はてなキーワード: テーゼとは
あくまで、中立論として聞いて欲しいんだけど、いいかな?
僕は奨学金組で、学費免除組なんだけど、そういう意味で、奨学金を切られるってありえないというのは、まっとうだと思う反面。
この話を聞いていて学業って何かな?とおもった。
とりあえず、運とはいえGoogle+ 日本一。というのは、何の才能もなければ取れないわけだ。
少なくとも平均点以上の才能といえる。 また、学力も入学試験を通る程度にはあるわけだ。
では、この才能を伸ばすのが、いわゆる、理国数理社の学業という枠でいいのか?
自由入試があるように、自由奨学金があってもいいのではないか?
というのは、日本からGoogleやFacebook Appleが生まれていないというのは、ひとつの学業の定義が狭すぎる。部品となる人間しか作っていない。
つまり、彼女の活動は日本では認知されないだけで、立派な学業である。
どの程度をもって更生を達成したとするかは、社会や文化の発展の度合いによって違うし、ダメな生活保護者が病院で更生できる種類の人間なのかどうかも分からない。一律にどんな人でも更生可能だというテーゼの元に、更生の為に社会のリソースを注ぎ込む考えや対処が正しいのかも定かではない。更生させようとするのは、浪費ではなかろうか。適切な対処だろうか。蜃気楼を掴むためにリソースをいくら注ぎ込んでも足りる道理がない。更生の可能性という夢を捨ててしまえば、もっと良い仕組みを作れるのではないかと思う。
例えば40代半ばの精神薄弱な無職の男を更生するのに、これから20年は必要だと医師の見立てがあったとして(往々にして長期戦なのです)、更生のために、そこに人間や時間や資金を注ぎ込む価値はどれだけあるのだろうか。もっと見込みのある若い人材の教育に注いだ場合とでは、どちらが社会全体の利益を高めて、どちらが社会の中にいる人達への還元分を高めるだろうか。実際、現在の生活保護では「あなたは更生不能なので、これでヒッソリと余生を送って下さい」という、社会からの実質的な手切れ金として与えられている場合もある。
どう見ても更生困難なクズに、いつか必ず更正できると言い続けて更生を求めようとするのは、社会で自立自活している一般人のエゴではなかろうか。末期がん患者に安楽死を与えるが如く、介錯してやるのも社会の温情であり知恵であるはずだ。
例えば、生活保護受給で更生を期待されながら、実際はどうしようもなく無意味な生活をただ続けて、世間から非難を受けている人達。彼らはいっそ強制収容所に送られて社会に役立つよう身を捧げた方が、本人にとっても社会にとっても遥かに意義のある人生になるだろうし、それは更生だとも言えるのではないだろうか。
おまえの言う通りだ。
朝は新聞配達、日中は弁当屋、夕方からまた配達して、夜まで集金活動&営業活動。
自分も金稼ぎのためにそれをやってきたことがあるけれど、体や心は少しずつ壊れていく。
ただしダブル・トリプルワークの非正規社員は、すでに非正規で働いているので、「何の保障もない非正規雇用になるのが怖い」という恐怖感で働いているわけではない。単純にお金がほしい、これ以上収入は下げられない、という自分のエゴから生まれる恐怖で働いている(という人が多い)。
ひとつの会社と契約してトリプルワークになっているばあいは、その会社は働かせすぎだ。しかし、非正規職員が自分の意思で異なる複数の会社と契約してトリプルワークになっている場合は、その個々の契約において長時間労働をさせていない場合は、個々に契約した会社に対して「働かせすぎだ」と文句を言うことはできない。
例外はあるが、基本的にトリプルワークは自己責任、と会社は考えるし、労働基準当局もそう考える。
会社は労働時間のルールを守っていて、労働者が複数の会社で働いて過労になっている場合、その過労の責任は、いったい誰の責任なのか?
