はてなキーワード: ピアノ線とは
悪役が反則技をつかうくらいまではいいけど、武器とか毒とか使い出すとダメだわ。
バキの死刑囚編なんか、ピアノ線とか爆薬とか毒手とか使ってたけど、シンプルにピストルでいいんじゃねって感じだし。
バキの世界はオーガは素手で銃器より強いってことになってるけど、他のキャラは武器の攻撃はくらってるわけでしょ。
ピストルの早打ちの名手の攻撃だけ当たらないって理屈はないから、頭部や胸を撃たれて終了だろうって思うわ。
花山が撃たれてたけど、なんでわざわざ足を狙うんだ。
目的が賞金が欲しいとか有名になりたいなら、今の権謀術数をつかって勝ち進むっていうのはわかる。
単純に「強くなりたい」だったら今のような勝ち方して意味があるのか。
「スポーツ格闘技でなくて喧嘩のなんでもアリで強くなりたい」だったら、回りくどいことしないで後ろから刺せばいいだろって感じだし。
当たり前の事ではあるが、現実はドラマのようには美しく出来てはいないし、努力が必ずしも良い結果に結びつくかどうかは
わからないのも当たり前であり、才能溢れる者の周りにはいくつもの才能はあるが上手く開花できずあぶれた者やそもそも才能すら
持ち合わせていなかったもの、途中で挫折した者達の屍が横たわっているのが現実というものであり、何の才能もない者が突然
誰かに可能性を見出されて、半端な努力で功を成すなどというのは稀有な物語にすぎない。
大抵の人間は何の才能もなく、平々凡々である。あるいは低能のどちらかである。だから大抵の人間はドラマのように「夢を追う」
ような生き方をしても、報われず、そればかりか平々凡々に生きる者や人並みの幸せに並々ならぬ嫉妬心を抱いてしまうばかりで、
不幸になるばかりである。
かといって現実は悲劇の物語よりも残酷であるか、悲劇的であるかといえば、そうではない。
もしそうだと客観的にみえるのであれば、それは大抵は本人の気質の問題(思考の癖や家庭環境、経済状況その他)からくる
様々な問題が絡まって本人をピアノ線で体を軋ませるようにがんじがらめにさせているだけであって、あるいは社会環境が
本人に悲劇の物語をもたらしているだけである。だから悲劇の物語のような「人生」は現実には存在しない。
もし存在していたとしても、それは本人の気質的問題や社会的問題が未解決となって本人を苦しませて、そして悲劇の物語…
ひいては悲劇の人生を本人に歩まざるをえないようにしているだけであって、大抵の人間は平々凡々であるから、悲劇の物語の
主人公になる事すらできない。
では、もし自分が悲劇の物語を歩んでいるとすれば(そう感じているとすれば)、それをどう打開し、より良い人生を歩むように
舵を修正していくかについてであるが、それは悲劇の人生の因子となる事柄を一つ一つ解決してけば良いのである。
本人の気質的問題であれば、心理学的アプローチに頼ってみるもよし、家族や自分ともう一度向き合ってみるもよし、それこそ
モラトリアムや空き時間をどうにか捻出して、自己の内面的性質を今一度認識しているのも有効な手立てと言えるだろう。
社会環境が悲劇の人生の因子であれば、その問題やその類の問題に対して先人がどのようなアプローチでそれらを解決したり、
どう現実を折り合いをつけていったかを学ぶべきであろう。あるいはデモ等を参加、企画する等して社会に対して直接訴えかけて
みるのも問題解決の糸口になるであろう。
そうやって直面している現実的問題と向き合い(何も一度や短期間でそれらに全て向き合う必要はないが)、一つ一つ解決への
アプローチを探っていけば必ず悲劇の物語の人生からは脱却できるであろうし、きっと幸せを手にすることができる。
幸せと一口に言っても種類は様々ではあるが。であるが、本人が幸せと感じればそれは紛れもない幸せである。
自分の幸せと思う感情を、他人の推量によって「それは不幸せだ」と言葉を殴りつけてもいい理由等一つもない。
我々は幸せに生きるべきである。幸福を、いや、楽しさをもっと追究すべきである。そうすればこの国はもっと精神的に豊かに
