はてなキーワード: スカイ・クロラとは
今更言っても無駄だと、それがJ-CAST連中のやり方だと言ってしまえばそれまでかもしれない。Jカス絡みでこんなのはよくある事だ。けどやっぱり今回の仕業にはあまりにも目が余る。
これについてだ。
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
この記事は、朝日新聞社のサイトで連載されている小原篤の連載コラム「アニマゲ丼」を発端として書かれてるものだ
こちらがそれ
そもそもは11月12日に東京芸術大学で開催された、「第2回 映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」というセッションに押井守が参加し、トークした内容が大本になっている。
その模様はユーストでアーカイブとして見れたが、20日までの限定配信で現在は見れない。
まず「アニマゲ丼」の記事は、見出しが示しているように「若者は夢は持つな」という旨の発言を軸にしている内容である事がわかる
以下引用
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
「やさしい、というのは、励ますとか慰めるのとは違う。『親身になれた』という意味で、それまでは若者のことはどうでもよかったのが目を向けるようになったということ。で、若い人のことを考えれば、本当のこと、残酷なことを言わざるを得ないと思い、ちょうどそのころ中学生や高校生と話す機会がたくさんあったので、こういう話をした。あなたたちは限りなく凡庸で無名で何の個性もないんだ、『一人一人がかけがえのない存在だ』なんて大人のウソを信じるのはやめて、早く幻想を捨てろ、夢を持つな、あなた方の未来にいいことなんて何一つないんだ――というところから始めたらどうでしょうか、と」
なんて身も蓋(ふた)もない、と思いましたが08年8月11日の本欄で私は「スカイ・クロラ」について「あまりに救いのない、というか身も蓋もない結末ではありませんか」と書いていたのを思い出しました。
ここが「アニマゲ丼」で一番取り上げたい部分なのだろう。
この押井守の主張に関する是非は置いておくとしても、この記事自体はバイアスがかかっている気がする。
実際の講演は第2部「アニメーションと日本の戦後社会―ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間」というタイトルが付けられている通り
パトレイバーや攻殻機動隊を監督した者として押井がロボットやアンドロイドのあり方を問い、技術論を語り、さらに原発の話題にも振れていくところが主体の講演だった筈だ
ここのスカイクロラの部分はほとんど寄り道であって、「アニマゲ丼」の記事を書いた小原篤の主観として誇張気味に書いている節がある。
いわば押井の講演内容からコピーしてトリミングして、そこに小原自身の主観を交えながら書かれている記事だ。
J-CASTはそこから更に、何故か突然「萌えアニメ」「ハーレムアニメ」などと言った単語を挿入し、押井守が今の萌え・ハーレムだらけのアニメ業界に苦言しているようにも取れる記事を書いている
まずアニマゲ丼から、押井が今のアニメに苦言しているという部分を引用する
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。
これはどちらかというと、アニメ監督をすることで「誇大妄想の極限を味うことができる」部分に目が行くと思うのだが
前後をぶっちぎって、今のアニメのほとんどはコピーのコ(略)の部分に脊椎反射している人間が多いようだ。
しかしこの記事のこの部分は全貌するとこうなっている
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
押井監督は、日本人が科学技術の表面的な受容と円滑な運用のみにかまけ、その技術の核たる思想、技術をゼロから立ち上げる思想を持たなかったことが今回の原発事故を生んだと指摘。様々な当事者の認識を改めるために今回の事態をヒロシマ・ナガサキに続く「第3の原爆」と呼ぶべきだと訴えました。「技術の思想」の欠如は、ロボットに「かっこよさ」のみを求めるアニメ製作者の思考にもあてはまる、と自作「機動警察パトレイバー」をもとに批判を展開し、そして訴えかける核を持たない日本アニメは、その表層を細緻(さいち)に描き込み磨きあげることで「極東の島国の珍なる文化」として世界に地位を獲得したと分析。工芸品的に細部を作り込みたがるその日本人的な意識が、細緻(さいち)な映像表現に好適なロボット・アンドロイド・サイボーグなどへと向けられた結果、肉体や自意識をめぐるテーマへと結びつき、つまりはアニメという表現形式が発展過程でテーマをはらんでしまったのだと説き明かしました。そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。あと、ユニコーンガンダムのツノはアイデアとして面白いけど、だからどうなの?
