多分二十歳ぐらいから、怒りを表明することは意味がない、非効率だ、と考えて怒らないようにしてきた。
もちろん時には感情として怒りを感じることはあったし、その感情が外に出てしまったこともあったと思う。
それでも少なくとも「怒りを表明するよりも、問題点を淡々と指摘し、落とし所を見つけていくべきだ」というのを自分の行動規範の一つとしてきたと思う。
そうすると、副作用として、怒りを表明している人に対して軽蔑の念を覚えるようになる。
とはいえ、そういった人を表立ってバカにしたり、非難するようなことは、基本的にはしていないつもりだ。
それは怒りの表明とはまた違うが、それに準ずる行為であり、それもするべきでないと考えているから。
だけど自分は単に怒らなくてもやっていける程度には恵まれた立場にいるだけだということに最近ようやく気づき始めた。
男性として東京でソフトウェアエンジニアとして働いていると自分は明らかに多数派だし、そこそこ仕事はできる方なのでそれなりの自己肯定感と給料を得ながら生活できる。
全てではないが、あらゆるものを持っていると思う。
怒ることなく穏やかに振舞い続けていると、「増田さんって本当に落ち着いてますね」「人格ができていますよね」ということをたまに言われる。 (たまにね)
「そんなことないですよ、結構しょうもないことにイライラしたりもしてますよ」と謙遜して返したりするが、自分の信条を肯定されているようでとてもいい気分になる。
だけどそれは、単に「怒る必要がない」からできているだけのことである。
自分の場合は怒るまでもなく周囲の不快さをある程度取り除けるので、怒る必要性はかなり低いし、怒らない方が多分圧倒的に効率よく物事を進められると信じられる。
そこに最適化された結果の振る舞いに過ぎない。
だけどこのような生き方は、「怒りを表明する人」に対して直接的に非難したり攻撃はしていなくとも、間接的にはそういった人々の評価を下げているのかもしれない。
彼ら彼女らは人間としての程度が低かったり損得勘定ができないから怒っているのではない。
確かに、損得勘定がもう少しできれば怒らずに済む、という仮定は成り立つかもしれないが、社会の歪みのせいで日頃から感じているストレスだったり、そういった状況に対する無力感が蓄積していたら、「問題点を淡々と指摘」できるほどには自制心が働かないこともあるだろうし、それどころか怒った方がむしろ効率が良くて、そこに最適化されている可能性だって考えられる。
もちろん、怒らないと問題を解決できない状態よりは、怒らなくても解決できる状態の方が望ましいとは思う。
だけど現実はそんなに綺麗じゃない。
俺は反対だな。そんな人は別に偉くは無い。どうにかまわる様に体を動かしているヤツが偉い。怒りを表明している事は別に偉くない。 それだけが目的になって、年がら年中怒っている...
怒るとかって方法で熱量を無駄に使いながらするより 同じことを冷静にできたほうがよくない?
何かを変えたい、と真に思うなら、それは怒りではなく説得と相手への共感が必要だと思うんだよね。今の時代は特に。怒りは分断しか生まない気がする。
浅いルールベースで生きてると極論から極論に行き来するだけになりそう
元増田はスラムのルンペンがクセェのは環境が悪いからだったんだねプギャーwwwwって言うのをいやみったらしく言ってるだけだと思ったんだけど反応を見るとそうでもないのか?