はてなキーワード: 誤用とは
BPMあってないCHILLな曲を同時再生すると「うねり」みたいなのがあって良い
https://soundcloud.com/wearestereofox/boukas-a-d-m-b-the-tourist-premiere-1 の0:15
と
https://soundcloud.com/cultclassicrecords/saib-02-when-it-rains-chove の0:30
を同時再生するといい感じになる
- 異なるビートが合わさる直前ってビートが渋滞してフィルインっぽくなって好きなんだけど、今回はそれじゃないのかも
カタルシス警察ってなんか犯人を逮捕する度に気持ちよくなってそうだね。
あ、ただ、言葉の誤用の話すると嫌がる人いるじゃん。
でも俺は「カタルシス」の意味を「言いたい」だけだから、ね、一旦何も言わないで。
「言葉は生き物」とか「ニュアンスが伝わればいいじゃん」とか「言葉の意味に正しいってあります?」とか、一旦ナシでお願い。
もしそれを言いたそうにしてる人が君のすぐ横に座っていたら、今すぐ毛布を被せてしまっておいてほしい。押し入れに。
いいよね? 事を荒立てたくないんだ。
で、「カタルシス」の話よ。
「悪者が痛い目にあってスッキリする」
「伏線が一気に回収されて強い納得感を得る」
「陰鬱な物語が急展開によって開放的な雰囲気になる」
これらの意味、全ッ部無いです。
こういう意味で使われがちだけど、間違ってるとか通り越して、まずそんな意味無いの。
「ゴボウにはタマネギという意味がある」と言ってるのと同じくらい、無い使い方をしてるわけ。
じゃあどういう意味?
カタルシスとは、「悲しい気分の時に悲しい物語に触れるとスッキリする」という意味です。
いや、マジよ。
「辛い目に遭うヒロインを見て可哀想に思うことで、なんか自分の悩み事に対してはちょっと柔和になる」とか、そういう。
創作物に対して、自分と同種の感情に触れた時に憐れや恐れを感じて、一緒に自分の感情も浄化するというのが、カタルシスの意味なの。
そう、カタルシスは浄化という意味であって、報われる、納得する、抑圧から開放されるという意味は持ち合わせていないんですよ。
創作物じゃなくてもいいわ。不満や悩みや嫌な事があったら、誰かに話すとスッキリするよね。それがカタルシス。
ちなみに「排泄」という意味もあるからね。そういう、自分の中から有害なものを出すことを言うのよ。
と言いつつ、例示したような用法で「カタルシス」を使いたい気持ちはわかるんだよ。
だって、「カタルシス」って語感がそうなんだもん!
いかにも「終盤でいろんなことが解決して大団円に向かっていく」っぽい感触出してるんだもん。
悪者が殴られる時も「カタルシス~!」って鳴るし、多くの伏線がひとつの事実に収斂する時も「カタカタルシス~ン!」って鳴るし、会社が爆発した時も「カタカタカタルッシス~ンッ!」って鳴りそうじゃん!
タ行が気持ちいいのかもな。これが「ホロロンリィ」とか「ブリブリポン」とかだったら、まあ悩みを吐露してスッキリするだけな気がするんだけど。なんせ「カタルシス」がな。硬い煎餅を噛み砕いたみたいな気持ち良さがあるんだよな。
でもそれは「溜飲が下がる」とか、「肩の荷が下りる」みたいな、「問題が解決されたことによる気持ち良さ」であって、カタルシスはそもそも解決をしていない。
というわけで、俺は言いたい事を言ったから布団を被って押し入れで寝ることにする。
題名の通りだ。ネット環境という文字でのコミュニケーションが多い環境だからこそなのかもしれないが、気にしなくていいような誤用が気になってしまう。
例えば、「~しないわけにはいかない」の意味で用いる「~せざるを得ない」を「せざるおえない」「せざる負えない」「せざるえない」と表記するだとか。「または」「あるいは」等の意味で用いる「もしくは」を「もしくわ」と表記するだとか。気になる誤用を延々と……そうそう、「延々と」もそうだ。「永遠と」と表記する人をよく見かける。
話を戻して。自分でどの誤用が苦手なのか、どの誤用なら問題ないのかを考えてみたものの、共通点がてんで分からない。「せざるおえない」「もしくわ」「永遠と」「そうゆう」「~しずらい」は気になるのに、「こんにちわ」「全然大丈夫」は大丈夫だし、ら抜き言葉もそこまで気にならないのはなぜなのか。ら抜き言葉が気にならないのに縦書きの文章を左から右に読ませるものが気になってしまうのはどういった理屈なんだろう。
別にこれで自分だけが気にして少し嫌だな~ともやもやするだけなら別にいい。いや、正直なところを言えば嫌ではあるのだが、自分だけで完結するし自衛もできるだろう。気になる誤用が出てきたなろう小説はそれ以上読まなきゃいいし、気になる誤用を扱う切り抜きチャンネルは見なければいい。
だが、自分は大層厄介なことに、どうしても気になって声を上げてしまいたがる性質だ。このように。今こうしてここに書いてしまっているように。普段SNSやらで友人達と交流する時だって誤用が気になって仕方がない。もちろんそんな誰彼構わず指摘しているわけでもないし、親しくなった友人にだってなるべく言わないようにしている。言ってしまったこともあるが、苦手なものを聞かれた時に「そうゆうとかもしくわとか、そういう感じの誤用が苦手かも。使うなとは言えないけど」程度の回答に留めていたように思う。とはいえ、使うなとは言えないと言ったにもかかわらず、友人の誤用が気になり段々嫌になって自分から距離を置いてしまったこともあるから、これも最善ではないのだろう。
そんな中、先日、ついに別の友人に「その表記は誤用だよ」と指摘してしまった。「『延々と』と『永遠と』は全く意味が違うよ」と、ついに声を上げてしまった。友人は心優しく、自分のこんな狭量な発言に対して謝罪をしてくれた。気分は全く晴れない。口語表現となんとなくのノリで生きてきてしまった、言葉を扱うのが昔からずっと下手だった、と友人は続けて零していた。気分は全く晴れず、それどころか落ち込んだ。
言い方が悪かった。このことに関しては間違いはないだろう。けれど、どう言ったらよかったのだろうと考えてしまう。そもそもとして友人たちは好きなように言葉を使っただけであって、その言葉を見て自分が一方的に気になってしまっただけなのに、自分が何かを言う必要なんてないだろうに。言わないほうがよかったのかもとも思っているが、言わないなら言わないでまた自分から距離を置いておしまいだろう。見ただけで集中力が切れ、見続けるだけで段々気落ちしていくのだから、言わないままというのもきっと自分の精神衛生上よくない。
誤用が気になってしまう。誤用が気になってしまう自分に嫌悪感を抱いてしまう。言語は移り変わっていくものだと分かっているつもりでも、移り変わっていく過程で生じた誤用であり数百年後には正しい表記になっている可能性もあると理解しているつもりでも、それでも気になって気分が悪くなったり気分を悪くさせたりしてしまう自分に嫌悪感を抱いている。