はてなキーワード: ちくしょうとは
中学高校と英語赤点だった。もう本当に簡単な文でもわからないレベル。英文法はパズルにしか思えなかった。
MtG をやって、少し英文を覚えた。ネットで調べ物してたらなんとなく何を書いてるか見当つけられるくらいにはなった。MtG でわかった事は、必要性に追われ、情報が経験と結びつけばアホでも覚えるということだった。小学生がポケモンを覚えるようなものだ。
そのあと、ネトゲで外人とチャットしてたらまた少し英語が(チャットで)通じるようになった。この通じるってのは、正しい英文を書けるって意味じゃない。ネトゲでは、その場で共有している話の流れや時間や場所やそういったコンテキストがある。これが学校で暗記としてやった英語とは大きな違いだった。でも、よく考えたら僕らが使っている言葉というのは、共有されたコンテキスト下に無い方が珍しい。FPS や MMORPG でわかった事は、共有されたコンテキスト下でやりとりする分には、正しさよりも返せるかどうかの方が重要だし、文としてあまり正しくない言葉でも、しゃべる必要がある時に何もしゃべらないよりは役をなすということだった。
通じるということのありがたみ、楽しさを知れたのが大きかった。学校時代は、英語が通じるかどうかは 0 or 1 で、間違ってるくらいなら話さない方がいいと思っていた。言葉は間違わないためにあるのではなく、少しでも通じるためにあるのだと当たり前のことに始めて気づいた。この 0 が 0.1 になる経験はとてつもなく大きかった。
そのあと、Flickr 等のコミュニティで沢山の人から英語でコメントをもらうようになった。自分の作品について言われてるわけだから当然理解したいし、僕の作品についてのそれぞれの人からの感想というコンテキストがはっきりしていて、ここでも必要に追われることと、共有されたコンテキストという条件にうまく当てはまっていた。
どう思ったか何を感じたかという文章が沢山書き込まれ、知らない表現も多く必死に調べながら読んだ。不思議と、感情のこもった言葉は記憶に残りやすかった。難しい言い回しでも、その意味がわかった時、「僕にこんなことを言っていてくれてたんだ!」と思うと、それが頭に残る。当然逆に「ばかやろう!こんちくしょう!んなことわかってんだよ!」でも頭に残るのだけど。
こうした作品に対するやりとりで学んだのは言葉の方向性のようなものだ。気持ちの方向性というか意思の方向性というのかな。言葉の一つ一つには今の自分の気持ちはこっち向きでこのくらい、とかこのくらい離れてる気持ちとか、このくらい近づきたい気持ち、という何かベースになるものがあると思う。日本語に翻訳してしまうと沢山の関係ない意味があるように思いがちだけど、それは表面的なもので・・・うまく言えないな。新しい言葉を覚える時に日本語訳を覚えるんじゃなくて、その気持ちの向きと強さを感じるようにするというのかな。気持ちのある言葉を投げかけられると、それが結びついて記憶に残るから、引き出しが増えるのかもしれない。
そうすると、自分の言いたい事を英語にするときも、日本語にしてからその通りに英語にするんじゃなくて、自分の中にある気持ちの向きと強さを直接英語にできる時があってびっくりする。多分これは英語力とはあまり関係ないと思う。語彙がなくても、そういう感覚がわかれば、そういう風になってくる気がする。
(追記: 僕がそう強く思い始めたのは、Flickr や deviantArt でコメントをもらうようになってからだ。おそらく、写真や絵といった言葉ではないものについて言葉をもらうことで、その作品が与えた事――これは日本語でも英語でもないもっと原始的なもの――につながる言葉という視点を得られたのだと思う。当然、小説でも一般の会話でも言葉は他者の内面で理解されてそれぞれに意味を発するので、本質的には絵や写真となんら変わらない。ただ、言葉を使ったコミュニケーションがあまりにも一般化されていることが、言葉も表現でしかないことを人に忘れさせ、自分の思う通りに伝わって当然の魔法のようなものだと慢心させてしまうのだと思う。)
僕は学校英語教育を否定したいわけじゃない。正しい英語を学ぶ事は必要だし。僕が言いたいのはそういうことではなくて。
学生時代の時は英語が使い物になるには "正しい英語を覚える→英語でやりとりできるようになる→英語で考えられるようになる" という順序をふまないといけなくて、前の段階がうまくいってなければ、到底次の段階にいくわけがないと思い込んでいた。