ただお金がほしいという動機で過労になっている非正規もいるけれど、本人の自己責任と断定しきれないケースも、まったくないわけではない。なんらかの事情でお金を作らなければならない人もいる。
ケースとして多いのは、借金返済のためにオーバーワークになっている人だ。制度的には、返しきれない借金は、返さなくても良いことになっている。取立てが苦しいなら、自己破産して少しずつ返せばいい。民事再生法が規定する債権回収してはならない最低生計費の額は、地域や家族条件にもよるが、年収250万円程度。それ未満のお金は、高利貸しにお金を渡す義務が無い。そういうルールを単純に知らないで一生懸命働いて返そうとしている人がいる。そういう人には、法的なフォローが必要だと思う。(例外あり)
それから過労ケースとして多いのは、介護と医療だ。家族が癌で治療を受けているけれど、特効薬の認可がまだ下りていなくて、薬の費用がもの高額で薬代を自己負担で買っているというようなケース。海外で手術すれば良くなるが1000万円かかりますというようなケースで借金することができない場合とか、お金は私が何とかしますと言って金を稼いでいるケースもある。
そういう人たちは、社会的にはみんな“自己責任”で片付けられていく。
本来は、現実に生じている困難に対しては、社会の側が法律的に“制度の柔軟な運用”によってフォローすべきだけれど、現場で制度を執行している役人は、本省解釈に縛られているからフォローすべきだと心の中で思っていてもフォローはできない。厚労省の大臣クラスまで判断を上奏して判断を仰がなければ、現場で勝手に法律の解釈をかえるということはできない。それをあえてやるツワモノ官僚はまったくいないわけではないけれど、ほとんどの官僚は自己保身をしているからそんなことをやったりしない。行政における法の解釈変更は、役人の仕事ではなく、選挙で選ばれた政治家の仕事。
選挙で信託を得て選ばれた議員には、それだけ重い責任と権限が与えられている。
そこで困難にぶち当たる。政治家を説得するための時間的・能力的・金銭的なコストは、過労状態の人は負担できない、という矛盾だ。本当に過労状態の人は世の中から切り離されている。
この状態は、社会学的には「鍵のかかった箱の中にその鍵が入っていて箱を開けることができない状態のテーゼ」と言われる。ひどい場合は、箱の中にさらに箱が入ってていて、箱が二重三重になっていて、それら全部の箱の鍵が一番内側の箱の中に入っている状態なんていうのもある。
「鍵のかかった箱の中にその鍵が入っていて箱を開けることができない状態のテーゼ」には、ひとつだけ解決方法がある。それは、合鍵を持っている人が箱を開ければ良いという解決方法。だけど大抵の場合、箱の中に鍵が入っているという状態を、会鍵を持っていない人は知らない。だから、箱を開ける必要があるということを合鍵を持っている人が気づくシステムをどうやって作るか、合鍵を持っている人が鍵を必要としている人にどうやって鍵を渡すか、というふたつの問題をクリアする方法を考えなければならない。
所で本当にやばいのは「ダブル・トリプルワークで食いつないでいる非正規社員」だと思うんだけど
こういう層の事も抜け落ちてるよね。
顧客満足度は、予約が取れるかどうか?安いかどうかだけが要素じゃない
リピーターだけでも商売できないし 新規だけでも商売できない。
ただし、昔は ネットが無かったので、多くの新規のお店を回るよりも 行きつけのお店に行くほうがよかったが
そのために、行きつけのお店に毎回良く客よりも、ネットで有名なキャンペーンのお店に行く人の比重が増えるのではないか?
というテーゼを、事実としていっている人がいるが それを事実として確認するデータはないものの、無碍に却下できる意見でもないと思う。
とくにクーポン客は、基本 遠方よりの客である可能性が高いという事を考えるとリピート率は高くない。もう1度クーポンを発行しないとリピートする率は低い
ということもできるかもしれない。
であるならば、クーポンを使って新規顧客開拓をする場合、原則、リピートを期待しないマーケティングが重要という提案も 間違っているとは言い切れない。
ただし、クーポンが購入されるかどうかは?既存の評価が重要になってくるだろうから、一期一会でなくてもよいという意味でもない。
我慢して勇気だしてどっこいどっこい!
俺は一体何のために頑張ってるんだろうな。
結局そこからは何も生まれないんだね。
俺は一体なんのために・・・・・・・
疲れたよ。僕はもう疲れた。
俺は一体誰のために文章を書いているんだろう。
世界を変えてやるなんて、想っているんだろうか。
眠い。何か変だ。
やめてくれと叫び出す。
俺は世界を変える。
そうはいってもねぇ・・・・・・・・・
無理やりテンションアップ!
そうだこんな時こそ!!!!
でもちょっと待って。この曲終わってからね。
もう一回もう一回
一旦闇に戻るぜ。
そして改築して再スタートだ。
得意なことは他人を不幸にすることなんて、本気でいってんのか?
俺には全く理解できないよ。ふざけてるよね。
ブッ壊れてるよね。最高にふざけてるよね。
俺はもう眠たくもなくて。それって初挑戦?
