はてなキーワード: 知性的とは
Excelスクショが生産的じゃないのなんて誰だってわかるだろうし
それに対しての批判を自分の所属してる組織であることのSIerの批判と勘違いし、
ひいては自分自身への批判と勘違いして「SIer叩いてるやつはシステム無しで生活してみろ」とか言ってる人なんなの。
その上でタンポポワークみたいなのを叩いてるだけだろ。
一周回ってSIerに所属してる人ってやっぱり(察し)ってなりそう
そのやり方がつらいならそのつらさの原点にどんな問題があるかって議論をしろよ
仕方ないんだよ!つらいけど必要なんだよ!って叫ぶんじゃなくて。
人材流動性の欠如だよ残念ながら大手SIerは簡単に人切れないところ多いし
単純作業に関しては単純作業しか出来ない人に仕事を与えるために
(勿論一旦大量のドキュメントを納品するその枠組みをつくってしまうと合理的な組織に対する競争力になりうる。
例えばある公的機関の納品においては某拝承社のドキュメントをもとに基準が出来上がっていて
それをもとに某拝承社から出向してきた職員が別の会社の納品物をチクチク叩くっていうのが常態化している為、
Excelスクショを作れるような企業じゃないと新規参入が困難になっている。
公的機関だから一般競争入札にも関わらず目に見えない障壁になっている。)
顧客が求める場合もあるけど、その顧客もバカじゃないし個人の背負える以上の責務
が発生しない場合は作り手に非合理な作業やってもらう必要はないだろう。
(そういう意味では、顧客の側も大企業的組織である事も問題。)
画面系のテストは例えばSeleniumとかで自動化し、顧客にも
Excelスクショのエビデンスじゃなくて自動化されたテストコードの方を納品すべき
納得・理解出来ない顧客はシステム発注する資格が無いという雰囲気を醸成すべき
Excelスクショを肯定する輩はExcelスクショしか出来ないからポジショントークしているんだ。という雰囲気を醸成していくべき。
自動化出来るほどの単純作業しか出来ない人は仕事がなくなるかも知れないけど、
東なんとかさんが昔セカイ系ってジャンル分けを言い出してオタクを批判したらしい。
セカイ系とは、社会構造をすっとばして個人の間の関係がそのまま世界の行く末に直結する物語で、
『ほしのこえ』、『イリヤの空、UFOの夏』、『最終兵器彼女』がその最たるものらしい。
どの作品も好きな自分としては、なんとも釈然としない感情を持っていた。
でもこれ、異世界に召喚された青少年が、その世界のお姫様と一緒に世界を救う話を作りすぎて、
なーんか子供っぽいし、現実世界で同じ事やったら大人っぽくね?
と思ってやってみたってだけの話なんだよね。
そんなくだらない話を大仰に取り上げて、ゼロ年代の精神構造がなんのかんのと空論作っちゃったわけだ。
最近では彼は日本は反知性主義だとかなんとか言い出したらしい。
いや、お前が知性的でないってことがバレて、誰も相手にしなくなった状況を、
まー、ちゃんちゃらおかしい話だよ。
・俺がカントの考えが重要だと感じた原因の一つには、幻覚、妄想、感覚異常が伴うという狭い意味での精神病的な状態になったことがあり、
その記憶が残っていて、そのときの行動を恥じており、そのような状態に二度と陥りたくはないと思っているからってのもあったかもしれん。
たとえば、人間の知性的直観の否定という考えは、精神病状態での啓示を受けた感じを警戒する態度によって腑に落ちる感じがしたのかもしれない。
また、体系的な精神病的な妄想を警戒する態度があったからこそ、理性批判が重要だと感じたのかもしれない。
・カントの考えには精神科の薬みたいなところがあるのかもしれん。
かつて自傷他害の恐れのある状態になったことのある人が、そうならないように薬をちゃんと飲んでいるように、
未だ大学生にすらなっていない青二才というのは百も承知だが、さっき絶対矛盾的自己同一性の概念に目を通した時はかなり衝撃を受けた。
「何を言っているか全くわからんぞ」って方向の衝撃。良く噛み砕けばわかる、かもしれない・・・?
