はてなキーワード: テイスティングとは
少し前のAはどんな料理でも美味いと行ってくれた。当然チェーン店の飯に文句を言うような奴ではなかった。
私は基本何でも美味しいと思って食べてるので、私と同様に味の好みが激しくないAと飯に行くのが好きだった。
しかしAは食品メーカーに入社してから少しずつ変わってしまった。
開発部署に入ったAは様々な調味料をテイスティングするようになったため、味にうるさいヤング海原雄山になってしまった。
どこかに飯に行くとまず調味料をテイスティングし、美味しければ良いのだが美味しくない場合は「酸味が足りない」「後味が良くない」等の辛口レビューを食い終わってから言うようになってしまった。
今ではAと飯に行くために食べログ評価上位の店を探さないといけない。中途半端な店は難色を示すのだ。当然すかいらーく系列の店等、難癖をつけられそうなチェーン店はもってのほかだ。
自分が美味しく食べていたものをけなされるかもしれないという不安からAを飯に誘うことは今後ますます減っていくだろう。
あの頃のAに戻って欲しい・・・
見ているかA?お前がどんな美味い飯を食ってもメーカーは忠実に再現できねぇぞ。そのギャップからくるモヤモヤはきっと身を滅ぼす。
コロナのせいでサントリー山崎&白州蒸留所の観光はできないけれど、そのかわりにオンラインライブなるものをやっている。蒸留所の解説や美味しいハイボールの作り方、うまいツマミの紹介...などなどを1時間堪能する。
特に、事前に送られてくる白州ミニボトルとロゴ入りテイスティンググラス(ブレンダーが使うものと同じもの!)を使ったテイスティング体験なんてのもあったりして、参加費は3300円。これはお買い得だと思って飛び付いてしまった。
オンラインライブは白州蒸留所が根を下ろす土地の紹介に始まり、博物館や蒸留施設、ウイスキーの製造行程にまつわる解説。最後に、テイスティング体験と質疑応答といった流れで進行した。
全体を通して面白いオンライン体験だった。だけど、やっぱり現地での体験にはかなわないんだろうなあと強く思ってしまった。サントリーがアピールする「森の蒸留所」の空気は、現地に行かなきゃ分からない。でも、オンラインという形は遠方の人にはありがたかったろうし、立地ゆえに出てくる「運転手だから飲めない!」とか「電車移動が疲れる」みたいなストレスを感じずに白州を味わえたことは良かったと思う。
ちなみに、ミニボトル&テイスティンググラスのセットはメルカリで5000円以上の値段で転売されています。参加費3300円でもらえるセットなので、買わないことを強くおすすめします。
申し込みフォームの所に「転売目的の申し込みはお断りします」って書いてあるのに...
たくさんの人々が情熱をかけて造るウイスキーが、ウイスキーに対する愛なんてかけらもない人の懐を肥やすために利用されるなんて、なんとも悲しいばかり。貧相な倫理観を持った人たちのせいでウイスキー業界がダメにならないことを祈るばかりですね。
誰も、他人の口内から発せられる音を聴きながら食事をしたいなどとは思わない。
日本とか海外とか関係なく、音を立てずに食事することは、「普遍的なマナー」である。したがって、それに従うことが文化的で国際的な振る舞いである。ここで、「普遍的」というのは、単に多くの地域で行われるということではなく、その背景に覆し難い原理が存在するということである。たとえば、基本的人権などの概念は、たとえ守られていない地域の方が多くても、政治の普遍的な原理なのである。麺を音を立ててすする行為は、そういう普遍的なマナーを無視した非常に恥ずかしい行いなのである。
「麺をすするのは日本の文化である」と主張する人がいる。しかし、結論から言って、そのような文化は無い。
この主張をする者の中には、落語家がそばをすする演技で音を立てることを理由に、それが日本の文化だと主張する者が多い。しかし、冷静に考えれば、これが相当な論理の飛躍であると分かるはずだ。たとえば、アニメ「ドラゴンボール」の食事シーンでは、登場人物がムシャムシャと盛大な音を立てたり、食器を叩いたりしながらものを食べるが、それが日本の文化であると主張する者はいない。それは見る者に何を表現しているのか伝えるための単なる「演出」であり、そのような文化が存在するわけではない。