でも実際はそうではなくて、その三つは全て平行してるんじゃないかなって。学生時代に、英語の必要性に追われたり、もしくはすごく英語が役にたったり、ちょっとでも伝わって 0 が 0.1 になる経験や英語で気持ちが直接伝わってくる経験をしていれば、英語に対する印象も取り組み方も、当然正しい英語を学ぶことについてのやる気も、違ったんじゃないかなって。
そうしたものは、学校ではカバーできないから、あなたの努力と向上心がたりなかっただけですよ、勉強の出来る人はみな当然それもやってるのですよ、と言われると反論できないのだけど。僕が中学生だった時には、FPS や MMORPG はまだ一部の人の遊びだったし、スカイプなんてなかった。今ならもっと敷居は低いのかな、とは思う。
俺これが内田樹さんが近頃の若者の無気力云々と頭ごなしに言ってることや、
ちきりんさんが日本人は馬鹿だ危機感を持つべきだと繰り返し念仏のように唱えていることに対しての
「普通の人の」答えの一つだと思うんだ。
(私は、国を背負う立場の人は、もっと高いレベルの応答責任が求められると思うけれど、
私たちみんなが、例えばちきりんさんの挑発に対してきちんとした答えを返す必要はないと開き直ってます。
というか、私達よりずっと応答責任のある「わかってる人」が下々の者をおちょくって遊んでるわけで、これはもうどうしようもないな、と)
結局のところ、世の中の仕組みがよく分からないんだよね。で、どうすればいいかもわからない。
分からないなりに考えたことは、どれもワクワクしないことばっかりでどうもヤル気がでない。そういうことなんだと思う。
そういうのを学べる相手は、高い学歴を修めて、良い企業に行ったりして、さらにそこでこれだと思う人を探す、くらいしないと見つからないのだと思う。
巷に溢れている大人たちは全くあてにならない。
50過ぎのオッサンは自分が世の中の仕組みをわかってて、自分たちが世の中を動かしてるつもりだけれど、
実際は身近な会社のルールを社会のルールと勘違いして、それを家庭に持ち込んで機能不全家庭を量産してるだけ。
識者の意見を聞こうにも、テレビはあれだし、ネット識者はマッチョだし、
学者に期待しても内田樹は思考のスケールが人類1万年の歴史レベルのため今この時、にぴったりはまるような話を期待できないし、
誰も知りたいことを教えてくれるわけではない。むしろあれこれと問題を掘り返してきては私たちの悩みを深くするだけ。
わかってないことをわかってるなら学べばいいじゃないか、と思うけどこれも尻込みしてしまう。
ちきりんさんを見るかぎり、世の中の仕組みはろくでもないことになっていることはわかるし、
それをわかるといきていけるかもしれないけれど、ちきりんさんみたいにろくでもない人間になるってこともわかってしまう。
やれやれ(春樹風・・・っていうか春樹の小説は「わかってる人」が「わかってる振りの人」を書いてると思うとなんかむかつくなこんちくしょうw)
あ、ちなみに遠藤先生にこういう粘着読者がいると知れると次からコメントが面白くなくなっちゃうかも知れないから、このことは秘密な。
(1)最初の不信感(支援者に対する「能力」と「本気度」に対する警戒)
アドバイスをする人が、
自分の真の問題を理解しているか真に効果的な解決策を持っているか、真に問題の解決を望んでいるか、などを試すまでは
アドバイスをする人を信用しない。
(2)安堵(支援者に対する過度の依存)
最終的には自力で問題を解決できるようになることが必要なのに、
アドバイスをくれる人が解決してくれるのを望むようになる。
場合によっては、アドバイスをしてくれる人が問題を解決してくれないことを不満に思うアレなケースも。
これははてなでは少ないだろう。典型例はモンペなど。あれは強欲とか傲慢なのではなく、
依存癖が身についており、自力で問題を解決する能力も意思もうしなった人の成れの果て。
(3)支援の代わりに注目や安心感、妥当性の確認を求めている(そもそも問題解決なんて望んでない)
社会において直接「私に注目して欲しい」ということは適切な行為とみなされていないため、
何か困ったことや問題をぶちまけることで他人の注目を集めようとする。
はてなの場合は自分自身が問題児として振舞ったり、頓珍漢な質問をしてブクマを求める行為など。
