https://www.jiji.com/jc/article?k=2021032501134&g=pol
左派知識層がいつも指摘しているように、日本には慰安婦問題で反省の色が見られない。
左派や中国の指摘する通り日本には慰安婦の人権問題がくすぶっており、新疆ウイグル地区の人権問題に発言する資格なんてないかも・・・
左派や中国からたしなめられている通り、日本はバイデン政権やEUに同調して他国に口を出す暇があったらまず自国の問題を解決すべきだろう。
一般化するに従って内容がワイドショー化しているので、自分にとっては雑音化しつつある。
TVはオワコン、作為的などと言いつつTVと同じところに丸く収まりつつあるところを見ると、TVの番組構成は作家が視聴者におもねり続けた結果生まれた、と言っても言い過ぎではないように思える。
多分二十歳ぐらいから、怒りを表明することは意味がない、非効率だ、と考えて怒らないようにしてきた。
もちろん時には感情として怒りを感じることはあったし、その感情が外に出てしまったこともあったと思う。
それでも少なくとも「怒りを表明するよりも、問題点を淡々と指摘し、落とし所を見つけていくべきだ」というのを自分の行動規範の一つとしてきたと思う。
そうすると、副作用として、怒りを表明している人に対して軽蔑の念を覚えるようになる。
とはいえ、そういった人を表立ってバカにしたり、非難するようなことは、基本的にはしていないつもりだ。
それは怒りの表明とはまた違うが、それに準ずる行為であり、それもするべきでないと考えているから。
だけど自分は単に怒らなくてもやっていける程度には恵まれた立場にいるだけだということに最近ようやく気づき始めた。
男性として東京でソフトウェアエンジニアとして働いていると自分は明らかに多数派だし、そこそこ仕事はできる方なのでそれなりの自己肯定感と給料を得ながら生活できる。
全てではないが、あらゆるものを持っていると思う。
怒ることなく穏やかに振舞い続けていると、「増田さんって本当に落ち着いてますね」「人格ができていますよね」ということをたまに言われる。 (たまにね)
「そんなことないですよ、結構しょうもないことにイライラしたりもしてますよ」と謙遜して返したりするが、自分の信条を肯定されているようでとてもいい気分になる。
だけどそれは、単に「怒る必要がない」からできているだけのことである。
自分の場合は怒るまでもなく周囲の不快さをある程度取り除けるので、怒る必要性はかなり低いし、怒らない方が多分圧倒的に効率よく物事を進められると信じられる。
そこに最適化された結果の振る舞いに過ぎない。
だけどこのような生き方は、「怒りを表明する人」に対して直接的に非難したり攻撃はしていなくとも、間接的にはそういった人々の評価を下げているのかもしれない。
彼ら彼女らは人間としての程度が低かったり損得勘定ができないから怒っているのではない。
確かに、損得勘定がもう少しできれば怒らずに済む、という仮定は成り立つかもしれないが、社会の歪みのせいで日頃から感じているストレスだったり、そういった状況に対する無力感が蓄積していたら、「問題点を淡々と指摘」できるほどには自制心が働かないこともあるだろうし、それどころか怒った方がむしろ効率が良くて、そこに最適化されている可能性だって考えられる。
もちろん、怒らないと問題を解決できない状態よりは、怒らなくても解決できる状態の方が望ましいとは思う。
だけど現実はそんなに綺麗じゃない。
他人の心をそうやってジャッジして的外れなポリコレ棒を振り回す人生は楽しいですか?
弔い方は人それぞれだし、悪ふざけに見えるシーンがあったからと言って死者を悼む気持ちがゼロだったかは誰にもわからないわけ
だから、自分の信じる形式以外の行為をした他者の心の中を勝手に断定して批判することは、褒められたことではない、というだけの主張が元増田には書かれてある
それでもまた、いやだって明らかに気持ちがないの丸わかりじゃん、と思ってしまうならあなたは本当に危険な思考をする人間だと自覚したほうがいい
この色の蝋燭以外はうちのじゃないから半分も燃えたら早めに処分すること
嘘だと思いたいなら別に構わないし、形式を遵守することこそ弔いだと考えるスタンスもそれはそれで尊いと思うので、お好きにどうぞ
四半世紀勘違いしてた。