そもそも、文化であれば音を立ててもよいのだろうか。古代の国の多くでは、殉死や族誅といった人権を無視した行為が慣習的に行われてきたわけだが、それは「文化である」という理由で正統化されるだろうか。先にも述べたように、「食事で音を立てない」というのは、人権が認められるのと同様に普遍的なマナーであり、それに従うことが真に文化的な行為である。
「すすることで風味が良くなる」と主張する者もいる。たしかに、食べ物と空気を一緒に口に含めることで、その空気が鼻から抜けるので、食べ物の風味をより感じられる。ソムリエがワインの鑑定をするときに、ワインを口に含みながら空気を吸うのはこのためである。
しかし、この主張は根本的におかしい。「彼が食べ物を最大限美味しく味わえるかどうか」と「マナー」は別問題だからだ。こういう主張をする者は、動きやすいからといって、結婚式や葬式にジャージで参列するのだろうか。そもそも、例に挙がったソムリエも、品評の場以外の公の席で、ジュルジュルと音を立てながらワインを飲むことはない。
特定されない為に以下の記述にはフェイクをいくらか織り交ぜてある。
人が苦しむ姿を見て楽しむのが趣味だ。
そんな俺がここ最近特に観察するのを楽しみにしているなろう作家がいる。
彼は40万字書いてアクセス数がやっと一万五千を超えるかどうか。
対して俺は書籍化にはほど遠いが100万アクセス以上の作品がいくつかある中堅作家といったところか。
その男は別にリア友という訳ではなく、ただのネット上の知り合いだ。
だがその男がエッセイで、活動報告で、ツイッター上で吐き出す苦悩を見るのが本当に好きなのだ。
誤解されないように言っておくが、彼の力量は決して低くない。
むしろ俺などよりもずっと巧みで、彼の作品を読む度に俺にはこんな文章は書けないと思わされる。
そんな彼が何故俺程度すら超えられないのか。
これは単に俺が彼の作品を読んだ感想でしかないが、彼の作品にはいつも何処か寂莫とした感覚が憑き纏う。
読んでいて居心地が悪いというか。座りが悪いというか。
「この登場人物に本当に感情移入していいのか」とビクビクしながら読み進めることになる。
彼の作品には「書きたい」という気持ちも「読みたい」という熱意も篭もっていないからだ。
彼は単純に「書ける」ものを書いている。加えて大衆受けする作品でもない。
だからと言って俺は彼に「自分の書きたいという気持ちや読みたいという感情を大事にしなよ」とはアドバイスしない。
彼はエッセイで絶叫している。
スランプの最中で自分の書きたいものを書けなくなってしまったと。
どんなコンテンツに触れても「作品の為のネタ集め」としか思えなくなって、自分の読みたいと言う気持ちが分からなくなってしまったと。
そんな彼に上記のアドバイスをするのは「お前には絶対に名作は書けない」という宣告に等しい。
俺は彼の筆を折りたくない。彼の苦悩をずっと見ていたい。
だから俺は何故彼の作品がダメかの根本には触れないようにしながら、彼が苦悩を吐き出す度に共感する振りをしつつ、優しい言葉をかけ、当たり障りのないアドバイスをする。
彼がなんとか作品を書き続けてくれるように。
しかし彼も薄々分かっているのだろう。
自分は「書きたい」「読みたい」という感情がないから駄目なのだと。
分かっていながら届かないものに手を伸ばして、それが指先にもかからない人間の苦悩は何よりも価値がある。
彼の人生が上を向くことはあるのだろうかと思う。
彼はフリーターで、もういい年だ。
根っからの無性愛者(アセクシュアル)で他人と恋をしたいと思ったことが無い。
それでも書けるから書いてしまうことが彼の苦しみを助長させている。
もし彼がうつ状態から回復できれば「書きたい」や「読みたい」も生まれるかもしれない。
でも、彼にそんなチャンスがあるだろうか。
そう思い悩み、彼の境遇に思いを馳せ、彼の苦悩をテイスティングする。
