人間を使った感染実験をしてるわけじゃないから、現時点では「どうやらウィルス核感染はなさそうだ」ってとこまでしか確認出来てない。
飛沫核感染については、換気なんかをすることで飛沫核が外に行くし、ウィルス核を包む飛沫が換気による風の流れ等々によって蒸発することで、ウィルス核になって感染力を失うってことで効果があるとされてる。
関西の方言と言っても、兵庫、京都、大阪、奈良、和歌山で結構違う。
もちろん、県の中でも種類がある。
で、関西以外の人が考えるいわゆる”関西弁”って大阪から奈良にかけての言葉なんだわ。
空気感染(ウィルス核感染)は無視できるというか確認できてないが、密閉された空間では空気感染(微小飛沫感染)が確認されてるから、換気やらなんやらを推奨してるんだぞ。
ウィルス核と飛沫核についてごっちゃになってるんだろうな。
実態として、手指を通じた感染に比べて、空気感染がどのぐらいあるの?
それはオフィスの窓開けてると防げるの?
そんなことは考えずに「ありまぁす」って言いたかっただけなの?
倉庫では犬を飼っていた。
しかし、倉庫に行く用事がなく犬のことは気掛かりではあったが放置していた。
暫く振りに倉庫に行くと犬は餓死していて、その体は半分溶けていた。
どうすればいいのだろう。
悩みながらも始末することができず放置した。
以来、俺の後を馬がついて来るようになった。
自分は少し強迫性があって、外出の際に火の始末や家の戸締りをきちんとやったという確信はあるものの、心のどこかでその確信に自信が持てないでいて何度も確認せずにおれなくなる。
この夢も、倉庫を借りたことなどないし、犬など飼ってなどいないのだけれど、なぜか自信が持てずにいて、本当は倉庫を借りて犬を飼っていたのではないかという気持ちが心の底に残っている。
不正アクセス犯 はやく捕まえて欲しい
略奪行為許せないマンがネットでアメリカデモを批判してるけど、日本人なんてデモで警官ぶっ殺してるんだよな。
沖縄では殴打の後、火炎瓶投げて火達磨、すぐ消火されたもののくも膜下出血で死亡。
渋谷では身動きができないように殴りつけてきちんと失神させたあと、ガソリンをかけて、火炎瓶を投げて焼き殺した。
一部の過激派のせい、って分断してるから「日本人は民度が高く平和的な民族」っていう自己認識に浸れるけど。日本人の中には一定数の過激な人間が居ることに変わりはないんだよ。
警官からしたら見分けられないんだから、身を守るには暴力が前提になってくるし、その過程でうっかり殺しちゃっても仕方無くない?
書いたらすごく語弊があるけれどサ終に際してドラマ性を持たしてくれるような気がしている
バイトが冷凍庫に入って写真撮影してTwitter等にあげるのを叩いたり
それを見ていて、ふと思った
「自分は正義の人()だ」と思いたいとかがあるのではないだろうか
自分と同じように叩く行為をしない人を差別する人までいるときいた
自分はとかく善人であり、自分と同じ行動をしない人は悪人にうつるのだろうか
誰かに流されて生きる人は辛そうだ
「他人が叩いているから」「話題だから自分も」とか自分の意見はあるのだろうか
どうしてそこまで叩きたくなってしまうのだろう
俺は他人にまったく興味がないのだ
何が言いたいのか分からなくなった、じゃぁな
逆に気を使いすぎていて向こうからすれば表面的な会話でつまらないんじゃないか?
最初は浅い話から始めて、どこかでちょっと切り込んでフッキングしないと。
嫌われても次の人いくらでも探せるのがアプリのいいところなんだから
ダラダラ続けても実際に会ったら盛り下がるからもっと突っ込んだ話して2週間で飯に誘え。
それで嫌われるような相手なら1か月でも2か月でも多分無理だ。
コロナの対策について話してるのに、コロナの実態を無視するのはナンセンスだぞ
タイヤの摩擦についての計算をするのに、空気抵抗ならともかくタイヤの摩擦係数を無いものとしたら「摩擦はあるぞ」って反論するだろ
黒人差別が話題だ。Twitterのタイムラインを見れば毎日毎日、飽きるほどに論じられている。私は差別問題に詳しいわけではないが、黒人の置かれた状況に対する一定の同情はあるし、黒人差別に限らず差別と呼ばれるものはなんであれ、少しでも減ってほしいと心の底から願っている。これは嘘偽りのない本心である。
だから、私は黒人差別も少しでも改善してほしいと思っているし、現在熱心に活動している方々を応援してもいる。しかし、その一方で、自らが受けている差別に対して声を上げられること自体に嫉妬を覚え、結局、黒人差別は自分とは無関係な問題だと思わずにいられない。このことについて少しだけ書かせてもらいたい。
唐突だが、私は激烈なブサイクで、ついでにADHDである。小・中・高と容姿(と言動)が原因で酷いイジメに遭い、それが原因でうつ病も患った。25歳現在も治療中で、社会復帰は望めないのが現状だ。私は今、「イジメに遭った」と言ったが、要するに、「容姿差別を受けた」ということだ。(「障害に対する差別」もあったかもしれない。)
私は、容姿差別、特に思春期におけるそれが解決可能な社会的問題だとは思わない。中学生(特に女子)の、本能的に気持ち悪いと感じたヒトは誰であれ人間として扱わない態度を思うとき、ブサイクな生徒が公立中学校で尊厳を保って生きていけるとは到底思えない。稀に、自分の容姿のマズさを自覚したうえで社会的に上手に振舞う、という高度な社会性を備えた中学生もいるが、あらゆるブサイクな中学生に対してあれほどの社会性を要求するのは社会的に公正ではない、と私は思う。
容姿差別は「チー牛」画像の広まり方を見ても分かる。あの画像は、社会が「ああいう容姿」の人間をどれほど見下しているかを的確に表現している。しかしあの画像を容姿差別だと言う人はほとんどいない。当事者でさえあれはギャグであると受け止め、自ら率先してネタにしていかなければならない空気が出来上がっている。「チー牛」画像に対して「差別だ」と声を上げることは単純にダサく、空気が読めず、そんなんだからお前は「チー牛」なのだ、と言われるべきことなのだ。
要するに、私は「容姿差別が解決した社会」を強く願うが、どうすれば実現できるか全く分からないし、そもそも、そのような社会を想像することすらできない。一方で、黒人差別に反対している人々は「黒人差別が解決した社会」を明確に想像することができるし、実現のための具体的な方策も見えている。私にはそれが(皮肉とかではなく純粋に)羨ましい。自分の経験した、また経験している差別問題には解決の糸口すら見えず、同じ問題意識を共有してくれる人もおらず、ただグズグズと感情が腐って毎日サインバルタとデパスを飲むだけの私には、差別問題に真っ向から向かっていく姿はきらきらと輝いて見える。
そして、黒人差別が解決したとしても自分は容姿差別を受け続けるのだと思うと、黒人差別は自分とは全く関係のない事柄に思えてくるのである。差別は少しでも減ってほしいし、「みんな」が仲良く暮らせる社会が実現すればどんなに良いことかと思うが、「私以外のみんな」が仲良くしていても私はちっとも嬉しくないのだ。