ブッ飛んだ事を考えやがる。そこに至るまでのプロセスを教えて貰いたい。
レッテル張りとか見苦しい詭弁への逃亡とか、片手落ちの主張とか、そもそも感情論でしか物を言わない事例等を「知性的、客観的じゃない」と悪く言えば見下してたんだが、「そういうお前は知性的なのか?」って言葉が叩きつけられるような時間だった。
俺の知性レベルが低いのか・・・もしや俺は中二病にかかっていただけではないのか?有名な著書を読んでみよう。とか思ったのが甘かったな。今から解読タイムに移る。でも確実に不適当な認識になるよな・・・。自分が恥ずかしい限りだ。
思いて学ばざれば則ち殆しとはよく言った物だが、学んで理解できなかったのは俺の少ない人生経験の中でも始めてだったぜ。
ふと思ったことをメモ。理論なり参考にして演繹的に書くわけじゃないので、まあ反論なりいただければ是非読ませていただきます。
さて、結論から言うと以下の考えのコアは「嫌いな人といかにして距離をおくか」ということ。嫌いな人、までいかなくても苦手な人、ウマが合わない人くらいでもいいです。
自分の人間関係における考えとして、人生を楽しく生きるには嫌いな人なり苦手な人とは極力付き合わないこと、というのがあります。人によっては周りの感情に気を使いながら~とかとかあるけどそんなの気にしながらじゃなくて気の合う連中と好きなこと言ってる方がよっぽど人生の充実度高いっすよ。経験則的なところなんですけどね、自分自身も努めて友人の数を増やそうと、八方美人外交てきな態度をとってた時期がありまして。よくわからない価値観に頷いてみたり、おもしろくもない話に全力作り笑いしてみたり、やりたくもない呑み会の幹事やらされたりなどなどなど。
で、今はと言うと自分の価値観全面に出してすきなように生きてます。友達って呼べるのなんて片手ぐらいだったりするかもでその他表面的な付き合いだったりするけど今のがよっぽどいい。気を使わなくていいからラク。
どうなんですかね、多分そこらへん男女だったりで違ったりするのでなんとも言えないけど。ちなみに自分は男。
・一つ大事かなと思うのは、割りとどの人を好んで、どの人がそうでないかを公言してしまうことかなと。(※もちろんさすがに本人には聞こえないレベルで)共通の友人なんかにもこいつとこいつはあまり合わないというのを把握しておいて貰えれば、会合も上手く調整されてその場の変な緊張も緩和されて実に有意義な会合になります。
・もう一つメモにしておきたいところは相手がこっちが嫌ってると知ってても近づいてくる場合。婉曲的なアプローチだけでなく、直接拒絶した態度をとっても気づかれなかったり一方的な好意を示してくる人種もいます(本当に)こういった人の場合はもう共通の知人を通してそれとなく自分がその人のことを嫌ってること(ないし良くは思ってないこと)、そして場合によってはその共通の知人を通してその自分が嫌っている人に距離をとってもらうように言ってもらうこともありなのかなと。ここまで言っても態度が変わらない人っていうのは少しオトナの対応がとれない、あまり人間的には成熟度の低い人なのかなと思うところなので、周りに相談を持ちかけるような形で軽い村八分的な雰囲気に持っていくのが有効かなと思います。ここまですれば相手も態度を選ばざるをえないので。
以上、あくまでメモなのでご参考に。最近はSNSなんかも出てきて人間関係がほんとうに面倒になってきたなあと思います。で、前提にあるのは方針として嫌いな人とは付き合わない。(もちろん自営業の人で仕事上要面的な付き合いを切らないほうがよいこともあるし、割りと神経が図太くて些細なことが気にならないタイプの人はむしろ広く友達を募ればいいと思います。)ここ、はてなとかネットが好きな人って割りと価値観がリベラルだったり干渉嫌いだったり一人の時間が好きだったりする人が多そうですよね、そんな人とか、またさらに知性的だったりプライドが高いタイプの人なんかだと絶対人に合わせてる生活ってのに無意識に疲れてるはずなので、人間関係の取捨選択は思いの外有効ですよ。
