はてなキーワード: 山岸俊男とは
最近多くの企業で、人事制度を「ジョブ型」へ移行する動きが目立つ。なぜならリモートワークとの相性がよいからだ。欧米企業のようにジョブ型であれば、仕事を切り分けてリモートで仕事を進めやすいが、メンバーシップ型の場合はそうはいかない。
リモートワークは欧米を中心に広がってきた働き方だが、欧米企業においては働き方もジョブ型で、仕事を個人に切り分け、成果も無理なく評価できる。一方のメンバーシップ型は、出社して同じ「職場というハコ」の中で一緒に働くことを前提とし、メンバーの役割を柔軟に調整するため、個人の成果の評価には困難が伴う。
日本はメンバーシップ型の働き方が一般的な中、突然リモートワークに移行したため、極端なミスマッチを起こしてしまった。リモートワークを実施するならば、個々に仕事を切り分けるジョブ型への移行が不可欠なのだ。
ジョブ型へ移行するには、仕事の成果を適正に評価できなければならない。そのためには、仕事の進め方もより個人の責任を明確にする方向へ改めなければならない。さらに仕組みを整備するだけでなく、評価する側のスキルも必要になってくる。さらには、メンバー全体が新しい働き方を受け入れるよう、価値観のシフトも必要となるのだ。
日本においてはメンバーシップ型組織の歴史は長い。「中世以降、ムラ社会が成立し、環境に最適化するために相互監視的な集団主義が浸透していったから生まれた考えだ」と社会心理学者の山岸俊男氏は指摘する。
そのムラ社会は昭和から平成にかけて、会社という組織の中でも脈々と受け継がれてきた。その結果、日本では社会でも会社でも同調圧力が強くなった。会社は働く場であるとともに、コミュニティーでもあった。しかし昨今、転職や副業に加え、リモートワークの普及が進み、ムラ社会を解体する動きが出てきたのだ。
働き方の制度を変えても、多くのメンバーの価値観は一朝一夕には変わらない。日本企業では、「あなたがいてよかった」と存在を肯定されたい人のほうが、「あなたの能力はすばらしい」と能力を肯定されたい人よりまだまだ多い。
こうした事情から、財界を中心に「同一労働同一賃金」の実現という文脈で進められてきたジョブ型雇用への移行が、なかなか思うように進捗してこなかった。それがくしくも、コロナ禍という強力な外圧により、待ったなしの状態になっているのである。
多くの企業で、個々の社員の役割や仕事成果の品質の基準は明確に定められておらず、社員に委ねられている。委ねられてはいるが、会社は社員を十分に信用してはいない。だから監視する。「オフィスへ出勤し、上司の目が届く範囲で仕事をするのならば安心だが、目の届かない所にいると心配」という感覚なのだ。できるだけオフィスで観察するのと変わらぬ管理をしなければならないと考え、「社員PC管理システム」などを導入してまで細かく監視する事態につながっている。
しかし、オフィスに出社していても、本当にきちんと管理できているのだろうか。実際には職場でも「やらされ感」を抱きつつ、意欲もなく、非効率的に仕事をしている社員もいるに違いないが、そのような状態でも、決められた時間、その場でデスクに向かってさえいれば、これまではよかったのだ。社員を信用しているのか、信用していないのか、不明な状態である。
つまり「成果よりも時間。とにかく長い時間、仕事をすれば高く評価する」という、生産現場における管理形態から抜け出せていない古い価値観である。かつて目立った、効率的に仕事をして上司より早く帰る部下よりも、非効率でも遅くまで残業している部下を高く評価してしまうような価値観だ。昨今では、そこまであからさまではないとしても、残業や休日出勤をする人を仕事熱心であると見る価値観が残っている企業はまだ多い。
これは「ジョブ型」「メンバーシップ型」という枠組みで考えれば、完全にメンバーシップ型の価値観である。会社側が「社員はサボるかもしれない」と考え、実際に社員も「サボる余地がある」と感じている。監視する側、される側という関係性にある。これではリモートワークがとても機能しそうにない。こうした価値観のままではジョブ型への移行がうまくいかないのは当然だ。