(4)憤慨したり防衛的になったりする(人にアドバイスを貰うことに恥辱を感じる)
成長することが自立を意味する文化では、自分に主導権があると信じたい気持ちが非常に強い。
他人にアドバイスを貰うことでさえ、自分の主導権への侵害であり、自立を損なうことだと感じてしまう。
「そんなことはもう試したが効果はなかった」とか「うまくいくわけがない」とか
他にもアドバイスをする人の面目を失わせるようなことをして、自分は相手と対等だとい気持ちを取り戻そうとする。
「はいはいいつものこういうタイプか」とか「ハックルハックル」とかいう反応を示す人間はこのタイプ。
目の前の人間に対しての興味が乏しく、認知リソースを節約しようとして他人をデータベース化する。
目の前の現実よりも自分のなかのかくあれかしを優先するため、まともに文章を読んで考えることが少ない。
はてブ数が多くなれば多くなるほどこの傾向は強まる。
友「月収30万で、そこからいろいろ引かれて、手取りは20万くらいだなあ」
俺「じゃあ、そこから家賃とかさらに引かれて、実際に使えるのは15万、10万くらい?」
友「いや、家賃は月収からいろいろ引かれている方に含まれてるよ?」
俺「えっ?家賃だよ?」
友「うん家賃だよ?」
俺「えっ?」
友「えっ?」
どうやら友人は会社の寮に住んでいて、家賃は給料から天引きされているらしい。
なので、手取り20万がそのまんま自由に使える金なのだそうだ。ちくしょうめーーーー。
手取りに家賃を含む/含まないでぜんぜん意味合いが違ってくると思うんだが。
手取りだけ見るとBの方が金持ちに見えるが、生活に余裕のあるのはAだ。
同じ月収30万でも人によっていくら引かれるかなんてバラバラだし。
わかんねー。
タイトルは何をあたりまえな、と思われそうだが、この当たり前のことを元増田はちゃんと説明していないのではないだろうか。
「ちくしょう、これはこうすればよかった。」
「あなたのあれはこうすればもっとよくなると思う。」
こうした言葉を「文句ばっかりいうなよ」「ネガるなよ」「現状で満足しろよ」とネガ発言ととる人がいる。これをポジティブだと考えてる人は、
と、現状で満足せずに「もっとよくできるかも」と考えているのだが、ネガだと取る人は彼らが現状で満足していないことにネガティブを感じる。ここで断絶が生まれてしまう。
ポジティブに受け取る人→現状で満足してない、進歩したい (前向きな俺はポジティブだな)→反省点はこうだな
ネガティブに受け取る人→現状で満足しろよ (文句いわない俺はポジティブだな)→ネガ言うなよ
全く同じことに対してこうなってしまう。ポジティブに受け取る人はもっとよくしようと考えている自分はポジティブだと思っていて、そのための反省や見返しや考察をする。ネガティブに受け取る人は、文句を言わないでやれてる自分はポジティブだと思っていて、だからこそ前者の反省や見返しや考察がネガに見えてしまう。会社や学校で、こうした断絶によるトラブルを経験したことのある人は少なからずいるだろう。
わかりやすいのが、創作系の馴れ合い。上達するには悪い所もびしびし言い合っていかないといけないのに、全部ネガだときめつけて、「ネガティブなことはいわないようにしましょう」と馴れ合う。そういう集団は上手くならない。見かけ上の仲の良さだけだ。
上手くなる人たちは、悪い所をびしびし言い合っても、そもそもネガを言われたとは考えない。否定的な事や批判を言われても冷静にそれを意見として受け止めて次に生かそうとする。
ネガティブに受け取る人がエスカレートすると、肯定的な意見以外は全部ネガだと受け取りがちになる。「私の周りの人は愚痴や文句しかいわない」と。そうなると、問題点を指摘されても素直に受け止められないから、取り巻く状況が改善せずに悪化していき、雪だるま式にネガだと感じる原因は増えていく。
さらにエスカレートするとネガティブだと感じることの原因を外部に求めるようになる。その根本は「もっとよくできるかも」と思えないことに起因してる。自分や現状が改善するという選択肢が無いから、外部に原因を求め、外部のアラがきになり、さらに世界がネガティブに染まってみえてしまう。そして愚痴を吐き出すようになり、周りの人までそのネガ循環に影響されていく。
この手の愚痴というのは、自己反省が伴わず、それこそ殆どの人にネガティブ発言、よほどポジティブに物事を取る人にもノイズとしか受け取れないようなものだ。