ってな話を約2時間、相変わらず、とうとうとまくしたてたのでありますが(上のまとめは少々わかりやすくかみ砕いてます)メモをとるのが疲れました。私はそれより、新作の話はないの?って聞きたかったんですけど。
ここで「アニマゲ丼」の記事は終わる。
訓練された押井信者(笑)ならば、ここは「ああ、最後はいつもの押井で終わりだな」と、顔をほっこり緩めるところだろう。
「アニマゲ丼」としてはこれをオチの部分にしたかったに違いない。
アニメはコ(略)などはほんの極一部分にしか過ぎないし、これだけでは押井が真剣に憂いているのかどうかもわからない。
さて、J-CASTの方を見てみよう
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
朝日新聞は2011年11月21日付けの電子版コラム「アニマゲ丼」で、押井さんの東京芸術大学大学院映像研究科での講演(11月12日開催)を紹介した。講演で押井さんは
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
と語ったという。つまり、制作者には新たな創造性や、作品を通じて訴える思想的なものが欠如し、過去にヒットした作品の焼き直しばかり。例えば「萌え」が流行すればそうした作品ばかりになっている。また、今のアニメはオタクと呼ばれるファン層に媚びたものが多く、こうしたことから「表現」が制作者から無くなった、という批判だ。
確かに11年9月から始まった20本近い新作テレビアニメを見ると、さえない男性主人公の周りに美少女が群がる「ハーレムアニメ」が驚くほど多く、過去にヒットした「ハーレムアニメ」作品と共通する内容がかなり多い。
突然どこからか「萌え」「ハーレムアニメ」という単語が出てきた
押井が言いたいのは「アニメという現実に縛られない媒体を使うことで、監督の自己主張を完全な形で広められる。こりゃたまんねえ(快感)。でもそこまでやる奴ぁもうほとんどいないよね」という事を言いたかったのでは?これも俺の主観ですけど。
どちらにせよ「オタクの消費財」や「コピーのコ(略)」が萌えアニメやハーレムアニメだけを指しているというのは暴論だろ
その発言の直後に出てくるのはガンダムUCだし
J-CASTはあくまで「ネットでそう反応されてる」と言い訳のように使ってる
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (2/2) : J-CASTニュース
「アニメ業界が飽和しすぎで、コピー品を粗製乱造しなきゃ回らなくなってる」
「売らなきゃ食っていけないからな。安定して売れるのがオタク向けの萌えやエロ」
などと納得する人もいるのだが、現在主流となっているアニメのファン達は、自分達の趣味趣向、好きなアニメを批判するのは許せない、と激しく反発。しかし理論で立ち向かえないからなのか
などといった作品批判や、人格批判へと発展し、大混乱となっている。
これでJ-CASTの記事は終わる
J-CASTとしては、「ネットでは押井守が萌えアニメを非難していると言ってる」として、そこを拡大解釈しまくってこんな記事を書いたのだろうか
そもそもそのネットってのはどこのネットを指してんの?2ch?
ちなみにニュー速+では
【話題】「今のアニメはオタクの消費財と化し表現の体をなしていない」押井守さんの発言でネット上は騒動に
というスレッドが立ったが、それはJ-CASTの記事を受けてのものだったし、★4まで伸びたがそれ以上の次スレは立っていない。(追記、★6辺りまで伸びたっぽい?)