・仕事の進め方は本人に委ねられている。
キーワードは「自律」だが、実現には前提がある。いわゆる「ジョブ型」への移行だ。多くの企業で理念や行動指針の中で「自律」を強く標榜しているにも関わらず、いっこうに進まないのも、働き方の「ジョブ型」への移行が進んでいない点に原因がある。仕事の仕方や評価のあり方が、社員の「自律」と矛盾した状態にあるためだ。
社員が自律的に働かなければジョブ型は機能せず、ジョブ型に移行しなければ社員は自律的に働かない。つまり、「卵が先か鶏が先か」ということになるが、価値観を変えるためには、新たな価値観に合った仕組みが必要で、その仕組みを機能させるには、新たな仕組みに合った価値観への移行が必要となる。いずれが欠けても頓挫してしまう。「ジョブ型」の人事制度など仕組みの整備と、雇用する側とされる側の新たな価値観へのシフトが、同時並行で進められなければならないのである。
「100選」って書いたけど、多分50冊もないわ。トラバやブコメで埋めてくれ。順番とかは重要度とかではなくて、単に思いついた順。
スティーブン・ピンカー 『暴力の人類史』
ロビン・ハンソン、ケヴィン・シムラー 『人が自分をだます理由』
A.R.ホックシールド 『壁の向こうの住人たち』
セス・スティーブンズ=ダヴィドウィッツ 『誰もが嘘をついている』
デイヴィッド・ハルバースタム 『ベスト&ブライテスト』
ウィリアム・マッカスキル 『<効果的な利他主義>宣言!』
井上達夫 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』
倉本圭造 『「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?』
東京大学社会科学研究所付属社会調査データアーカイブ研究センター 『人生の歩みを追跡する』
John R Hibbing 『Predisposed』
Charles Murray 『Human Diversity』
Thomas Frank 『People Without Power』
Douglas Murray 『The Madness of Crowds』
Jonathan Haidt 『The Codding of the American Mind』
Geoffrey Miler 『Virture Signaling』
Thomas Piketty 『Capital and Ideology』
→こちらに修正して転載すた。http://d.hatena.ne.jp/maskin-monotonicity/20081222/
1.池田さんがいいこと言っているかどうか、というのは分野による。
2.経済学系の記述はおそらくかなりまだ信頼性の高い記述がもおおい。というか、この分野はわたしがよく知らない。
4.哲学・倫理系の記述は、だめだめでもないけどそれほどよくもない。まあ、こんなもんか。
5.上司とするには、やめてほしい。この点については、池田氏とこれまで仕事で関わってきた諸氏からの情報で総合的に判断。私怨で人を困らせすぎる。暴れん坊。思い込みが激しい。
6.仕事人として付き合いたいかどうかはともかく、優秀な人ではあるだろう。
7.学者は間違ったことを言う、のは当然。間違ったことを言わない学者などいない。学問はそもそも常に仮説でしかない。学問とは、より妥当な議論を可能にする知識の継承、発展のフレームワークなのであって、間違ったことをいわないことが学問なのではない。