「もっとよくできるかも」と考えられる人はべつに恵まれた環境にいるわけではない。同じ環境にあっても、ネガだと思う人と、そうでない人がいるだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110813021554
「もっとよくできるかも」と考えられるようにしてあげる。強制的に何かをやらせるのではなく、解決の糸口をいくつか提示して自らの気付きを待つ。
一度でいいから小さな事からでいいから、自分自身の力で成功や勝利を味わう機会にめぐり合えるよう協力する。うまく行く時はこんな感じなんだなという経験が1度でもないと、失敗した時にこうすればよくなるかもとは考えにくいものだ。それが全く考えられなくなる事を、人は負け癖がつくという。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110710/p1
あれはオタの、女性めいた、陰湿な、いじめを目的とした連帯だと思ってるんですが。
そう、マミさんはちょっと調子に乗りすぎてこの約束事を破ってしまった。
その時から、マミさんはおもちゃとして、格下の存在として位置づけられるようになった。
うかつにも群れを外れたから。マイナス方向に大きく目立ってしまったから。格好の標的としてロックされてしあったから。
なんのこたぁない、ただのいじめだ。無邪気な。「いじってやってる」つもりの。傲慢な。
リアルだったらマミさんはさんざんいじられた挙句に「ありがとうございます」って言わないといけないんですよねわかります死にたい一般人にいじめられるだけならたいしたことないけどオタにハブられたりオタの中で一段下にランク付けされるのはほんとに死にたい。
あと杏子やクールなほむらがぼっち言われないのもめちゃくちゃ簡単な理由で、オタは自分より強い人間には決して立ち向かわない。ただそんだけ。いじってあとで反撃受けるのが怖い。たとえ二次元のキャラであっても、現実において卑屈な生活を営んでいるオタは本能的に強そうなやつをいじりに行くのは避ける。
そのかわり、メガネほむらが出てきた時のオタどもの目の輝きようといったら。いやみてないけどありありと想像できるわ。
「オラッもっと泣け、もっと震えろ」といいながらニヤニヤしてるオタどもの気持ち悪さといったら。はぐれものの魔法少女の中でもさらにハブられて、リーダー格のまどかおねえさまに頼らざるをえないほむらを見てボクは「もっと絶望しろ。もっともっと絶望しろ」って願ってた別に救われる必要はなかったむしろまどかに置き去りにされてざまぁって言いたかったちくしょうなんで救われてるんだずるいよほむら。
隣の家の少女って、最終部よりも中盤のほうがおっきすると思う。
痛ましさよりも背徳感が優っているからなのかしらん。メグ可愛いよメグ。
ほんとう可愛かったよ。
しかし猪瀬副都知事って、小説は同一解釈にとらわれないとかなんとか言ったらしいけど、今更ながらやっぱりへみょってしまうな。
自分なんて小中学生のころ、父親の書斎にあった小説のエロイ描写だけ探して読んでた時期があったんだけども。
解釈云々はこの際いいとしても、それすら行わない読者だっていることを失念している気がする。
同時期にこっそり拝借してた週刊誌の小説なんて、それこそグラビア写真なんぞよりもエロかったし、滅茶苦茶な内容だったけどな。
エロイついでに。個人的に、星々の舟とアッシュベイビーは興奮したなあ。おちん○んおっきした。興奮しちゃうよね。
さておきああいったものを、小さかった頃の自分みたいに解釈するまで持ち込まず消費する奴って、少なからずいると思うんだけどな。
そこんところ、猪瀬さんはどう思ってるのかしらん。
あと映画の話になるけど、スピーシーズもマトリックスリローデッドも健全な青少年の育成のためには悪影響を及ぼすと思う。
とくにリローデッド。家族で見てて気まずくなったわこんちくしょう。
世にも奇妙な物語でいつか見たねずみと入れ替わる話もゆるさない。絶対にだ。
ぜひ、一生に一度でいいからお兄ちゃんと呼ばれてみたい。そう、お兄ちゃんそれは実に素晴らしい響きではないだろうか
おにいちゃん…
お・に・い・ち・ゃ・ん
いや、にいにいも捨てがたい。あにきでもいいな。
死ねっって語尾にもう、そのまま屋上からだいぶして喜んでしまいそうですよ本当に!
