧品売れるわとかも思ったんだけれども、そもそもマックに来てメイクするって何事だ?電車の中とかならまだ「朝時間がなかったとか」で許される、いや許さんが、と思うんだけど、なぜにファストフードで。時間があるんなら家でやってくりゃいいんじゃね?アレか、家だと親が厳しくて派手なメイクができないとか?
こりゃモンスターハンターからミステリーハンターにジョブチェンジして、草野さんと競演するしかないね。あ、ミステリーハンターって基本スタジオ出演ないや。
俺はそんな日曜だったけど、お前ら何してた?
なんかでっかい街道沿いにそういう店が並んでる。それ以外でちょっと小じゃれてそうな店をみつけても
たいして味よくないくせに、もうごった返すくらい混んでたりする。
そういうところに住んでる人は(地方都市)その中でお店探すの大変だとおもうんだけどな。
そういう奴、絶対居ると思う。
社会に出て一般常識のようなものがわかりかけてくる頃の奴に特に多そう。
高校生ぐらいになってくると「企業の要職にあるものは、たとえプライベートでも発言には気をつけなければいけない」という常識っぽいものを学習してくる。
例えば「店員と言う立場を利用して私的な行為に及ぶ」ということが非常識だってことも高校生はわかりかけてくる。だからこそファストフードでゴキブリを揚げたことを告白した店員のことをみんな叩いた。あれ、行為そのものが不愉快だから、という動機だけで叩いたわけじゃないと思うんだよね。
世の中の仕組みや道徳が身についてくると子供って無邪気にそれを行使したくなるもんなのよ。ゴキブリを揚げるような店員を叩くことには圧倒的な正義があるじゃん。だからこそみんな叩いたんだと思う。
人は自分に正義があると確信できたときは、調子に乗っていくらでも残酷になれるんだよ。
で、今回の梅田叩きっていうのも正体は案外そこにあると思ってる。旧来の考え方では「取締役が顧客に向かって愚痴をこぼす」なんてことは絶対にあってはならないとされてきたはずだ。だからこそここぞとばかりに「あるまじき行為だ!」と叩いて社会的制裁を加えている俺カッコイイって気分に浸りたかったんじゃないだろうか。