どこまでも、続けることが愛だよ。
ぱっぱらっぱっぱーだよ。
デストロイエニージェスチャーズだよ。
だれにも止められないムーブメントだよ。
本気で伝えたい、それに近い。
そろそろ眠くなってきたかな。
いい夢みれるといいんだけどな。なかなかそういうわけにはいかなくて。
厳しい問題だらけだ。どうでもいいけどあなたに興味はありません。
これが俺の選んだビクトリーロード。
認識されればいい。しめたもんだ。
そんなものこの世界にありゃしない
神も仏もあったもんじゃない。
誰でもいいから僕にかまってよ。
かまってちゃんの大冒険。
フォロワー無事に100人突破。次は200人目指して頑張るぞ。
俺は俺を信じている。
あなたが、許さないのでしょう?
第一に、あなたが許さないその責任は、あなたが引き受けるべきだ。
「許されない」という言い方は、責任のアウトソーシングではないのか。
「許さない」ではなく「許されない」と言うことによって、あなたは正義を掲げて他人を断罪する愉悦はそのままに、断罪に伴なう責任からは逃れることができる。
第二に、ひょっとして、あなたが許さないわけではない、のか?
もしかしてあなたは、「差別はいけない」という、指導者に与えられたテーゼをそのまま唱え実践しようとしているのみなのではないか。
差別がどういうものでなぜいけないのか、自分の頭で考えた上で差別を許さない気概を固めたわけでは、ない、のではないか?
それどころか、「差別はいけない」というテーゼの正しさを、活動方針としては恭しく戴き認めながら、あなた個人としては疑ってさえいるのではないか?
一般に、社会に、「許されない」。よって「批判されねばならない」。それは正論。
だが同時にあなたが個人的に「許さない」で、個人的に「批判している」のもまた事実。
その両輪を自覚して初めて完全な批判となる。
自分を正義の代弁者の位置に置き、一個人としての責任を持たないことで、あなたは一個人の立場であれば抑制する凶行――尊敬しており今後も一緒に暮らしたい母親にお茶をぶっかける、糾弾会で殴る蹴るの暴行を加える――を平気で行うようになる。
今日、行きつけのお店で同じ店の常連さんに「何でリフレ派なんて支持するのかわからない」と言われました。
曰く、「リフレ派なんて、ナショナリストの巣窟じゃないか。ましてや、歴史修正主義者に選挙で投票するなんて、本当にわからない。その辺、神奈川県で投票した人に聞いてみたいので教えてほしい」というわけです。
別にリフレ派大好きということもないし、その議員の後援会に入っていることもない私になんで聞くのかよくわからなかったのですが、相手もまだ若い方だし、あまり真剣に聞くもので、私も真面目に答えたものです。
「いまの不景気によって、たくさんの若年失業者が生まれている。そして経済が低迷からぬけだせないと、そうした若年失業者のスキルが上がらず、低賃金の労働者として格差が固定化されてしまう。たしかにリフレ派にはナショナリストもいるが、端から見るほど一枚岩ではない。それに不景気を脱して雇用を確保することは現在の右傾化を止めるために不可欠。社会民主主義の意識の高い欧州では、景気の悪いときに左派が金融緩和を求めることは社会の仕組みになっている」というような説明をしました。
一通り説明したはずですが、相手の方は納得しません。
「脱リフレ議連の会長は歴史修正主義者だ。歴史修正主義者の暴走を止められないなら、リフレ派も歴史修正主義容認だ。雇用の確保っていうが、結局は韓国や中国に抜かされるぞっていう経済ナショナリズムであって綺麗事だ。やっぱりリフレ派をありがたがる気持ちがわからない。ことばは悪いが、カルトのいいわけとしか思えない」と食い下がります。
私もどこかでおかしいなと思いながら、返答します。