僕の友達には妹もちが多いので、リアル妹なんて糞だといい、姉に走った不届き者がいる。
なにしろ、妹に踏んづけられたり罵倒されたりしているらしいですよ。
…私たちの業界ではご褒美なのではないでしょうか? ちっくしょうめ!
とにかく、僕も妹がほしい!
仮に、お母様にお願いしても離婚していて相手がいないから無理なのでそんなお願いはできないし…
紳士諸兄の方々は僕の活躍に期待されるかもしれませんが無理です。
お、お嬢様とか俺が結婚してえよ。うわああああああ、純真なんだろうなちくしょうが。爆発しろ!
そう! これは僕にも妹ができている可能性があるのだ!
そして! めちゃくちゃ可愛い美少女で純真無垢。そして、謎の存在のお兄ちゃんについて興味を持っているかもしれない!!
そして、ロリババアのお義母様が僕を思って濡らしているかもしれない!
まってろ! 今迎えに行くからな!!
父親への復讐も兼ねて、いろいろやっちゃうぞお兄ちゃん。
お嬢様ですよお嬢様。そりゃもう、男と接点がなく育てられてえろえろの美人さんに育ってるに決まっているじゃないですか!!
うおおお、エロい腹違いの妹を自分色に染め上げる。テンションうなぎのぼりですよ。そりゃもう、これなんてエロゲ状態ですよ
…自分の顔をよく見てみろって?
いや、多分僕の親は観たことないけどイケメンだし。ご令嬢と結婚できるんだからイケメンだし!
…ご令嬢が綺麗だとは限らないって?
いや、見たことないから。
見たことないからっ!!
…見たことないということは
つまり…見なければ、可愛い僕に興味を持っている妹がこの世界の中に存在し続けるという訳ですね!!
つまり、見なければ僕に興味を寄せている二人とハーレムな世界が広がるわけですね!
炉利義母と炉利妹とか俺得すぐるwwwwwwww
うはっwwwwwwwww
これで俺はあと10年戦えるな。頑張れ俺のパパン!
ニコニコ動画にしてみても、2ちゃんねるにしてみても、ツイッターにしてみても、というかありとあらゆるインターネットの形態として、どうしてコメントを残すことが流行っているのだろう。例えば面白い動画なり書き込みがあったときに、そのレスポンスとして草を生やす行為にいったい何の意味があるのだろう。あるいは短い一言、「泣いた」とか「ご飯食べてる」とかそういうもの。その発言は、本当にする必要があるものなんだろうか。何の意図があってそんな発言をするのだろう。
無論、その一言を誰かに伝えたいというのが根底にはあると思う。そういった伝える誰かを想定した書き込みならまだ理解できる。腑に落ちないのは、そういった誰かを想定していない文章、いや文章ならまだわからないこともないのだけれど、突発的な反応とか予定なんかを発言することだけはどうにも度し難い。何で「私はここで笑いましたよ」「ここが面白いと思いましたよ」なんていう感情を記号で表さんといかんのか。表さないと気が済まないのか。その一言を書きこむ前に、その一言を書きこんでどうしたいのか疑問に思わないのだろうか。
確かに初めこそ真新しさから書き込みをしたくなることもあるとは思う。でも、次第に飽きてくるものでしょうに。いや、もしかしたら飽きている人が大勢いるのかもしれない。そして、そういった何気ない意図を持たない(あるいは今のところ理解出来ない)コメントをしなくなっている人が増えてきてるのかもしれない。その減少傾向よりも新規のコメンターが多いのかもしれない。ツイッターなんてその最たるものなのかもしれない。
はっきり言って、自分が今何をしているのかとか何をどう思ったのかなんてことを呟くことに価値は見いだせない。逆に、よくそれだけの呟きに自分の思いをまとめられるものだと感動する。更に逆説的(使い方間違ってるかもしれない)に考えるに、やはりその呟きというものは突発的な短絡的な発言でしかないのである。突発的ないし短絡的な発言は、その時そのタイミングで本当にしなければならないものなのだろうか。もっと後から考えてみて整理して、そうして発言するに値するか考えてもいいんじゃないのかな。