8.a.自分のよく知らないことについては発言せず妥当性が高いと思われることについてしか発言しない口数が少ないが誠実な学者と、b.自分のよく知らないことであっても果敢に思考し、学問間のネットワーキングを図り、啓蒙することに価値を見いだす学者 という二種類の学者がいるのだとすれば、池田さんは後者(b)の部類に属する。(a)の部類の学者が嫌いな人もいれば、(b)の部類の学者が嫌いな人もいる。(b)の途を選び取った学者は、しばしば間違いを言う。しかし、そのことの是非は、「学者」の発言が社会的にどのように扱われるのかという文脈形成も込みで考えられなければならない。「学者A」の発言が即座に、社会的影響力を与え、間違いが甚大な被害を与える可能性をある場合には、(a)のような発言が推奨されるかもしれない。全国放送のTVカメラの前で、軽々しいことを言う学者は非難されてしかるべきである。しかし、「学者B」の発言が、リテラシーのある程度高い相手に向けて、「学者が常に正しいことをいうわけではない」ことを前提にしているようなコミュニケーションが成り立つ場合には、(b)のような態度が推奨されるかもしれない。池田氏のブログの影響力はかつて、リテラシーがある程度まで高い層に限定して書かれていた。しかし、有名になるにつれて、その影響力は変化しつつある。よって、(b)のような態度を諸手を挙げて推奨するわけにもいかない。しかし、(b)の立ち位置を担う学者のポジションをまったく評価しない、というのはありえない。
上記「8」は次のように言い換えることも可能である。
上記の記述は多少よく書きすぎている、との意見はもちろん一定以上、妥当である。
間違いをしばしば発言するインテリは、そのような態度をとる自分をしばしば「今コレが間違いであるという以上に、発言していくこと自体の意味が裏に何かある」という別の合理性を担保している場合が多い。たとえば、コンスタティヴな価値に対する、パフォーマティヴな態度を称揚するといった合理性は代表的なもの。池田さんの基準がいかなるものであるかについては、わたしはあまり池田ウォチャーでもないので正確にはわからないし、評価できない。が、しかし、個別の発言の妥当性以外のなんらかの合理性を彼自身の中では担保しながらしゃべっていることはほぼ確かだと思う。
ただし、そういった別の合理性が持ち出されるすぎると、個別の発言における「今言っていることのことが正しいかどうか」ということに対するチェックが甘くなる、という現象はしばしば起きる。学者の発言について、個別の発言の妥当性の高さだけが、学者を評価する基準だという思い込みは、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。だが、学者の発言が、非学者層の発言と同程度に妥当性の低い発言を連発してもよいという基準もまた、知のシステムの多様性・効率性を著しく阻害する。
両者のバランスをどこでとるか、ということは難しい。
池田さんが何をしたいのかは知らない。なので、池田さんの考える、個々の発言とは別の水準の合理性が何なのかがわからない限り、池田さんを評価しようとおもったとき、「とりあえず」個別の発言の妥当性という基準を適用することには一定の合理性がある。だが、その合理性が合理性の一部でしかないことを考えるべきである。それは「とりあえず」の一部の評価の合理性でしかない。
*この「追記」の記述は、東浩紀と、東批判者たちについても同様に適用可能。ただ、東さんは明確に自らの価値をアジェンダ・セッティングという行為の中に見つけているとは思われるので、池田さんと比べると、「担保すべきだと考えている別の合理性」の水準が理解しやすい人だという印象はある。
fromはてぶ
「なんで支持者も不支持者も、人格や人間性で主張の妥当性を判断しようとするのか。「人」を信頼してはいけない。面倒でも個々の主張についていちいち信用すべきか否かを検討すべき」
もちろん、それも一つの合理的な態度だとは思う。しかし、「人」や「組織」をある程度まで、使い勝手のいい単位だとしておかないと成り立たないところもやっぱりある。
たとえば、わたしがよく知ってるor考えていることであれば、そのことについて「××さんが言った」「○○さんが言った」ではなく、主張の内容レベルでの判断はもちろん可能だし、できる。そういうときには「人」という単位はほとんど機能しない。単に主張Aを言っている人がいて、主張Bを言った人がいた、という程度の意味合いしかない。
