はてなキーワード: テーゼとは
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。
この二種の区別には同意だが、はたしてモテの側の分割統治といえるのかどうか。
既存の「恋愛」言説のなかでの弱者という意味で両者はともに非モテであり、弱者であるが、これは支配的言説と比べての話であり、この結合はいまの民主党とどっこいどっこいの便宜的なものにすぎないと思う。支配的言説の存在が両者を同等視させているだけである。
ここでは仮に恋愛「からの」自由をもとめるものを「非恋愛主義者」、恋愛「への」自由をもとめるものを「反恋愛主義者」と呼ぼう。
非恋愛主義者は恋愛主義そのものを馬鹿にし、支配の存在そのものを戯画化しようともとめる。それは恋愛そのものへの軽蔑と、非恋愛領域の擁護(てっとりばやくいうとオタク趣味の公然化)、さらには非モテのネタ化や独身貴族への賛美として表れてくる。彼らは恋愛が人生にとって最も重大なものであるというテーゼを否定し、それ以外の生き方があることを示している。
一方、反恋愛主義者が求めるのは、自分が認められるような「よりよい」恋愛言説であって、けして恋愛主義が廃棄されることなどではない。たとえば「いい人が評価されない」とか、「こういうタイプがモテるべき」とか、「自分が差別されている」といった発言が意味するのは、恋愛主義の「純化」がなされ、適正化すべきだという意見であって、けっして恋愛主義そのものの否定にはなっていない。むしろこうした発言は、恋愛そのものへの信仰が一般人以上に強固なことを示している。
恋愛言説による格差付けそのものからの自由をもとめる非恋愛主義者にたいして、反恋愛主義者たちの求めるのは自分が恋愛言説のなかで適切な位置を得ることだ。しかし、それはかなわぬためにルサンチルマンは怨嗟の声として表れる。
こうした分裂は共通の敵があったからこそ見過ごされてきたに過ぎない。はてな村が非モテ言説に支配された今、モテ言説という共通敵を失った両者は分裂していくに違いない。具体的には、自分の趣味や生き方を恋愛以外の代替肢として提示するものと、恋愛に対する恨みつらみを共有することを望むものとにである。前者は後者のこだわりを理解できず、それゆえに後者は前者が同じ「非モテ」であることを疑い、空気を読むことを強要しだすのである。
この抗争は革命後のセクト争いに似ているが、セクト争いでは常に急進的な側が勝利していた。はてな村非モテ革命の結果はどうだろう。
俺も知らなかったからわざわざ調べたんだよwww
32年テーゼなんて単語を先に出したのは創価側だろw普通の人間はそんなこと知らねーw共産主義者と決め付けるのも普通はしねえwwwどんだけ創価に誇りを持ってるんだよwww
しかし、創価にはみんな興味あるぞー。今日も日テレの昼の番組でmixiで話題の単語10位に創価って入ってたぐらいだからなwww
一般人にさえ注目される創価哀れwwwmixi世代の若者は創価を知ってしまったねw32年テーゼとか意味不明の返しをする空気読めない創価はこれからもどんどん布教してみんなに嫌われてくださいwww
mixi世代がランキングに入ってる創価ってなに?とググれば一ページ目に批判ページぼろぼろ出てくるぞ。オウムみたいに名前変えた方がいい時期なんじゃね?
バレバレなんだから他所でやれっての
うんそうだね、32年テーゼだね!
今月のテーマは「眼球舐め」であった。
我らフェティシズム研究会の実力が試される格好の題材と言えよう。
会員たちは皆、並々ならぬ熱意をもってイメージトレーニングに励んでいた。
「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」
「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」
「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」「眼球舐めはエロい」
唱える言葉が重なり、響き渡る。
しかし、それに満足できぬ者が、フェチ研にはいた。
二年の瀧川である。
例の肉球事件により科せられた謹慎処分が、ようやく解かれたその初日であった。
瀧川はそう主張したのである。
ひたすらにエロスを追求するその姿勢は、当然ではあるが、多くのフェチ研会員の反発を招いた。
深く隠されているからこそ匂い立つフェティッシュ。
全と有望なフェティシストであったはずの瀧川が、なぜそのような妄念に取り憑かれたのであろうか?