一体どこで"大混乱"になってるのか全然思い辺りが無いんですけど。
押井守の東京芸大での講演が、「アニマゲ丼」がダイジェスト記事にしている時点ですでにコピーだし
それを読んで、どこかのネットでは「押井守が萌えアニメを馬鹿にしている!」と憤慨しているならさらに劣化コピーで伝わるべきものが全然伝わってない
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
「二機ともビギナだった」
こんなセリフが出てきたのだけど、一瞬卑猥なほうを想像して、己の下品さに呆れてみた。
原作者の森博嗣氏は、小説内のカタカナ英語で、単語の最後の長音"ー"を省略表記する。
手元の本をペラペラとめくって出てくるのは、meter.trigger.hamburgerなどだ。
ビギナはbeginner
英語をカタカナにすると、正しくは表記出来ないし、どのように書いても、大きく音から外れず意味が通じれば良いと思うけど、映画のセリフでそのまま長音を省いた言い方をするのは、どうなのだろう。
私は慣れないです。
小説を読んでる人は、ーを省くのを知っているだろうけど、初めて森節に触れた人はどう感じたのでしょうか。
いやね、嫁と「スカイ・クロラ」行ったわけですよ。昭島のMOVIXにね。
そしたら、となりが若い娘の二人連れでポップコーンとか食ってるわけですよ。
「押井映画見ながら物食うな」とチャーチルも言ってるでしょう。
もう、檄怒ですよ。
押井映画っていったら、それこそクラシック聞くようなもんで、物音ひとつ立てずに、咳払いも楽章間でしかしちゃいけんわけですよ。
すなわち、はじまったらさいごまで、まんじりともせず、まばたきひとつせずにいるべきなんですよ。
普段、クラシックのコンサートで、となりのオヤジが指揮したり、鼻歌うたっても気が弱くて、注意もできない私ですが、今日ばかりははじまってからもボリボリやりやがったら絶対注意するき満々でした。
でもね、始まったらのっけからの押井ワールドに、修行僧のような集中力が発動し、娘のボリ音なんか全く気になりませんでしたよ。
あっとういうまの2時間。
「イノセンス」と「立喰師列伝」でやりたいほうだいやったから、かなりわかりやすい話になってるし、ましてや、押井映画で泣くとは思いませんでした。
エンドロールがはじまる直前のシークエンスもすばらしく、最後の静寂は、まるでマーラーの交響曲第9番が終わったあとの永遠の寂寞のようで、私の頭の中に美しい「無の和音」を響かせていました。(すいません、意味不明で。つまり、劇場内、まさに水を打ったような静けさですた。)
ほんと、終演後は思わず拍手をしそうになったし、心から生きていてよかった、この映画を見れてよかったと思いました。
空はどこまでも蒼く、犬は可愛い。世はすべてこともなし。
あと、信者なら大丈夫だと思うけど、エンドロール終わるまで席たつなよ。
後悔するぞ。
付記
私は押井中道リベラル原理主義者なので、右派の人みたく、加瀬某がどうとか、菊池某の演技がどうとか、そういう瑣末なことでは怒らないのです。
私にとってこの映画は、完全無欠です。
を見てきた。
押井の事だから原作とは全く別物にするんだろうと覚悟して行ったので、かなり予想外だった。
終わり方は原作と変えてあったが、まぁ映画としての切りの良さやらテンポを考えればアレで良かったのかなと思える程度。
最初のダムのシーン&草薙がカンナミ連れて別の基地に文句言いに行くシーンが、自分が小説読んでる時に脳内で描いていた映像と全く同じで驚くと共に興奮した。
犬は森さんが飼ってる犬にするのかなと思っていたらまたバセットだった。どんだけ好きなんだよ
期待した以上の内容で満足。
エンタな作りだったし、非常に良かった。途中で寝なかったw
ポニョがアドリブの固まりなら、こちらはまるで推理小説の様に理屈で綿密に
構築されている様な作りだ。
イノセンスは、世界に広がりがなく、小さな事件で終わってしまってがっかり、
みたいな部分があったが、今回は違う。舞台装置たる世界設定が良く
できているというか、世界(認識)に対する説明自体が、「推理小説を解くように」
CGと手書きアニメのギャップは相変わらず。いや、さらにギャップが大きくなって