しかし、わたしが全く知らないことをはじめて知ろうと思ったら、まずは「人」「組織」「定評のある本」に対してある程度まで高い信頼を置いて、そこから情報を得るというのはとても効率的で、合理的な行動になってしまう。それは、わたしにとっては検討しようのないことなので、「人」や「組織」や「定評のある本」を採用するしかない。不案内な分野の入門書を読むときに、「ハーバード大学の教授で、全般に頭良さそうな人が書いている最新の本」と、「三流大学教授の、いまひとつ何を言っているかわからない10年前の本」で対立している主張があり、わたし自身に、その対立を検討するための十分な情報がないのであれば、「へぇ、対立する議論もあるんだなぁ」というぐらいに思いはする。でも、とりあえずはハーバード大学教授の言っていることのほうが「たぶん、こっちのほうが妥当なんだろうな。よくわかんないけど」という形で、ある程度、組織とか評判を信じてしまうよね。
我々は、出会った知識の全てを検討するだけの無限な時間などは与えられていないので、誰がよりよいことをいってそうか、どの本が最も定評のある本か、ということは、「より、まっとうそうな知」を得ていくための効率性にかかわることになる。はじめて仕入れるたぐいの知識が、いままでの自分の経験上/知識の上で整合性があるかどうか、ぐらいのことは考えられるけれども、分野が遠くなれば遠くなるほど、「とりあえず、たぶん、この人の言うことはかなりの度合いでレベルが高いはず」という情報はとても役に立つ。教える-学ぶ関係においては、そういう「権威」がもっている効率性の問題は避けて通れない。
理想的には、おおざっぱなクオリティ選別の効率性を機能させるために存在している権威や評判のようなシステムよりも、一つ一つの主張の妥当性を検討できるような態度に至れることのほうが望ましいのは言うまでもない。だけれども、わたしたちは、能力にも知識にも限界があって、そういうことができない。だから、権威や評判のシステムをわたしは利用するし、今後も利用し続ける。
http://anond.hatelabo.jp/20081223163942
クルーグマンの経済学受賞に関する記事なんだけど、ここからトラバ先をたどると経済学系blogでの池田氏への批判の主なものは見られるんじゃないかなあ。
だそうです。
まあ、山岸俊男風?にいえば「信頼」性はともかく、誰かが池田の発言に対しては必ずレビューをしているという意味での「安心」の対象としては機能しやすいとか言ういいいかたはできるかもなぁ。それがインターネットというもののよさというか。手間かかるけどね。
池田ファン扱いされた…なんという微妙な気分。これが池田効果か。
わたしはそれほど熱心な池田読者ではない、…と自分ではおもっています。
実際、エントリ100個も読んでないんじゃないかな。
上記の記事に対してid:lets_skeptic氏から、よいコメントをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20081224
そもそも問題は「間違ったことを言う」ことなのだろうか?「畑違いの分野に言及する」ことなのだろうか?違うと思うのだ。
自分が断言したことでも間違っていれば撤回する(必要に応じて訂正する)という誠実さ。自分が言及すること(したこと)をきちんと知ろうとしているか?という知的誠実さ。求められているのは、そんな当たり前の誠実さじゃないんだろうか。
主張の信頼性は基本的に別問題です。といっても、誠実な人ならば「ろくに調べずにものを言っている」「無根拠の思いつきを言っている」「嘘をついている」という可能性は、不誠実な人に比べて相対的に低くなるので、関係がゼロだとは思いません。