まあそういった発言をする行為を否定するわけではないけれども。
自分個人としては、ここまで書き込んだこのチラ裏にしてみても削除を検討してしまうので理解がしにくいだけなのだ。だって、どう考えても音声だとか感情に生まれた「呟き」なり「発言」は、それを文にする際に客観的にならざるを得ないものでしょう。今現在私がどのようなことをしようとしているのかが目の前に提示された際、それに何の意味があるのか――違うな。本当はわかってるんだなあ。意味なんてないけどそうしてしまう時の心情というものが。文字にすることは自分には無理だけど、感覚的にわかっている。少し落ち着いて考えて見れば、少なくともわかったような気にはなれる。そして、そのことに疑問を呈する不毛さもわかる。馬鹿馬鹿しいことだよなってわかる。
さて、ここでよっぽど問題にしたほうがいい事柄が持ち上がってきた。けど、一瞬のことだったので忘れてしまった。何につけても自分は忘れっぽいのが良くない。←この一文を書いてしまったことによって、いよいよ本格的に思考の流れとでも言うべきものが全くの別方向を向き始めてしまったので始末に終えない。上に書いてある、よっぽど問題にしたほうがいい事柄ってなんだったんだろう。なんとなく持ち上がってきたけど、また沈みやがった、ちくしょう。こんな築一経過を報告したチラ裏を発言するつもりなのかどうか、それはまた別問題なのでこの際横に置いておく。なんていうか、かくあるべき発言みたいな問題は今は考えないようにしたいし、そもそもそんなものはあり得ないのでどうでもいい(とか言いつつ、理想のあり方みたいなのを考えてみて、結局それにも欠点というか、見方によって性格ががらりとかわることがあるのでどうでもいいなんていうゴミクズじみた結論にしか達しないのだろうなあ)。また忘れた。推敲ってした方がいいのかしらん。仮にもこれは不確定多数の誰かに見てもらうことを想定した、あるいは見られてしまうことが確定的な文章なのに、こんな破茶滅茶な形態でいいのだろうか。良くないと思う自分と、これはこれで味があっていいのではないかしらんなどとふざけたことをぬかしおる自分がいる。
ああ、問題点。何となく当て嵌まる適切な言葉を見つけた気がする。
『不確定』。これこそが、先に記述したよっぽど問題にした方がいい事柄であり、ありとあらゆる物事に対した時に生じる自分の問題点だ。問題点とするとネガティブすぎるかもしれない。厄介な性分としたほうがいい。そのほうがより適切。それともう一つ。ころころ興味が移り変わること。泡沫の種のようなものが次から次へと沸き上がってくるくせに、そのひとつひとつを発芽させることができない愚図であるということ。それから適切という解決策についても。不確定に対する今のところ思いつける唯一の解決策。自分という個人が不確定な波のような人間であるなら、最適を求めるのは酷(というか無理)であるので、より適切なものを探すという方向性でいいのではないのだろうか。
はあ。それにしても結局最後は内省的なことになってしまうなあ。太田光みたいだ。こんなことを書くと氏に迷惑か。いや、迷惑になるほどのものでもあるまいて。
自己分析ついでにもうちょっと自己嫌悪じみたことを続けようかしらん。無計画と計画と呆気無さとハードルとか、そんな諸々のことについて。あー、でもそれっぽいキーワードを並べたら、頭の中でそれっぽい答えが出てしまったからもういいかなあ。面倒だ。でもそれでいいのかしらん。それっぽい答えで満足してしまうことが自己分析なのかしらん。
結局は自分が気持のいいことしかしてないんだよねえ。ナルシズムに酔っているというか、僕ってこんなこと考える奴なんだよって喧伝したいみたいな。また同時にそうあるある自分を馬鹿馬鹿しくも思っていて、いやいや違うんです自分てばそんな奴じゃないんですよははは、みたいにフォローしてみたくもあったり、フォローしている自分を自慢したかったり。堂々巡りなんだな。目立ちたいというか、言葉が出んなー、そうだ誇示、誇示したいっていう欲求が大きいもんだから、それを恥じて。
