はてなキーワード: X68Kとは
氷河期世代のおじさんです。
同世代の人たちは、やたらと苦労話をしてくるので、なんとなく合わせていますが、内心、そんな苦労してないんだけどなあ、と思っています。
高校生あたりまでの記憶が曖昧で、あまり覚えてないのですが、小学生くらいに同級生の自称霊感強い子か、近所の白龍から天啓を受けたと称する老人か、どこの田舎にも一人は存在するご当地仙人か、多分そのあたりの人に「おまえは34で死ぬ」と言われた気がします。
素朴な脳みそを持った少年期の僕は、すんなりその与太話を受け入れてしまい、そのまま成長し、ある程度人並みにものを考えられるようになった高校生以降も、ロケンローな人のように34歳死亡説を当然のように受け入れていました。
中学後半でマイコンを知った僕は、寝食を忘れるくらいに夢中になってプログラムを書いていました。ちなみに、コンピュータは持ってなかったので、紙に。
プログラムを考えることで、僕の無邪気な脳細胞達はようやく手をつないで思考することを覚えてくれたので、この頃からなんとなく記憶もしっかりしています。
この頃は、よく、あと20年弱で死んじゃうのか、やべーなと思ってました。
教師や親兄弟親戚一同からも増田ちゃんはコンピューターが上手なんだから大学か専門学校にいけばと言われたましたが、あと20年弱の余生を金銭的に不自由な学生生活で潰したくありませんでしたので、とりあえず東京に出て働くことにしました。
僕が、高校卒業時点は、バブル崩壊直前でしたので、高卒でも就職はできました。
プログラムとは無縁の仕事でしたが、寮完備だったので、数年働いてお金を貯めようと思いましたが、就職してすぐにバブル崩壊が始まりました。
働いていた会社が鉄鋼業だったこともあり、この先相当ヤバイという雰囲気が社内にプンプン漂っていました。
まだ、一年間しか働いておらず、お金もそれほど貯まってなかったのですが、焦った僕は就職雑誌を買い漁り、とにかくプログラムが組める仕事を探しました。
運良く、未経験でも募集しているゲーム会社があったので、「なんでもやります、お願いします」みたいな感じで入社しました。
気がついたら、そこで6年働いてました。
死ぬまでプログラムを組んでいたいと考えていましたが、当時はwindowsとdos/vパソコンの勢いが凄く、メーカー規格パソコンは終焉を迎える気配がプンプンしてましたが、仕事ではPC-98とかx68kでアセンブラ、自宅ではMSXとPC-98しか触ってないので、そのへんの知識は全くありません。
とりあえず秋葉原で働けばなんとかなるやろと会社を辞めて、秋葉原のパーツショップに就職しました。
当時の秋葉原は某宗教団体や国籍不明なおじさんが出所不明なパーツを路地で売っていたりと、とても魅力あふれる街でした。
あと、彼女もできました。
めちゃめちゃ楽しい職場だったので、このままでも良いかなとか思ってましたが、2年くらいで倒産してしまいました。
他のショップに移るつもりでしたが、彼女に「結婚するつもりなら、もう少し安定した仕事に就いて」と怒られたので、都内のシステム会社を面接しました。
高卒でアセンブラ経験者でアキバのショップ店員がお店が潰れた話をしたら、「お金、大丈夫?少ないけど支度金あげるから、ウチ来なよ」とえらく心配されて入社が決まりました。
その会社で6年ほど働いてたら、既に32歳になってました。
ちなみに奥さんには34歳死亡説は話してましたが、ほーん、じゃ保険かけとくか、くらいの反応でした。
日本はシステム会社といえど長く働いているとプログラムより管理者の仕事が増えるので、どうせ死ぬなら、と管理的な仕事が増えたら辞めるを繰り返してました。
転職回数は増えましたが、経験した業種や言語も増えるので、就職先には困りませんでした。
で、気がついたら34歳とっくに超えてました。
あれ、死んでねえし。
なんか損した気分だったので、もうロックに生きようと思い、当時設立したての会社を面接しました。
経歴書だけは立派で、その時は上場企業に勤めていたので、そこの社長に、え、マジでウチくるの?給料さがるよ?すぐ潰れるかもよ?と言われましたが、会社が大きくなる過程も見れるかもしれないじゃないっすか、とか適当にうそぶいて入社し、今に至ります。
すいません。オチはないです。