議論の建て方として「誠実さ」という別の軸を立てられる、というのはいい指摘だと思う。インター・ディシプリナリだからと言って許されるわけでない。ただ、わがままを言えば「追記1」に書いた部分についても一応目を通していただければ幸い。追記1、はこういう批判に対する防御線として書いたわけだけれども、かえって問題の建て方を曖昧にしてしまったようで反省。「インターディシプリナリ志向であれば、誠実でなくとも許される」として、確かに読めてしまう。
で、発言の「誠実さ」と、個別の発言の「信頼性」が別問題であり、問題を分けて考えるべきだ、というのも、その通りだとおもう。(その点については、上にちょこっと書いた、山岸俊男氏の「安心」と「信頼」の区分にも通じる問題系である)
そして、その基準でもって池田さんを論じることは、意味があるだろうと思う。
ただ、もちろん、だからといって、先に挙げたわたしの、区分そのものが<一般的な区分として>まったく無意味なものだ、ということを認めるわけではない。また、<池田さんに対して>わたしが挙げた基準で判断をすることが適当か、という点については、いくつかの基準のうちの一つとしては、やはり適当だと思う。論じる基準が、一つである必要はない。論じるべきは、どの基準が最も正しいか、ではなく、、基準A「誠実さ」の問題と、基準B「学者としてのアプローチの違い」の問題と、どちらが池田さんを論じる上でより重要な問題とすべきか、ということになる。その点は、どっちなんだろうなぁ。前者かもしれない。
*
それと、lets_skeptic氏は知っている話だとは思うが、さらにやっかいな話をもう一点してフォローしておくと、パフォーマティヴな発言の「誠実さ」というのはとても評価がめんどくさい。
議論のための議論のように聞こえてしまったら恐縮だが、
たとえば、
1.「XXがよりよいことなので、みんなで××にコミットすべきだ」と発言があり、
2.XXがぜんぜんダメでぽしゃった
3.しかし、原因はXXがそもそもへぼかったからではなく、みんながXXにコミットしなかったことが原因である可能性がある。(つまり、みんなが××をしていれば、××はほんとうによりよいことだった)
というようなことがあったとする。
このとき、「XXがよりよい」と発言していた人は、「間違ったことを言った」とどこまで言えるだろうか。
もちろん、「現時点の観測からすると、結果的には間違っていた」といえる。その限りで詫びてもよい。
しかし、「現時点の観測からすると、間違っているように見えるかもしれないが、やっぱり私の言っていたことは正しい。みんながコミットしなかったことにこそ原因がある。だから、わたしは、一時的に、結果的に間違っているかもしれないが、××はただしい、と言い続けるし、そのことについては謝らない」という人がいたとして、その人の「誠実さ」とはどのように評価可能だろうか。
わたしの知っている人のうち、この手のパフォーマティヴな価値に言及しようというようなタイプの人、(ネガティヴな言い方をすれば、自己成就予言的な性質のある話をしている人)というのは、議論するとやっかい、つーか、めんどくさい、つーか、並大抵のことでは謝らない。この手の人々に対して、「誠実さ」とか言い出すと、話がズレることが多い。
データみせても、「いや、現時点でのそういう結果を出されても、それはぼくの言っていることの根本的な反論にはまったくなってなくて…」といわれて議論にならないことが多い。かなり理論的なところで闘う以外に手がない場合が多い。人によっては、理論的なところですら闘えないような話をする人も多い……。これが、「ムー大陸が~」とかって言うタイプの人だったら、「DQN乙」で終わってよい場合も多いけれど、、ガチインテリの人でもこういう話はけっこうやる。こうなると、どこまでが謝ったりする範囲で、どこまでが謝らなくていい範囲なのかが、遠目にみると混迷を極めているように見え、エンドレスに不毛な会話がなされる場合がけっこうある。
というわけで、結局何が言いたいのか、というと、
・「誠実さ」概念をめぐる指摘には同意するし、すばらしい指摘だとは思います。
・だけれども、「誠実さ」という変数だけで全部解決しようとしても、そこでもまた、ディスコミュニケーションは起こりうるのでは?