なるだろうし、その大人の背中を見た子供は、その背中から教科書には載っていない「本当に自分を幸せにする生き方」を
学ぶ事ができるだろう。そうなればこの国の未来は明るい。
いや、明るくないかもしれない。だけれどもその背中を見た子供達は、きっと幸せな未来、社会を築きあげることができるだろう。
だから書を捨て、町へ出よ。町へ出て、現実と人生の楽しさにもっと向き合うべきだ。そして家に帰れば、本を読むのもよし、
インターネットを介し顔も知らない者と交流するもよし、拙いながらも自分の作った料理に舌鼓を打ったり、母や恋人の作る
料理に愛情を感じるもよし。そうして夜になれば、やりきれない者はぽつりぽつりときらめく星空に自分を重ね、涙し、明朝の
空の美しさに明日への希望を見出す、そんな人間的で感情的な生活を、我々人間はもう一度取り戻すべきである。
いや、取り戻すべきなのだ。
東京新聞:米兵の子4人逮捕 バイク転倒事件 「ロープ張った」殺人未遂の疑い:社会(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009120502000220.html
asahi.com(朝日新聞社):米兵の子4人を殺人未遂容疑で逮捕 バイク女性転倒事件 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/1205/TKY200912050197.html
痛ましいニュースである。バイクの女性が重傷という結果を引き起こしたにもかかわらず、容疑者4人の身元引き渡しがスムーズに行われなかった点も納得がいかない。このニュースを見て、15年前にアメリカで数日だけホームステイしたときのことを思い出した。
その時僕は中3で、お世話になった家には高校生と中学生の兄弟がいた。ある晩、僕はその兄弟のお兄さんのほうに「おもしろいものを見せてやる」とさそわれた。家から10分ほどはなれた住宅地の雑木林を抜ける細い道にピアノ線のような細いワイヤーを張って、走っている車を止めるのだという。僕とその家の弟は林の中に身を隠し、お兄さんが細いワイヤを道の両側の木に巻き付けてピンと張る。それはとても細いワイヤで、僕にはそんなもので車が止まるのか半信半疑であった。
罠を仕掛けた後、3人でなんの明かりもない林で息を殺して10分ほどまっていると、車が走ってきた。大きい4WDだったと思う。
ワイヤーがあまりに細いので僕らの場所からはワイヤーの位置がわからない。時速30kmくらいで滑るように走っていた車は、次の瞬間に「ブン」という地味な音とともに、軽く上下に振動して、止まった。ワイヤーが見えないのであたかも車が空気の壁にぶつかったようだった。
僕らは車がとまった瞬間に、「よっしゃ!」とかいいながら、林の反対方向に走って逃げた。ドライバーは車から降りて、初めてワイヤーのいたずらに気づくのだろう。家に走ってもどると、その家の両親は苦い顔をしたはものの、特に咎めることもなかった。彼らもこれは子供のいたずらとして考えていたのだと思う。
15年前のアメリカのコネチカットにある田舎の町でのことである。
この経験をもって、ロープを張ることがアメリカではよく行われる悪戯と言うつもりはない。ただ仮にロープを張ってもアメリカのようなバイクの少ない場所では、人の命を左右するような結果は想像できないと思う。
今後、容疑者達が日本の法律で裁かれるとして、彼らの弁護士は「これは米国ではよくある、たわいもない悪戯で、容疑者達に殺意はなかった。」と言い出すのではないだろうか?もちろん彼らは厳しく罰せられるべきではあるが、殺人未遂つまり殺害の意図があったという説明は難しいと思う。
そして15年前に自分がいたその場所で、今回のような悲劇が起こらなくて本当によかったと思う。
棒じゃなくてピアノ線を使って焼けばできる。きっと。
あー、もうぱっとしないしすべてがいやだしなんかほんとセンソウでもおこればいいのにというかほんとまじきつい。