氷河期世代だけど、バブル崩壊後も人手不足のコンピューターを扱う業種にたまたま就いており、運よく会社を転々とでき、運良く成長前の会社に潜り込めただけかもしれないし、人によってはこれがよい人生と言えるかわからんですが、僕にとっては苦労のない人生でした。
水玉 蛍之丞「こんなもんいかがっすかぁ まるごと! 」
雑誌「ネットワーカー」「EYE-COM」に掲載されたイラストを多数新規収録します。
▼収録内容
1990年代、パソコン情報誌「アイコン」に連載したイラストエッセイ。1990年代、各会社ごとにOSが全然別だったり、ハードディスク外付けが贅沢品だったり、MSXやX68KやTOWNSやAmigaやレイトレなどなど、今から見れば「夢のような?」パソコンあるあるネタをパロディ交えて描く、当時の文化を知る上でも重要な資料。全256ページ、そのうちカラーが28ページの豪華仕様。
※本作品は、1992年にアスキーから刊行された『こんなもんいかがっすかぁ』と、1994年にアスペクトから刊行された上・下巻を底本に、新規イラストを加え、新編纂した新装版です。
「女の人と付き合うのはじめてだけどうちで一緒に暮らさない?」
私は19歳だった。男の人と付き合うのは2人目だった
彼は女性経験は一応あるようだったが中学生の時年上のお姉さんにほうきで湿疹?がでるほど殴られたりしながら飼われていたとかそういう嘘の様な本当の様な話をいくつも持っている人だった。I君としよう。
同じゲームセンターでストリートファイターⅡXの流儀を習った。私はそのおかげでゲームがうまくなった。I君は異常にゲームが上手かった。
高校を3年までだらだらと行かなかったりたまに行ったりして結局中退し本当にろくでなしのまま半年ほど働かず男の人と同棲したが反りが合わず渋谷のゲームセンターでバイトしたり人の家に転がり込んで白飯をいただいたりしていた。
その中の転がり込んだ家のひとつがI君の家だった
I君はホモの彼氏と別れたばかりでI君の部屋には元彼の置いて行ったパタリロが、やたら場所を取っていた。
そこに何泊でもしていいよ、と言われたのでお言葉に甘えて数日泊まり、帰り、数日後また泊まった。
私は男勝りというとかんたんすぎるが女子同士の群れは嫌いで声も低くこざっぱりとした性格…のように人からは見えていた、と思う。(自分もそう思っていたがその認識はあとで間違いだと知る)
その辺が気に入ったのかわからないがI君は上の様な言葉を言い放った。
I君は固太りで170cmちょい、80キロほどあり決しておしゃれではなく、見た目ぶさいくではないがイケメンの部類ではなかった。部屋は4畳半と6畳風呂無し共同トイレ。当時は無職だったが家の説明しずらい事情があり母が家賃を払ってくれていた。
「いいよ」
私はかんたんに言葉を返した
ここからDVで病院送りやら張り型つけてセックスで調子乗ってアナルから出血やらホモとケンカやら薬物中毒やらK街でケンカが強くなるとか4階から落ちて自殺しようとするとか、そんな未来はなにもわからなかった。ただ私はI君に興味がでていたしI君にしてもさみしいところにするりと私が入ってきたのだろう
CDとは関係のない話だが、コンシューマゲーム市場では、ひとつのハードウェアがその使命を終えようとするとき、こぞって美少女ゲームだったり乙女ゲームがリリースされたそうだ。それと構造が似てたりする? のかもしれないぜ。
コンシューマゲーム市場全体でそういった事態は確認されていない。
最後に美少女ゲームばかりになるのは、そのマシンのハードウェアが
「静止画の表示能力とメディアの容量がそこそこだが、派手な動きを演出する能力が時代遅れになった」
状態で終焉を迎えた場合による。具体的にはMSX2やPCエンジンやPC-88/98やサターン。
それはしかし美少女ゲームというジャンルが、マシンパワーを必要としないゲームだから、
逆に
「静止画の表示能力も時代遅れになった」「全体的に寂れた」「次世代マシンと比べて容量不足」
ようなパターン、たとえばメガドライブ・スーパーファミコン・ニンテンドウ64・X68kなどの場合は
最終的にはシューティングやパズルアクションあたりが出て終わる。
たとえばNintendoDSの終焉が美少女ゲームまみれになると思うか? 違うだろ。
それはNintendoDSの表示がしょぼいし、ROM容量に限界があるからなんだ。