「現実にリフレ派を見るとわかるが、リフレ論と歴史修正主義はまったく議論が違う。弱者救済のために再分配を実行するときは経済のパイが大きい方が簡単だから、再分配のために経済成長を求めるのはきわめて安全な選択でもある。経済成長を求める富裕層の所有欲を利用して弱者が保護できるシステムは現実的だ。個々のリフレ派が他にどのような意見を持っていても、雇用の確保は弱者にありがたがられることに違いない」と説明しつつ、だんだん私がリフレ派の代弁者になっていくさまに、いささかアホらしさを感じました。
結局、アホらしいと思った私の方から、「あなたがリフレ派が歴史修正主義者の巣窟でないことに納得していなくとも、リフレ政策が重要であることに変わりがない。あなたがリフレ派に歴史修正主義者を見つけたとしても、そうでないリフレ派を見つけられないだけかもしれない。だから、リフレ派が右翼の巣窟とおもったら、松尾さんの本を読んでみたらいいと思う。あなたが50年後の十万人が今の一万人より大事だと思っても、他の人には今の一万人を助けることが大切かもしれないので、くれぐれもそれを踏みつけにしないように」と話を切り上げました。
相手の彼は、それでも「私を納得させられない程度の議論に、絶対的な価値があるとは言えない。松尾さんの本を読む気はないが、リフレ政策自体には賛成だ。ただ、リフレ派が「リフレ脱却国民会議」などといって国民国家のナショナリズムを利用しているのが嫌いだ。そう言わずぜひこのまま議論してほしい」とがんばっていました。もう充分彼の質問の意図が見えた後でしたので、私はそれ以上その話題には乗りませんでした。
こうなっては、「わからないと言う以上は、わかりようがない」
それが彼へのただひとつの答えだと思ったのです。
結局、彼の質問は「○○がわからないから教えてほしい」と言いながら、「○○をありがたがるなんて、気が知れない」と言いたいだけなのでしょう。
「教えてくれ」と言いながら、すでに「ナショナリズムに関わるものはどんな運動からも排除すべき」という答えは心の中に確固として存在しているのです。ですから、聞かれた方がいくら言葉を尽くして説明しても「なるほど!」という答えが返るはずがありません。
それは、「議論しよう」と持ちかけながら、その実は論争を楽しもうとする姿なのです。
相手が自身の価値観に揺らぎを見せれば、折伏した勝利者としての自らに満足し、相手が言いよどめば、相手に無知の知を知らしめた自らに満足し、相手が激すれば、なお冷静な論理を紡ぐ自らに満足し、相手が降りれば、ゆるぎなき鉄の価値観を持つ自らに満足するというわけです。テーゼとアンチテーゼから昇華したなにかを得ようとする姿を借りながら、相手の答えが曲がらないかぎりは自らの答えをけして曲げる気がない、堂々巡りの価値観の剣闘です。
そんなことを思いながら、「わからない。なぜ?」と聞く前に、本当に自分にその答えを聞く気があるのか、そこを自問自答したいものだとじっと手を見ました。
具体的に話題にした彼には申し訳ないのですが、今年に入ってそういう問答が何度も私の身に降りかかったもので、いい機会と記事にしました。
「いい左翼が、リフレ派になぜあんなに熱中するものか、わからない」というような、理性の皮を被ったリフレ派叩きの記事を見るにつけ、私は思います。
「本当はわかってるくせに。そんなことわかりたくもないと思ってるってこと」
実際こういう育て方を徹底的にされてたらかなりのダメージ。
「無力であれ」というのがテーゼなわけだから、生きていくのが辛いだろう。
泣くのもわかる。
いや、まさに指摘のとおりで、この社会は「他人に愛され望まれている人間ほど価値が高い」と、「はっきりテーゼにして明快に示して」いると思うんだけど? どの辺が明快でないのかよく分からない。
社会は人の生を価値づける。社会的な、相対的な価値だ。それをある程度内面化することで、我々は「社会」を営むわけだが、それは別に唯一絶対の価値基準ではない。そんなことにヒステリーを起こしても意味がない。そんな「便宜上付けられた価値」…たとえていえば遊園地が入場者に振った入場ナンバーみたいなものに対して、青筋立てて怒るなんてばかげているよ。
ところで、君は、自分が例に挙げたケース(海の上の板きれ)で、誰が手を離すべきだと思うんだね?