(めんどうなので中略)
Nifのフォーラムとかパティオと同じ臭いがして、マジでクサい。
何だ、近藤つーのは、Nifとかの時代の人か? いや、それより若いだろ? つーことは、やっぱ日本文化? うへぇ。
さて。
優越感ゲームって言葉を聞いた時「ちょっと違うんじゃねー」と言葉の定義を考えたが、最近はそもそもその現象に“中身がない”ってことに気付いて「ああ、こりゃ確かにゲームだわ」と実感した。
中身が多少でもあれば「優越感・ゲーム」というニュアンスではなく「自己上位承認の取り合い」(必要なのは、相手に認めて貰うことであって、相手を打ちのめすコトじゃ無い)と思うんだけど。
今は、相手を打ちのめして、相手より上に立つ「ゲーム」なのだから。
ウォーシミュレーションだってルールはあるんだが、このゲームにあるルールは「相手を打ちのめせればなんだっていい」ってだけのこと。
ソースが不確かだから伏せるが、著名な小説家(故人)が、著名な詩人を「アイツの詩は嫌いだ。だって、奴はハゲなんだぜ!」と罵ったことがある……と聞いた。
凄い。これは反論できない。この小説家からすれば「ハゲ如きが詩をろうじるなど言語道断」といった趣だ。
つまり「うっせぇ! 黙れピザ!」というのもなかなか趣深い反論である。
何しろ「俺はエライ お前はエラくない」を宣言するのだから、必然的にそうなるだろう。素晴らしい戦術だ。
その一方で、気の利いたテーゼなんかしたり、人のテーゼに同意したりしながら状況を乗り切る(kanoseの人みたいに)と、対話する相手には事欠かない。
「うっせぇ、ピザ!」もその内に芸になる。気に入らない奴に、ピザラベルを貼るという、素敵なブロガー(pgrの誕生だ。
よかったな、この方法でもステークホルダー(pgrにはなれるはずから、やってみてはどうか。
俺はやらない。無意味だから。金を稼ぐ手段は別にあるしな。そういう承認要求も優越感もイラネ。あー、金が貰えるなら……いや、めどいから止めておこう。
非常に常識的な事ですが、世の中に批判を免れるような価値観というのは一切存在しません。例えば「職業に貴賎はない」というテーゼすら批判される余地のあるものです。
批判されるべきではない価値観などは存在せず、常に批判にさらされ磨かれるからこそ、そういう価値観が普遍化もするし説得力を増すものと私は考えております。
インターネット上で議論していて気になるのは、一部の批判を認めてしまうと、全てが否定されてしまったように思う人がいること、あるいは一部分で論破できたからといって、相手の全てを論破し得たなどと勘違いしている人がいることです。
自分の側に論理的におかしなところを認め、その上でこれとこれについては認めるべきだと主張すれば、うまくいけば批判する側を味方につけることができます。自分の側に論理的におかしなところがあることに目をつぶり続ける限り批判は免れないのであって、そこを最終的につけ込まれれば、せっかく正しいところが多分に含まれていたとしても、その無責任さ故に全体を否定されてしまうことになりかねません。
事実そういう流れになってしまった。
yukiさんが被差別者の権利を主張する上でまずいなあと思っていたのは自虐癖です。簡単な例を示します。
yukiさんは簡単に「女は全て売春婦」などと口にしてしまう。ここで使われている"売春婦"と言う言葉は明らかに蔑む対象としての意味を含んだ言葉です。黒人差別、部落差別と一線をひかなければならないと言った理由はここです。
まず「女は全て売春婦」という言葉は取り下げるべきです。それから"売春婦"と言う言葉は差別的な文脈で使われるべきではないと表明すればいい。
そして、
「自分は売春婦であったことを恥ずかしいこととは思っていません」
と表明してはじめて、黒人差別、部落差別と同等の基準で発言することが可能になります。
あるいは、
「人はいかなる理由であれ差別されてはいけない」
という文脈で用いるのなら、自らをことさら「売春婦」と強調する必要などどこにもないでしょう。