※ここで注意が必要なのは「人と距離をおく」ことが必ずしも悪いことではない、ということですね。自分もらくになるし、そういう場合往々にして相手も気を使っている場合が多いです。また既に書いたように周りもその緊張関係を読み取っていることがしばしば。なので後ろめたい気がしても実際にこういう態度を採用してみるとラクになることがあるので、自分のケースだとどういうふうに取り入れられそうか考えてみてはいかがでしょうか。(もちろん、嫌いな人を安易に前切りしてはいけません、必要な人間関係もあるので。)
結果に関してさすがに責任は負いかねますが自身で考えてよりよい人間関係を築きたいものです。他にも気をつけていることなんかあれば是非一筆ください。
テレビがネットより優れているトコロ または15万件の苦情に見るネットの可能性
http://d.hatena.ne.jp/mizuiro_ahiru/20110725/p1
ただ「怠惰を許容する」コンテンツや仕組みを作っても流行らない。
家に帰ってまずTVをつけるような人は、
人生観を変えるような良コンテンツより「他者とコミュニケーションする為の素材」としてのコンテンツを求めている。
「昨日の○○みた?」
「面白かった~」
「でも、あのシーン、あれヒドくない?」
「分かる分かる!」
こんな風に、考察ではなく、感想を述べ合うに終始する会話を生み出すコンテンツこそ、彼らにとっての正義。
「でも、あれって実は○○が××なんだぜ」なんてことを言うのは、事実であれ、無粋の極み。しらける。
要は、TV好きは、考察ができないほど薄っぺらなコンテンツを好む。
これは“したり顔で会話をぶち壊しにくる知識人”の介入を防ぐためで、
仮に、ある程度知性的なコンテンツであれ、その情報は多くの人が既に知っており、
そこから更に踏み込むことは、コミュニケーションにおいて、それほど重要ではない。
TVが提供しているのは「怠惰」ではなく、「そこはかとなく会話を楽しむための素材」だ。
だから、チャンネル数は限られていて、そうすることで、より多くの人間が同じチャンネルを見る可能性を高めている。
TVをみる人にとって大切なことは「知的好奇心の充足」ではなく「共感」だ。
グリーやモバゲーが提供しているものも、勿論「怠惰」ではない。
そこで提供されているのは「知識人(思い込み含む)が付け入る隙のない新しい世界観」と「コミュニケーション機能」だ。
皆が同じ目線で語り合える場を提供したのが成功しており、みな積極的に情報を取りに行っている。TVも同様だ。
つまり、知識人が「面白くない!」と感じるコンテンツや仕組みこそが、意外にも、今後ネットで爆発的に流行る。
なぜなら、知識人の締め出しに成功しているからだ。
そして、大きくなった会社に、これらは作れない。
大きな会社には頭でっかちの知識人しかいないからだ。
中小企業の皆さん、
まだまだチャンスはありますよ。
※ちなみに、「怠惰を許容しつつ」というのも、とっても大事。ただ、それだけではダメ。
こういう半知性的な人間が誰かを批判しているというのも滑稽だ。
まさかこれが反論になるとでも思っているわけでもないだろうし、そこまで頭が腐った人が世の中にいるとは思えない。
と「半」知性的な人が言っても仕方がないぜー
豚も知性的
イルカが(他の動物と比べ)高い知能を持つとか、他の動物より自意識をもつ可能性が高いって話はよく聞くけど
豚が知性的ってのはあんま聞かない。
イルカの精神性を信じている人を論破できるだけの根拠は示したの?