「本人の逸失賃金」と「遺族の経済的精神的逸失利益」をもとにする。
「精神的損失」については最近含められたという。確か2億円程度だったか。
「遺族の被害者感情」というものが含められている。
んじゃあ、家族がいない人が死んでも、家族がいる人が死ぬより、補償や制裁は小さいってことか。
言いかえれば、人に愛されていない人の命は、愛されている人の命よりも、値打ちが低いってことか。
じゃあたとえばだ。
今ここに人を殺したい、あるいは暴力をふるったりレイプしたりしたい潜在的犯罪者がいたとする。
家族のいない人を殺したりレイプしたりしたほうが刑罰が軽いから、
そっちを殺したりレイプしたりしよう、と考えるかもしれないな。
生命保険会社の社員がすでに板きれに乗って海の上に浮かんでいる。
そこに2人の加入者が助けを求めてきた。
3人乗せたら板きれは沈む。どちらか一方しか助けられない。
家族がいる人に死なれるより、家族がいない人に死なれた方が、支払う保険金は安くて済む。
だから家族がいる人を助けて家族がいない人を見殺しにしよう、そう判断するでしょうな。
家族がいなくても、家族と同じぐらい被害者を思っている人だっているかもしれないよな。
一方で、刑罰を受ける犯人についても、家族がいれば刑は軽くて済む、いなければ重くなる、って論理が成立するよな。
中絶も単純に経済的理由からだけでなく私生児になるから、世間体が悪いからという理由で行われることが多い。
(というか結婚できないから経済的に厳しいという場合も多いだろうな。)
男性が結婚してやらないというのはつまり愛していない、少なくとも責任を全うするだけの愛情がないってことだな。
(胎児が人かどうかという野暮な議論は捨象するとして、まあこれから命になる命の芽だということは確かだろう。)
なんで父親が母親と結婚せずにできた子供、愛されていない私生児だと、殺されても仕方がないんだよ?
男性から愛されていない女性の子供だから、殺してしまっても、構わないって言うのか?
父親が結婚せず経済的に厳しいってんならそういう母子家庭に補助をしてあげればいいじゃないか。
そんなところに税金を使うと家族という単位を壊すことにつながるというが、
じゃあ家族を作れない、他人に愛されていない人間は生きる価値がない、命の値段が低いってことなの?
はっきりとテーゼとして明快にしたほうがいいと思うんだけど。
などとタイトルをつけてはいますが、どんなことが起こっているのかを説明するつもりはさらさらありません。あしからず。以下のお題に投稿するには余りに長くなったので、勝手ですがこちらを借りました。
上のようなお題がハイク内で立てられ、ちょっと盛り上がったので、以下、全力で釣られてみます。
既にいくつか指摘のあるとおり、表意文字としての漢字を日本語から引き算して表音文字としてのひらがな/カタカナへ統一することは、朝鮮半島でのハングル使用が少なくない同音異義語を産出し混乱を招いている現況と同様の事態を引き起こすだろうマイナスの側面がある。
漢字の使用によって抑圧される弱者として日本語を母語としない外国人を想定するのなら、その弱者の補助ツールとして各種翻訳サービスを挙げることができようが、ひらがな/カタカナのみで表記された文章の翻訳は、日本語において多量に存在する、しかし漢字による表記で区別可能な同音異義語を、前後の文脈から判断して行わなければならなくなる事態を引き起こす。現在の提供されている無償の翻訳サービスですらまともなものではないのに、余計に使えないものになるだろう。
弱者として視覚障害者を想定するのであれば、視覚障害者と晴眼者の差異、視覚障害者の能力が障害と見做される由縁は、「読む」ことと「聞く」ことにおける「読む」ことの利便性に他ならない。ここで、書記言語から口語言語の優位性を説くのであれば、文字を拒否するという極端な姿勢もあり得ようが、一方では、漢字の使用をやめたところで、「読む」ことと「聞く」ことの差異が縮まるというものではないことも容易にわかる。漢字の不使用に「わかちがき」の使用を追加したところで事態は変わらない。ところで、書記言語から口語言語の優位性が説かれるときに、今度は聴覚障害者や構音障害者が抑圧されているかのようにみえるのは、一体どういうことだろうか。
あるいは、単に漢字の読みがわからない、また付随して意味がわからない者を弱者として想定するならば、キッズgooなどの検索先ページへの仮名振り機能は強力なツールとして既に存在しているし、オンライン辞書ツールなどの使用による「学習の啓蒙」がなされて穏当、かつ然るべきではないか。
また、補助ツールを用いずに弱者への配慮をhtml/xmlで記述されたページ内で完結させることを考えるならば(大体、html/xmlで記述されたページがメディア=媒介なのだが)、例えばhtml/xmlはruby関連タグを備えているが、投稿においてタグを使用できないはてなハイクの仕様が抑圧的だという見方もあり得よう。しかしながら、これは視点を変えれば、タグを使用することができない弱者への配慮でもあることは付記しておくべきだろう。