なんていうか、 誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→卑下というか否定(の振りをした誇示→Endless……))) みたいなことが往々にして起きていやがる。面倒くさい。こんな奴関わりたくない――みたいな書き込みをしてまたエンドレス。
これは考えているのかどうか。わからん。考えていなんじゃないのか。考えるってどういう事を言うんだちくしょー。思うことと考えることと感じること、いや感じることは違うか、思うことと考えることって具体的にどう違うんだろうなあ。ロジカル。規則に則って順序立てることが考えることならば、自分は考えることができない人間だ。いつだって思ってる。いかなる時でも考えずに思ってる。なんてメルヘン。ロマンチック。もう訳がわからんくなってきた。わからんっていう言葉は便利だよね。思考放棄にはもってこいだ。あれ、思考って言葉にはどっちもついているのね。つまりは考えることと思うこと。どちらもそれほど違いはないのかもしれないわねえ。それほど重要でもないのかもしれないわねえ。重要でもないことにどうしてこんなに時間を使ってしまうのかしらん。みんなから面倒な奴だと思われちゃうじゃない。まあそんなんはどうでもいいのだけど。でも、重要かどうかって、そんなに重要視すべき問題なのかしらん。重要じゃないことを云々唸りながら思い悩んでいたっていいじゃないねえ。そんな姿勢を馬鹿にはできない。しちゃいけないと思うわけで。いやいや、馬鹿は褒め言葉とも言うか。もうね、いいんだよ。もう全部いいよ。どんなことをバッチコイだ。あっていいよ。悪いことなんてねえよ。あ、あって悪いことって意味ですね。ありとあらゆる事象物事ははあり得ていいのです。そのことがらがそのものごとがあることには何に罪も糞もないのです。あることはもう仕方が無いのですからね。しょうがないのです。我々に出来ることといえば、それを受け止めることだけなのです。その存在を否定はできない。疎ましく思うことも、邪魔臭いと思うことも、消えてしまえばいいと思うこととも大いにあるでしょう。危険視したり、抹消してしまいたくなったり、暴力的な情動を抑えきれなくなることも多いかもしれません。でも、そんな生じ得るありとあらゆる反応レスポンスをもひっくるめて、今存在している遍く全てもの物事は存在していていいのです。というか、存在している限り仕方が無いのです。仮に今その存在を消し得たとしても、その存在があった記録は残る。記憶は残り続ける。ならば、その存在は永遠に消滅し得ないのです。あるということはそういう事。あるということは時間を超越するのです。そして、私たちはありとあらゆる在るという事象の中で存在しているのです。だから、その存在を否定することは不可能。在ることは仕方のないことなのです。であるからして、自分としては在ることが混在したカオスティックな状態を享受したいと思うわけなのです。更に言えば身勝手甚だしいことに、自分が心地いいと思う状態が続いて欲しいと願うわけです。しかしながら、自分が心地いいなどと思う状態というものは恒常的にそこに在るのでしょうか。また私が心地いいと思う状態そのものは恒久的に不変であるのでしょうか。そんなわけはないと思います。わからないけれども。ね。結局何が言いたいんだという。暴走したこの書き込みはどう始末を付けたらいいんだろう。増田に落とせば迷惑がかかるかもしれないと危惧してしまう。ならば削除してしまえばいいのだが、それはそれで悲しい。確かにこのような無為な文章を書き綴った記憶は残るかもしれないけれど、その記録が残らない。ハネムーンの写真を友達に見せびらかしたい気分だ。祝女でいつかやってた。あの新婚さんは今の自分の気持ちに似ているのかもしれない。
でもどうしよう。こんなもの、チラ裏にしても性質が悪すぎる。
カップ数とか分からないが胸もいい感じで揉めそうだし