それに欧米は割とベジタリアンが多くて、豚や牛の食用に反対する人も多いよ。そういう相手に当たったらどう反論するの?
現実問題として屠殺では動物の苦痛を最小化するよう努力が払われている。
そう言った努力を全否定するわけ?
したっていいよ。あなたの価値観の中では。
でも、人道的な屠殺を擁護している相手に対しては通用しないと思うんだけど……。
でもあなたの書き方だとそれで論破できたみたいだね。よくそれで相手が納得したと思う。
自分の都合のいいように話を作ってない?
これほど腹が立ったのは久しぶりだ。なのでちょっと愚痴書き捨て。
「日本人のイルカ殺しは残酷だ!」と称して、和歌山の小さな漁村に不法侵入したイルカイダ達が撮影したお涙頂戴映画(漁民がまるでショッカーみたいに描かれている)について、ネットで奴らに論戦を挑んでみたところ、まあなんとひどいのなんの。平然と人種差別しやがる。
まず、感情的に「広島と長崎だけでは足りなかった」「イルカの代わりにあの漁師達を殺してやれればいいのに」と憎悪をむき出しにする奴。いやー、日本のネトウヨや在特会のかわいいこと。奴らは「南京はなかった」とは言っても、「南京一つでは足りなかった」とは言わないもんね。
そして、理性ぶってる奴も「イルカ殺しは残酷だ、残酷だから残酷だ」の一点張り。「牛はどうなのだ」というと「イルカは知性的だ」と来る。「豚も知性的だ」というと「牛や豚の屠殺は『人道的』だ」と平然と居直る。「人道的な屠殺なんてあるもんか馬鹿馬鹿しい」というと「牛や豚とイルカはとにかく違うんだ」と開き直る。「じゃあまずイルカ猟をしているデンマークを非難しろ」というと「デンマークの捕獲量は年間3000、日本は20000だ」という。「数字の信憑性はともかく、デンマークの人口は日本の25分の一じゃないか」というと逆ギレされた。
本当、むちゃくちゃ。
皆さん、欧米のインテリなんてこんなもんですぜ。何のかんので日本は民度が高いよ、ほんと。ドイツ人までが"More Hiroshimas"ですよ?過去の歴史に学んでなんかいませんよ、奴ら。そう思いました。日本人の意識は遅れていると思っていたけど、相対的には捨てたもんじゃないんですよ、たぶんね。
追記 あまりにも読めてないブコメが多いので、ポイントを強調しておいた。あと、これが在特会擁護に読める人は正直なところ自分の読解力を疑った方がいいと思う。この記事は「最底辺を比較するとこっちの方がまだマシ」というだけの話なので。
Haruki Murakami が 「エルサレム賞」なるものをもらうことになったとかいう話。
イスラエルは人殺しのの悪い国なので、そんなところの賞は、辞退しろ。
黙ってもらうのはけしからん。
検索してでてきた根性のある日曜左翼女史の話をひきあいに出して、
見習え。
とか。ほんとに、やれやれ。
情報の少いところで、ほにゃららはへにゃららであれねばならぬ、というような思いいれで、どんぱちやっているわけだ。
まあ、「エルサレム賞」の「エルサレム」にみんな反応してるわけだが、これって何? どんな賞か調べてみた。
Jerusalem Book Festival にくっついている賞ということ、ふむふむ。Festivalのサイトに説明がある。
....