それどころか、ruby関連タグはxml1.1でようやく認められるに至ったのであり、この点でいえば現状のhtml/xmlが抑圧的であるという判断すらあり得よう。引き算の態度を貫徹するのであれば、漢字を拒否する前に、はてなハイクでの、いや、ネット上の書き込みを拒否する態度というのも、ひとつ考えられよう。あるいは、html/xmlにおける扱いについて問題の多い日本語の使用をやめて、問題の少ないラテン系言語の使用に踏み切るという態度もあり得よう。
話は変わるが、歩道に敷かれている視覚障害者用の点字ブロックがいかに妥協の産物であるか、病院等の公共施設で採用されるユニバーサル・デザインがいかに試行錯誤の、過渡の形象であるか、ということに目をやるのが良い。そこに横たわる根幹的問題のひとつは、弱者とまた別の弱者の利害不一致である。漢字の排除が同音異義語の混乱を招くという形式は、弱者とまた別の弱者の差異を捨象するという形式と相同的なのである。これは、弱者とまた別の弱者の双方に潜在する、共通する性質を汲み取り問題解決へ向かわんとする繊細な作業――それは、不十分とは言え、点字ブロックやユニバーサル・デザインを産み出す過程で行われている作業である――とは全く相反した暴力的行為に他ならない。ユニバーサル・デザインが足し算の思考であるとは、確かに足し算の部分も引き算の部分もあるだろう。しかし、足し算と引き算しかできない小学一年生であれば、最小公倍数と最大公約数の思考の部分についてわからないのも無理はない。
さらに、より根本的には、スピヴァクが古典『サバルタンは語ることができるか』で指摘したのは、サティー(寡婦殉死)の実行者を被抑圧者としてカテゴライズすることだったが、スピヴァクはそれを決して否定したり退けたりなどしていない。外部の視点を持ちこんで、ある彼/彼女を被抑圧者として規定すること、これこそが抑圧以外の何物でもないが、しかしこの規定によって被抑圧者を被抑圧者と認識し、被抑圧者たる彼/彼女に語りかけることが、彼/彼女の身になって考えることができる。抑圧なしのユートピアなど幻想である。抑圧なしのユートピアがお好みならば、まずもって「私」という拭い切れない自己同一性を捨て去ってみればよい。想像はできる。「お前」と同定されることのない、「私」を「私」と呼ぶことのできない、抑圧なしのユートピアがそこに拡がっているだろう。まさに、「サバルタンは語ることができない」。かつてフーコーが打ち出した『魂は身体の牢獄である』
という、一見したところトリッキーなテーゼに込められていたかもしれない苛立たしさには、同意するに吝かではない。この種の原初的抑圧の暴力性には敏感であるべきだし、しかし、しばし躊躇いながらも、この暴力から笑いを産み出す昇華の方法を探るべきなのである。この昇華は幻想ではない。理不尽に突き付けられた、尽きることのない、終わりのない、仕事だからだ。
僕が何を言いたいのかというと、お題ができたら全力で釣られて、あーでもないこーでもないと盛り上がり、次第に飽きては、パロディ化して派生した別のお題で盛り上がり――そんな楽しいところがはてなハイクです。
――落ち込むこともあるけれど、私は元気です
――
伊勢田 哲治 (著
入門書としても読めると同時に専門書としても一定のレベルを保っています。今まで提案された科学哲学のテーゼをとりあげ、これを実際に存在する疑似科学と科学の判定に有効か否かということで検証する、といった議論の進め方で話が進んでいきます。著者が言うように、可能な限り専門知識なしに読めるように工夫されています。
またこうした入門書としての気配りがあると同時に、専門書として一定のレベルを保っています。私はこの手の本を何冊か読んだのですが、ポパーとクーンの関係が今ひとつすっきりと理解できませんでした。しかし、この本のおかげでこの2者の長所・短所がずいぶんとすっきり理解できました。
筆者の本書における最終的な提案は,ベイズ主義に基づいて,線を引かずに線引き問題を解決するということなのだが,そこにいたる議論の過程こそ楽しむべし.エキサイティングです.
科学と疑似科学の間が単純な基準では線引きできないとなると,疑似科学と科学の間にグレーゾーンが残るわけだが,かといって,明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性は排除できず,様々な観点から見て,占星術や超能力研究を科学と呼ぶわけにはいかないことは,本書を読めば理解できると思います.科学する人も,占星術などの疑似科学が科学であるとナイーブに信じちゃう人にも,お薦めの1冊です.