意地悪な質問だとわかっているのに、あえてそれをぶつけてきたうえ、差別的だと怒れば被害妄想が強いと嘲笑う。自由に発言している、発言を制限されていないから差別ではないと屁理屈。ぺんぺん、これでわたしが黙ったら、あなたはきっと言うのでしょう。論破されて黙ったのであって、差別ではないと。
仮に論破されたとしてはそれは一部分であり「人はいかなる理由であれ差別されてはいけない」というテーゼまで否定はされないでしょう。但し、時として自分の非は一切認めないという頑固さを徹底的につけ込まれると言うことは、覚えておいてもらいたいものです。無駄なプライドが仇になっている好例ですね。
ちなみに言及するのならちゃんと引用元を明示しましょう。
*minx* [macska dot org in exile] - 売春者への蔑視発言をめぐる議論(3)
あとインターネット歴も長いのですからblockquoteの使い方ぐらい覚えてください。引用と主張の区別がわかりにくいと言われても文句はいえませんよ。相手に理解して欲しいのならそれぐらいの努力はしてもらいたいものです。
アレクサンダー帝王がギリシアからインドの前まで,広大な帝国を築いた.チンギス・ハンなんてもっと巨大な領土を支配下に治めた.ちょっと前で は,ヒットラー.もっとも最近では,ていうか今は,アメリカだ.
現代までに,腐るほどの戦争が行われてきたんだよね.現代に近付くにつれて,ひとたび戦争が終わると,そのたびにもう戦争はしない思うように なったんだよね.ウエストファリア条約なんてその典型だと思う.
ちょっと前にさ.小中学生の自殺が多発したよね.いろんな地域で.でも,これってさ,昔から繰り返し起こってない? その度に,あちこちで議論 になってると思う.結局,ぐだぐだになって終わるんだけど.
ちょっとスケールを落とすと,こういう現象ってさ,人間,一人一人にも見れるよね.たとえばさ,学生だったころってさ.同じような問題でいっ つも間違えたりするよね.何回も見たことがあるはずの英単語がわかんなかったり,同じようなタイプの数学の問題がいっつも解けなかったり.人 間関係でもさ,同じようなことで失敗するよね.俺もいっつも同じような理由で振られるんだよね.同じようなことを言われるんだよね.バカそうっ て.
少し,話がそれるんだけど,
他人がさ,自分自身に投げかける言葉って驚く程,似通っているよね.俺なんか,何人の人に「バカそう」って言われたか.ホントは超の上にバカ がつくほど,まじめなんだよ俺.バカとまじめは両立できるけど.
まあいいや
本題はさ,どうやって知識を蓄えていくかって言うことなんだよね.しかも,苦手な分野で.数学とかみるとさ,人間って得意な分野(方法論が確 立されている分野)ではさ.比較的うまくため込んでいってると思うんだ.建築からコンピューターまで,自分の周りにあるものを見渡せば,「ああ 確かに」ってわかると思う.数学の内側を覗き込んでみると,再帰はその典型的な性質を保持しているよね.反復と蓄積の.
でも,苦手な分野じゃからっきしだよね.文系とか.例えば,東大の安富教授なんかは「企業は情報をため込むことはできない」なんてテーゼを立 ててるし,「今まで,文系と言われている学問は何も解決していない,これからは文系の時代だ」なんて言った教授もいるよね(俺この発言好きな んだよね).もちろん政教分離とか内政不干渉とか,きちんとため込んでいるモノもあるけど.
言いたいことはこう言うことなんだけど,
帰納的に考えるとさ,時代は繰り返すよね.
前の世代が築いたモノを何らかの形で,受け継いでいかないと.そうしないと,戦争は減らないよね.
たぶん減らなかったら,世界が終わるだろ.
自殺も減らないと思うんだよね.
俺も振られ続けると思うんだよね.
俺の直観なんだけどさ(まあこの文章自体,論理なんて入るすき間もないんだけど),正直,苦手なことに真っ正面から立ち向かって,一つ一つ克 服していけば,何かを成し遂げることができると思う.
だから,どうしたら苦手なことを克服できるんですか?