俺は彼の苦悩のファンだ。
こんなに価値のある苦悩をしている人間がいる、と誰かに伝えたくてこの文章を書いた。
できれば彼が自ら命を絶つことなく、筆を折らず、無名作家のままでいてくれることを俺は願う。
無茶な願いだろうな。
AbemaTV「極楽とんぼKAKERUTV」で私が受けたハラスメント|桃子|note を読んで思ったわけだが、ぶっちゃけ、日本社会の仕様なのだろうな
現場のよくわからない一般人が周囲に呑まれることを利用して、黙って(騙して)利用する。dentsuとかもそうだが、この手の業界の「文化」なんか? マニュアルでもあるんか? ビジネスモデルなんだろうね。
例えば、勝手に先に交渉をしてしまってから、本人に言うことを呑ませる。ナベツネの「大連立」フィクサーとか、初音ミクと小室哲哉のコラボとか思い出すね。日本の仕様なんだろうな、shit
キーワードは「ポピュリズム」(衆愚)。イジメを娯楽にして、観衆が普段抱いている不平不満を逸らす。イジメを見せることがストレス解消。
古代ローマ(末期)のコロッセオで奴隷を剣闘士にして、勝ち抜いた者は奴隷脱出して市民権もらえる。ちなみに古代ギリシャだったら逆で、市民は政治家で兵士で命かけたからな。
江戸時代の大相撲が、力士に武士相当の身分を与えた(だから、マゲ結い、帯刀)と似ている気もする。
まともな近現代国家だったらありえんと思うのよね。娯楽を提供するのはプロの芸だし、対等な人間の立場だし、有能なエンターテイナーは収入も多く出る。
一般人を抜き打ちでテイスティングする下衆の世界なんだな、と思った。で、ウケのよい(儲かる)一般人は次回以降も重用する。「既成事実」に迎合して「空気読む」忖度芸人がべんり。ちょっとしたカネと引き換えにイジメられる芸人を一般人からスカウトしたいんだろ。
使える奴は使うが、責任も押し付ける。使い倒す。べんり。要はいわばチンピラ。水脈とか。刺激的なヘイトデマをテレビで毎度垂れ流す「学者」とかもそういう手合い。
下っ端が責任をとらされる「トカゲのしっぽ切り」。上は責任をとらないで逃げる。シンゾーとかタローとか。
日本の仕様。要は金目(カネが目当て)の拝金主義者なんだし、階級差別の封建国家なんだし、既成構造を意地でも変えない既得権益にぎにぎ。
恥ずかしいと思わないのか、と言うのもムダで、こいつらわざとやっているんだからな。そんで、謝れば済む程度に思っている。
27歳、リーマン男。
付き合ってもうすぐ1年の彼女がいる。
顔はそこそこかわいく、友人に紹介すると俺にはもったいないと言われるほどの良い彼女だ。
彼女いわく、ひとりでは入りにくい。女子会では小洒落たカフェやイタリアンばかりで焼き鳥屋を提案しにくい。彼氏(俺)なら気をつかわないし週一の楽しみだから、なのだそうだ。
俺だってたまには可愛い彼女と小洒落たカフェやイタリアンに行きたい。
一度「俺が支払うから」と言ってフレンチに連れて行ったことがある。ディナーはすべてコース料理の店だった。
会計を終えたあと、彼女からお礼を言われたが、どうにもいつもの焼き鳥屋を出た後よりもテンションが低めだった。何か気に入らなかったか尋ねると、そうじゃない、料理は美味しかったしいつもと違った雰囲気で楽しかった、とかぶりをふる。
しかし、どうしても気になった。食い下がって聞いてみると、
背筋を伸ばしながらフォークとナイフを使ってお上品に食べたり、ワインのテイスティングをしたり、小声で会話をしたり、といったことに疲れてしまったという。
たしかに、焼き鳥屋のように気負わず、ゲラゲラと笑っていい雰囲気ではない。いつもと違う雰囲気を、と思って張り切ったのが裏目に出てしまったかと反省した。
そうしてずるずると焼き鳥屋を開拓する日々が続いていたが、もう限界だ。
ヤゲン軟骨も、ぼんじりも、ふりそでも、ねぎまも、もう飽きた。
食感が違うだけで同じ味に感じてしまう。
「クリスマスなんだからもっと良いお店にしてもいいんじゃないか」と言っても
「なんで?クリスマスにチキン食べるじゃん。七面鳥も鶏も一緒だよ」だそうだ。
一緒じゃねーよ、ちきしょう。