_人人人人人人人人人人人人人人_
> な なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052
普通に、知らんやつに、「お前」とか命令形で言われるのは儀礼的におかしいと思うのだが、それでも「無限の応答責任」が生じるのが「知識人」というやつか。それこそもう一度問うが「そもそも、なんでネットの馬鹿どもとコミュニケーションなんかしなきゃいけないんだ。 」
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042662107
なるほど、なぜだろうか。言葉遣いの悪い「言論的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけないのは。では、どっちもどっちで片付ける「論理的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけない理由はなんだろうか。
そもそも「ツイッター」というつぶやきサービスやミクシィは公共的なのか。私的/公的という範疇が融解しているから、なんでもかんでも「公的」にすんなよ、別けろよ、という僕の思想というか主張があるのだが、君たちは「藤田直哉」の思想について不勉強で無知な馬鹿だ。
http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042663811
たぶんこれはメディア論(かっこわらい)の人たちが「じゃあなんで『私的』なことなら大学ノートに書かず『知らんやつ』が読めるところに書いてんだよ」っていうのにうまく答えられなかった程度の話でしょう。無論そんなこと、君の思想を逐一知ってる義務はないということ程度に、知ってる必要ないことだけどね。
逐一、発言を拾っていくつもりだったけど、めんどくさいから止める。
まずあの、
基本的な立場として僕は「南京はあったし数は30万は行き過ぎだけどそこそこはあっただろう」ということをまぁ認めるよ、という立場です。
「30万は行きすぎだけど」ってところだけれども、君にそれを判断できるほどの情報があるわけ?((ぼくにはないよ))南京事件以前の南京城内外の人口がどれくらいで、南京事件以後の非難区、非難区以外の城内外がどれくらい、とかそういうことを踏まえたうえで言っているわけ?『南京戦史』であるとか、南京事件資料集((その手のはわりと多いので、どれと具体名を挙げるのは遠慮させていただく))であるとかを熟読してそういっているわけ?
無論、そんなわけないでしょう。この人がそう言っているのは、『バランス感覚』、(別に誰が見るというわけではないだろうけど)誰もが納得してくれる『おとしどころ』としていっているわけでしょう(その『おとしどころ』で不興をかっているわけだけれども)。だいたい、君はその正当性の担保をどこに求めるつもりだろうか。言説に「善」(つまり道理)はないのに「正」(つまり公正さ)があるとでも言うつもりなんだろうか。であるならば、言説の公正さとは何で、誰がそれを決めるんだろうか。それとも、君に対して礼儀正しいか、そうでないかが、公正さの基準なの?
ある程度の確からしさがあると認めるのであれば、そこにも強度があると考えれないだろうか。つまり、この確からしさは、あの確からしさよりも正しい、と。その『確からしさ』とあの『確からしさ』はどちらも確かではないから、一緒だ、排除してしまえる、とするのは実に非科学的で暴力的な態度でしょう。
そもそも、こんな風に「公正さや正義を無視するものはコミュニケーションから排除してしまって良い」という風なアメリカ的なポストモダン・プラグマティズム((想定するのはローティやフィッシュだ))をマルクス主義者を自称するぼくが振りかざして、あらゆるものにコミュニケーションは開かれるべきだ、というような(野蛮なコミュニケーション的理性を基にする)原則論・理念をポストモダニストを自称する人たちが振りかざすというのは矛盾した話だと思うけど。
『デリダ的に言うならば』、こんなふうにテーゼがあってアンチテーゼがあってジンテーゼあるというような弁証法的なものの考え方自体がどうなんだろうか。飲み会(ある種の『問答』だな、無論皮肉で言ってるんだけど)なんかでクダを巻いてそれで『思想』((ゼロアカの、でも、ロストジュネレーションの、でも、好きな接頭句を入れてくれよ))を作り上げてしまう、そんな馬鹿みたいな真似がどうかということだ。
「人間は火を使う動物である」、「人間は言語を使用する動物である」、「人間は道具をつくる動物である」・・・・など、文化をもった動物である人間を他の動物から区別するキャッチ・フレーズがあります。
もっとも、霊長類学研究の進歩にともない、霊長類と人間の行動が文化のあるなしで判然と区別されるものではなく、現在では霊長類にも文化の萌芽状態が存在することが承認されています。
動物と比較して、人間の食の文化を特徴づけることはなにかと考えてたどり着いたのが、「人間は料理をする動物である」、「人間は共食をする動物である」という二つのテーゼです。共食とは「共に食べる」ということであって、「共食い」と読まれたら困るのですが。