まあ、自己成就予言的な話をするとき、それは社会科学者ではなく、批評家とか政治家とか呼ばれるたぐいのものになってしまう、という解釈もありうるんだろうけれど。政治的/批評的行為によって、理論の実証を目指してるんだ、という言い方もできるので、そういうことを言い始めると、社会科学における「科学的」と認められる発言の境界線はどこに引けるのか、ということになってくるので、わたしの手には扱いあぐねる。たぶん、科学哲学的にアツいところなのだろうけれど。そこらへんの話については、わたしはぜんぜん科学哲学についてフォローしているとは言えない人間なのでlets_skepticさんのような人から教えを請いたいぐらいの話です。
***
しかし、やっぱり、増田なんかで書くとどうしても脇の甘い書き方をガンガンとしてしまうなぁ。まあ、脇が甘くても、「たかが所詮は増田の記述」だと思われ、その程度によまれればいい、ということを期待してしまっている自分がいるから、そういう書き方になるのだろうけれども。
それと、トラックバック先のskeptic氏へのはてブコメント
「豹変できないからこそ君子と呼ばれないのだ。誤字や言い間違いレベルの些細なことですら、ちょっと謝って訂正して感謝する程度のことが出来ない人が多い/ただ、誠実な人に限って「当たり前」以上の誠実さで潰れる」
もまた、的を得た指摘だと思われる。
結局、誠実…というか、ノイズを気にせずになんでもかんでも答えずにはおけないような人は、たとて、どんなに頭がよく、<知にたいして>誠実な人であったとしても、ウェブ上で活動するのはかなり負担がかかる。すくなくとも、学際的なひろがりのある人とかだと、ウェブ上で何かやろうとすると、潰れやすい。それをまた、「議論に負けだ」のなんだのとはやしたてる連中も発生すると、ごっそりとやる気をなくす。その結果、ウェブ上で「ちょうどいいぐらいの」コミュニケーションのできるインテリというのは、一定度以上にノイズを気にしないでいられるタイプか、ノイズがそもそも生まれないような振る舞いでいられるタイプのインテリかということになる。実際には、ノイズが生まれないような振る舞いというのはそんなに簡単なことではない。はてブのコメントのうちの5%ぐらいには文脈ぶっとばして、一読して偉そうなことを言う人、というのがいる。はてブ以外に、ブログであってもいるけれども。
もちろん、「ノイズ」に類するようなどうでもいい話に対応する「誠実さ」と、重要な指摘に対して対応するような「誠実さ」は別種のものだ、というように理屈上の区分は付けるはできる。しかし、実質的に、外からの指摘に応答する当人にとって、指摘がノイズなのか重要な指摘なのかを判断する根拠は、曖昧であり、当人が、常に、「誠実に」悩み続けることによってしか、それらは区分できない。結果、在る一定以上まで有名になると、「誠実」な人であればあるほど、外部への応答コストの負担によって潰れることになる。
ちなみにわたしは、わたしが実名で発言しているところに100ブックマーク以上ぐらい付けられると、うれしい反面、だいぶむかむかしてくる。「はてブ/2chの連中は全く…!」とは思わないけれども、はてブや2chのようなアーキテクチャが出てくると「ウェブ上でどの程度、冒険した発言がOKか」「ウェブ上では、どの程度外からの指摘を気にしないメンタリティがいいのか」といったことに対する「望ましいありよう」の最適さが変わる。これはつまり、政治家が演説でくだらない発言しかしなくなる、ということに似ている。政治家がバカなのではなく、現行の世論システム/投票システムとの相性を考えたときに「望ましい程度の発言」というもののバランスがどこに落ち着くのか、ということだ。ウェブ上が、学者コミュニティとして機能するクローズドな空間(※学者の作法を全員が受け入れることによって成り立っている空間、という意味で。作法を受け入れる限りにおいてはもちろんオープンである)ではなく、現状のようなオープンな一つのプラットフォームになっている限りは、学者的な作法が、ウェブ上において必ずしも「ほどよい」ものとして機能するとは限らない。市場のシステムが、市場に課せられたルールやアーキテクチャいかんによって均衡点のありようを変えるように、議論のシステムもまた、議論に課せられたルールやアーキテクチャいかんによって、その均衡点のありようを変える。学問というのは、その均衡点のありようを「知の継承、発展」にとっても最も効率的になるように目指し、調整がなされている議論のルール・システム体系のことだと思っている。ウェブが一つのプラットフォームとしてではなく、複数のプラットフォームを切り分けるような(たとえばSNS)システムとしての発展可能性をみせれば、学問の作法がより効率的になるプラットフォームとしても機能しうるだろうと思う。ただ、今のウェブという空間が生み出す、議論の均衡点は、おそらく、かなり傍若無人な人のほうがやりやすいぐらいになってしまっている。理想的には、もっと「誠実」であってほしいとは思う。しかし、「誠実」であることによって、評判を生み出し、注目を浴びやすいようなアーキテクチャにはなっていない。そのことが、池田さんをめぐる最も、面倒な問題なのかもしれない、と思う。