だいがくをまともにそつぎょうさえすればなんかばっとするんじゃないかなとゆめみがちでいて、でもげんじつはだいがくをそつぎょうしたってぱっとするどころか、むしろよりどんよりなかんじになることは、さすがに3ねんにもなるとわかって、でもじゃあなにかどりょくをするかといえば……
いつだってそうだったなぁ。じぶんののうりょくいじょうのちいをもとめたくなるんだけど、でもよりのうりょくを高めるどりょくはできなくて、それでじぶんのののうりょくそうおうのところにいっては、つまらないなぁとぐちをたれる。だったらせめてちょうせんすればいいのに、臆病だからそれもできない
要するに「本当の自分」教というかな。何も考えずにただ今ある自分、そしてその自分がなっていく自分を自分であると認めれば、悩むことなんてないのに、「本当の自分はこんなんじゃない」と思いたがる。でもそのくせじゃあ自分を変えるって話になると、「変えたら本当の自分じゃなくなる」と思う
女の子に後ろからいきなり包丁で刺されたい、正面からいきなり刀でばっさりと切り捨てられたい、ピアノ線で首を括られたい、車に縄で括りつけられて引きづられたい、五寸釘で打ち付けられたい、空気を注射されたい、鉄パイプでぼっこぼこにされたい、髪の毛つかまれて水中に顔を突っ込まれたい
ほんと1日1回ヤンデレCDを聞かないともうそのまま今すぐ身の周りの大事な予定とかすべて捨ててどっかに放浪したくなる。
あーちきしょう、これでもう少し学がなければ前世のこととか守護霊さまの声とか聞こえるのに!
守護霊とか妄想でもいいから現れてよ!そして呟いてよ、私がずっとそばについているから、あなたはそのままでいい、何もしなくていい、それだけで十分なんだって!
24時間常に誰か一緒にいることなんてできやしない。恋人だ友達だなんだ言ったって、結局それはかりそめのものでしかない、「本当の友達」なんて馬鹿なことを考えてたら、友達なんて一生出来ない、そんなの分かってる、分かってるはずなのにー!
嫌ってくれるならまだ良い、一番怖いのが無関心。僕という存在は今ここに居る、ここに居るのに、もしかしたら僕のことを今誰も思っていてくれてないのかもしれない、僕は誰の心の中にも居ないのかもしれない
誰かに気にかけられたら、それだけで良い、それでいい、けど、誰にも気にかけられないとしたら、いくら金があったって、いくら長生きできたって、そんな人生に意味は・・・
好きな人の不幸を願うのはヤンデレの始まり
killing me softly(直訳的な意味で)
不安が次々と襲ってくる。もうだめぽ
自分も助けられない状態で人を愛したいとか人を助けたいとか寝言ぬかしてんじゃねぇよ糞が!
結局ね、あんた(=僕)は、あの子を愛しているわけじゃないんだよ、ただあの子に慰めてほしいだけなんだよ、「あなたはダメ人間だけど、私はあなたが好き」って承認してもらいたいんだ。ふざけんな、そんなの愛じゃない。
相手を助けたいって、それ以外の何も求めないのが愛なんだ。対価なんか求めるのは愛とは呼ばない。それは単なる風俗だ。キャバクラにでも行ってきやがれ!
はてな界隈でアイドルを気取っている連中を見ていて思うのは、「おまえらはもうアキハバラのこと忘れたんだなぁ」って
同じインターネット上で僕が居て、加藤君が居たってだけでこんなに気に病む僕がおかしいのかもしれないけど。でも、もしそういう風に「インターネットを共有していることなんかに何の意味もない」、と思ったら、インターネットは孤独の象徴でしかない
でも、僕だって時にはクネクネしてみるんだよ。してみるんだけど、やっぱりそれでも、クネクネしてるときは楽しいけど、クネクネが終わった後、どうせ僕のことなんか誰も考えてくれないって思うと、やっぱり寂しくて、楽しいことの後の寂しさだから余計苦しくて
こんなさみしがりやで不器用な僕ですけれど、ちょっとでもかわいそうだと思ったら、Twitterででも話しかけてみてください。おねがいします。