(中略)
さて、「人間は共食する動物である」というテーゼについて考えてみましょう。それは、食料の分配に関わることです。
親鳥が餌をくわえてきてヒナ鳥に食べさせることをします。しかし、ヒナ鳥も成長して巣立ったら、自分で餌を探し、見つけた餌は自分で食べてしまいます。動物は原則として、成長したら、個体が食物を獲得し、それを個体単位に消費してしまいます。
チンパンジーの食物分配について、霊長類学者たちの報告があります。オスのチンパンジーが、狩りをして幼獣をつかまえたとき、おねだりをしたメスなどに、その肉を分配することが観察されているのです。しかし、いつも分配して食べるのが原則というわけではないし、固定した分配相手という関係が確立しているわけではありません。
それにたいして、世界中どの社会でも、人間の食事は共食が原則となっています。もちろん、旅先の食事や、単身生活をしていて一人で食べることはいくらでもあります。しかし、食事は一人だけで食べるものではなく、他の人と一緒に食べるものだというのが、世界の民族に共通しているのです。その、普遍的な共食集団は家族です。
(中略)
1961年に今西錦司さんが『民族学研究』に発表した[人間家族の起源」という論文があります。そこでは、インセストを回避する社会単位であると同時に、食物分配の単位として家族が成立したと論じています。つまり、性と食が人間の家族をつくりあげたのです。
人類の祖先が狩猟をするようになったことに、食物分配と、それにともなう共食がはじまったのだと思われます。狩猟が男性の仕事とされることは世界の民族に共通します。初期の人類が狩人になったとき、男性がとった獲物を独り占めにせず、肉を持続的な性関係を結んだ特定の女性と、そのあいだに生まれた子供に分配するようになった、それが家族の起源と考えられるのです。
共食のさい、限りある食べ物を共食するとき、強い者が独り占めにしないように、食物を分配するルールができます。この食物分配のルールがもとになって、食事における「ふるまいかた」の規範が成立します。それが発展して食事作法となります。食物分配が食事作法の起源であると、わたしは考えています。
このような家族と食に関する研究としては、民博の共同研究で井上忠司さんと編集した報告書、『現代日本における家族と食卓−−銘々膳からチャブ台へ』があります(国立民族学博物館研究報告別冊16 1991年)。
まあなんでもいいけど「モテになるためにはこうしろ」とか「女にはこう接するべし」とかその手のエントリーたくさんあるじゃん?
いやあった気がしたんだよ。探せよ勝手に。マジメに書くなら増田じゃなくてはてダに書くよ。
でさ、その手のエントリーってのは筆者の経験則とか知り合いの話とかが元なんだろ?まあ誰でもいいけどアサミとケンジはこうしたからうまくいったとか、カエデとタケシはこうだったからうまくいかなかった、だからこうすべきである。とか。マイとリョウタは初めはうまくいっていたのに、リョウタのこういう言動をきっかけに関係が終わっていった、注意しろとか。
そういう実体験を一般論に置き換えて語るひとが大変たくさんいるけども、意味あんのかそれ?意味というか、一般論として価値があるのか?価値があるのかっていうか、それ読んだら俺はモテんのかって聞いてんだよ。聞いてるっていうかそんなもん意味ねえ!って言ってんだよ反語的な意味で。「意味」が二回でてきて美しくないけど文脈直すの面倒なんだよ。
だってアサミとケンジでうまく行った方法論がうまくいったのはアサミとケンジだからだろ?それがナオとユウタの間においてもうまくいくとは限らないし、アサミとケンジの仲であっても虫の居所によってはうまくいかないかもしれない。むしろカエデとタケシでうまくいかなかった方法論がナオとユウタではうまくいくかもしれない。
かもしれないの連発で申し訳ないけど、でも個性ってそういうことだろ。各々が異なる存在であるし、常に変化している。
つまり、「その瞬間のその男」と「その瞬間のその女」でうまくいった方法(もしくはうまくいかなかった方法)をいくら集積したって、その経験則は一般論にはたどりつけないだろうっていいたいの。
いや共感はいくらでも得られるよ?さっき各々が異なる存在だと書いたけど、でも全員が現代人だもの。同じ時代を生きていれば似たような経験するだろうさ。
え、矛盾してるって?いやいやしてねえよ。たとえば俺たちは現代資本主義社会に生きる限りは「貧乏人はモテない」というテーゼには一理置かざるを得ない。でも金がなくともモテる事はありえるだろ?その手の具体例は巷に溢れている(もう一回書くけど探せよ勝手に)。
だからさ、モテたいと思った俺がいくら「男女」の一般論を読んだところで、いざ土壇場となればそこにいるのは「その瞬間のその男」と「その瞬間のその女」であって、何がその女にその男を好きと思わしめるのかなんてわっけわかんねえの!ぜんぜんわかんない。なんで怒るんだよ糞女が。くそがくそが。忌々しい。畜生くそばかめ。うるせえバーカ