いる。具体的には、CG中心の時は実写的なカメラワークを使っている。チャレンジ
としては面白いかも知れないが、正直まだこなれていない/未完成感はあった。
ヒロインの最後の笑顔は、なるほど、そうやって人は年を取っていくのか、という感じ
だった。パンフまで買ってしまった。(ポニョは買わなかったんだが)
興味のある方は映画館で見るべきだと思う。
だいたい書きたいことは書いたような気がする。そういえば私、この前Vガンダムの最終回をニコニコ動画で見ました。
十と何年かぶりでしたが自分の心にぴたりとはまるものがあった。
ただここ十年ほどは、そういった感情、気持ちの高まりや感動とかが体の中でぐるぐるとしていて、私は存在することそのものに我慢がならない。わたしのほしいものはもうある程度固まりつつあって、それは私の選択と思考の結果、その積層がなすのでしょうが、その中興の礎である森博嗣が、消えようとしている。
何かと向き合うということは極めて個人的なことで、共通見解を持つことも持たないこともあるけれど、最終的に何を引き出すかは全員が違い、それはその人の生き方と選択と、変容であるから、それをもって他人に言うこともないし、他人が言うこともない。出来ないというほうが正しいかもしれない。客観的に私を、この森博嗣に求めるものをその実に個人的な要素をわかる人がいたら、いいえいるとは思えないし、いなくて当たり前だし、いてなんになるというのか。私はほしいものが決まっていて、それは目の前にあって、高台からの眺めは追憶の中にしかなく、今現実に里帰りしても、見ているのは二十年前だとすればそれが生きる力に、遠まわりしてでもなっているのであれば、受容とは本当に個人的な行為で、ここにはもはや森博嗣も立ち入れない。それは私の森博嗣体験であるから。
人文学の成果は知っている。
ただ現実に、実感としてそれをまざっと私に見せ付けたその人のキャリアが最後になろうとしていると思うと、思うと。
スカイ・クロラ、私にしか見えない雲と雲の間で。
スカイ・クロラ、私の最後の道行きの、はるか手のとどかぬ上を。
スカイ・クロラ、私の知らぬうちに気づかぬうちに。
コカコーラのキャンペーンで小説がドラマ化されて私はあせった。世間の人が森を知れば、私は今よりもずっと仕事のできない人間になると思って恐れた。相対的に順位が下がる、それもドラマティックに下がることを真剣に恐れた。
素人目に見てもキャンペーンは陳腐で大失敗どころか、マーケティングとかブランドイメージの確立とかそれらの全く出来ない人たちがありもしない勢いで作ったかのような「顔の見えない」キャンペーンで、そもそもキャンペーンではなく、ただのコマーシャルのいち形態なのかと思うほどでやっぱりドラマもどうにも中途半端で少なくとも森を感じさせる映像作品ではなかった。
スカイ・クロラが監督の作品となったときも少し怖くなったが、やはり杞憂だろうと思う。
そして私はいまこう思う。
森博嗣の熱い世代がうらやましい。オタク第一世代というのかフロンティアの気概はやはり私を、いい時代だったんだなと思わせるのです。
私は今のファンや若者に力も熱もあると思うし、仮になくてもその中で自分を全うしたいと真剣に思い、そうあることを願います。
ちょっとわかってきました。私は森博嗣や鶴田謙二、庵野秀明たちに置いて行かれると思っているのかもしれません。いや消えるのは森さんだけでしょうが、彼らの中には共有する時代があって、それを持ったまま森さんの声は私に届かなくなってしまうのです。
庵野秀明はゼロ年代を越えてもいくばくかの創作はするだろうし、山田章博も作品を発表するはずで、岡田斗司夫も唐沢俊一も社会に伴走し続け、鶴田謙二は相変わらず早送りにしても微動が確認できないくらいの遅筆でしょう。
私の妄想はとどまらないようです。
森博嗣の日記の終わりは、きっと創作への別れなのだと思います。漫画から研究、そして小説を経て、工作への傾注は私の前を通り過ぎる電車のようで私はそれを見送るより他ないのです。工作も創作だろうし、いやただ消えてもう見えなくなってしまうことの失いはどれほどの遺産があっても私には大きすぎるのです。