柔らかくてしゅっとした白い太腿をぐいっと開いて指突っ込んで喘がせたい
そりゃ働いてる塾の生徒に手を出そうとは思わない
いややるだけじゃなくてちゃんと付き合いたい
身も心も俺の虜になって好き好き光線出してくるような状態で
背とか小さいのに目とかきゅらきゅらしてて胸もめばやわらかいんだぜ多分
いやめんどくさいからやらないけど
いやもうそれでもいい 寝てる間にパンツの中に忍び込んで小学生喘がせるから
いやダメだそこには愛がない
仮に小学生ちゃんが俺を愛してくれてもナメクジとして愛されていて俺を見てるわけじゃない
ナメクジレベルのクズだとは知らずにせんせーおもしろーいってなついてくれてるけど
いや生徒には断じて手を出さないよ 生徒に手を出すとか妹に手を出すようなもんじゃねえか気持ち悪い
そしてその小学生が中学生になって高校生になって大学卒業した頃に子ども授かって愛のある家族を作りたいんだよ
身体が目当てじゃないとは言わない
ただ小学生が小学生であるときは新鮮な肌を探求しつくし聞いたことも無かった声に耳を澄まし
少したるんだりかさついたりした中でも昔の面影をにじませる妻と
妻に目のきゅるりんな輝きや髪の色の薄さが似ていて俺が小学生だったら惚れてたようなめんこい娘と
二人を養ってそのうち娘からは小学生になると「お父さんとお風呂に入りたくない」なんていわれたりして
その時へこむけど「ああこれも成長か」としんみり生ビールをすすったりして
そういう家庭をはぐくみたいんだよ いや娘に手を出すとかありえないから
俺がゴム付きで中に出して倒れこみかけた時に圧し掛かってはいけないと腕を立てようとすると
自分から小さい腕を伸ばして俺の身体を抱き寄せてくれるようなそんな小学生とやりたい
いや小学生じゃ身体ができてないからセックスできないとかそんなこともないから
俺の彼女(小学生ではない)だって小学生の時からオナニーしてたと聞いている
というか二人で歩いてると彼女が「あの男の子かわいいよね連れ去りたいよね」なんて言ってくるんですが
連れ去るとかねーし そこに愛が生まれねーよバカって思うけど言えない 尻に敷かれる体質なんだろうか
そういえば小学生と家庭を築いた妄想してても俺はお一人様1パック限りの納豆を買うために
休みの日だってのに2回並ばされていた いや愛する娘のためだからしょうがない
ああ小学生とやりてえなあ
ああ
俺死ねばいいのになあ
お祝い事なのにケチって
出来上がりで1万円のおせちを買って
しかも実は2万円のものが1万円で買えたのよ、まーお得だこと!とかノー天気に喜んでて
こいつらは
例年自分がいくらおせちに払っているか計算したことねえんだろうな
成城石井あたりでちょっといいかまぼことか伊達巻とか買ってみれば相場はわかるだろうに
3万円でもおせちを買う人は
社長もバカだよなあ ほんと
5000円で見栄えのいいものを適当に詰め込んで冷凍しときゃよかったのに
そうすりゃがっぽり儲かったのに
バカだよなあ
というか
商売人になりきれてねえ
おせちが儲かるなら
詰め合わせおせちの安いのがもっと出回るよ
数をこなすのが難しい
かわいそうに
哀れなヤツ
きっと散々おせちの勧誘断られてこの会社に辿り着いたんだろうな
やった!あたしおせち受けてくれるところ見つけました!とかって若手の営業とか無邪気に喜んでて
社内は盛り上がってたんだろうな
まったく商売のことがわかってないド素人の考えそうなこった
お前らは全力で反省しろ
お前らのビジネスを否定はしないが
パチンコと対して変わらん
そのことを忘れるんじゃねえぞ
つまりは、だ。
安い!お得!楽チン!って飛びついた馬鹿でデパートのおせち3万円は変えない貧乏な客と
御節を売るのがどんなに大変家ろくすっぽシュミレーションもせず
簡単!ぼろもうけ!店の宣伝に最高!って調子に乗ったアホ経営者と
グルーポン最強!おせちの安売りなんて最高!と物の価値を忘れて企画だけ考えたアホ会社と
ああ?こんなこと書いてる俺がいちばん無粋だってんだろ?
わかってらい、こんちくしょうめ!