グッドバイと言えればいいのでしょうが。もともと日記の終わりをリアルタイムで経験しなかった私は、一度の別れで済むのです。覚悟して二度目を迎えるほうが幸せでしょうか、今こうして吐き出しながら覚悟をしきれないでいるほうが幸せでしょうか。
思えば私の高校生のときにエヴァンゲリオンが始まった。その頃すでに森博嗣は世に出ていて、それでもなんとなくタイトルを見たか見ないかというくらいでした。その頃私は宮部みゆきと北村薫の子供だった。
いわゆる世紀末を越えて、その名を冠したアニメの影響やフォロワが周りに現れ続けていた頃私は緩やかに行き詰っていた。
学問の壁というべきか、私は師匠に恵まれなかったといえば傲慢になりますが、少なくともベストフィットの環境ではなく、それを乗り越える精神もなく、茫漠とした、とらえどころのない人生を送っていたと思う。これは本当に傲慢とも思われかねないし、上から見下すわけではないのだけれど、世の中を見るとその茫漠とした人生をずっと過ごしている人がいることを感じ、かわいそうではなくつらいだろうなと思う。世にいる、自分の存在を確立しようとして、営業成績よりもずっとあいまいな評価基準の世界に身を置いてそれでもがんばっている人たちよ、幸せであれと思う。
世紀末からゼロ年代にかけそして今このゼロ年代が終わろうとしている、言い換えると完全にゼロ年代しているこのとき、森博嗣が終わるというのだ。カクレカラクリなどと言う爆笑コメディ(あるいは世界初2時間忍耐ドラマ)をもスイッチバックとしてスカイ・クロラが押井守の手によって現れようとしていて、しかもそれはすでに完成している。
今私は森博嗣の理解者でもなく信徒でもなく、ただ個別に1対1で感じ取るだけの独立した存在になっている。
だからその映画や、これからこれまでの著作について私のみがわかっていると言うのは精確ではない。
正確に言えば、「私の森博嗣理解は、私にだけ最高の価値がある」ということになる。
だからこのまま消えていっても私には十分な読むだけの文章が、森博嗣の書いた文章が残った。それでいいはずだった。
だがそれでも現れては消える、この寂漠とした空気はなんだろうか。
瑞人か…orz EGコンバット完結まだかなあ。私はイリヤの最後の手紙のところと作戦名のくだりでどうしようもなくやられてしまったのでイリヤ命なのさ。四巻だけ何回読み返したことか。イラスト消してハードカバー版を出して欲しいなあと思う。あのイラストはちょっと引かれてしまうのでおすすめし難かったり。(http://anond.hatelabo.jp/20071018205714)
西澤保彦はジェンダー論ぶちかましてるのとかエログロバイオレンスいっちゃったりしてるのとか欝展開系は個人的にあんまり……やっぱり小説はハッピーエンドですよ。SMシリーズの続編はGシリーズというのかーと今知りました。スカイ・クロラは一作目で挫折。評価高いようなのでもう一回挑戦してみようかなあ。村上春樹はあのナルシスティックな文体についていけない…「ノルウェイの森」とか「神の子は皆踊る」?とか何作かしか読んだことないんだけどね。原りょうはいいね!新刊がもう望めないことだけが欠点。(http://anond.hatelabo.jp/20071018204000)
うるせー玉袋なんかねーよー!あっても読まないけど。(http://anond.hatelabo.jp/20071018210059)
マリみては黄薔薇革命ではまって世代交代で離れたなあ。むしろ「夢の宮」が読みたい……(http://anond.hatelabo.jp/20071018122821)
同じく就職してから読書量はやっぱり減った。昔は年間1000冊くらいは読んでたのになあ……(http://anond.hatelabo.jp/20071018233226)
もちろん読んでましてよ。書いた後見直したら色々と漏れてたー(http://anond.hatelabo.jp/20071018222539)
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喫茶店とかで朝から日が暮れるまで小説の話とかしたいなあ、と最近よく思う。すごい幸せなんだろうなあ。身近に読書友達が居る人が羨ましいぜ。ちくしょう。