ここからノーベル賞5人も出てるんだね。ということは、ノーベル賞にかなりリーチポジションへのステップでもあるわけだ。そりゃほしいよ。
どんな人が審査員か調べてみた。市長が任命か、なるほど。政治の世界だな。ハアレツの編集員とか... 、
ありゃ、エトガール・ケレットが3人の審査員のうちの1人じゃないか。
「イスラエル人みんな悪〜い、賞も悪〜い、もらうのよくな〜い」みたいなのってちょっと短絡的じゃないかな、ということで、ちょっとけれっと。
日本語の記事にまともなのがない。
本人のwebsite だ。
http://www.etgarkeret.com/news.html
そこに出てくる最新のLA Times の記事は一読の価値がある。ほんもののドンパチの話だ。
政治と文学の話だと、インタビューの手軽なのがカナダの新聞にありますね。でもフランス語 orz。
でも、わりにまとまっていて、問題をもうちと繊細に考えられるてがかりかもしれないので半分くらい訳してみました。
エトガール・ケレットとのインタビュー -- いやいやながらさかなにされ(超訳)
Entrevue avec Etgar Keret - Controverse' malgre' lui
Le Devoir.com
2008.5.17/18
http://www.ledevoir.com/2008/05/17/189963.html
イスラエル人の作家であることは楽ではない。たとえその国で左翼であっても。スター作家 のエトガール・ケレットにそのことを話してみよう。パレスチナ人の友人、サミール・エル・ユセフとの共著で『ガザ・ブルース Gaza Blues』を書き、しかし、論争の中で、そして、母国であり今でも自分が住み続ける国に対するボイコットをの中で、困難にもかかわらず、生きつづける彼に。
「イスラエルに生きるのは簡単ではない。それは確かだ。しかし、作家にとってのほんとうの国、それは言葉だ。ぼくにとって、ヘブライ語を話せない場所に生きるということは、一種の亡命だ」[...]
イスラエル政府に対しきわめて批判的な彼は、ホロコーストの生き残りである父と母の、反骨精神を受け継いでいる。「両親は、よく言っていた。イスラエルはいくつもの問題をかかえているかもしれない、しかし、少くとも、それは私たちの問題で、そして、それを私たちが告発することを誰も禁止することはできなかった。他の国で、もし私たちが政府に対して抗議の意を表わせば、国へ帰れと言われるだろう。」
世界的に認められた左派の作家であり映画監督(伴侶のシーラ・ゲッフェンとの共作による処女作『ジェリーフィッシュ Les Medues』は批評界から絶賛され、2007年のカンヌでカメラドール賞を獲得した)である彼も、論争の外側にはいられない。
最近でも、パリのブックフェ、サロン・ド・リーブルがイスラエルの建国60周年に関心をひくため、同国を招待国としたとき、複数のアラブ系の作家と出版社が行事のボイコットを呼びかけた。エトガール・ケレットもイスラエル側の招待者リストに入っていた。「知識人がボイコットを呼びかける、しかし、そこに知性的なものなどなにもない。ボイコットは、あらゆるコミュニケーションを拒否することだ。それでは結局、他人に考えを変えさるチャンスはなくなる。それは、だから、行動としてはとても矛盾に満ちたものだ。」
[トリノのブックフェでボイコット騒ぎにあったとか、カナダで爆破予告電話を受けた話とか、中略]
それでも、エトガール・ケレットはパレスチナ人とイスラエル人の間の対話の推進者だ。その本 『The Bus Driver Who Wanted to Be God』は、第2次インティファーダ以来、アラビア語に訳されている唯一の本である。とうことは、パレスチナ人はエドガール・ケレットを読んでいるのだろうか? 「ぼくの本のパレスチナで出版してくれる人にそう質問してことがある。彼が答えるに、売れ行きはいいが、でも、読んでるのか、それとも燃やしているのかまではわからない、とさ」。
[彼の本を読んだパレスチナ人の反応とか、いろいろ中略]
エトガール・ケレットは「やむにやまれぬ楽観主義者」ではあるが、文学の力の限界について十分に意識している。「1万冊の本ができることは1発の銃弾のできることの半分だ。建設することより破壊することのほうが簡単だ。書くということは、ぼくにとって、一種のセラピーだと思う。自分の本で世界を変えようなんて思ってはいない。」
未来に対する大きな不安を抱きながらもーー彼はイスラエル消滅の可能性さえについてさえほのめかしているーー、彼はパレスチナ人とイスラエル人がいつの日かいくばくかは平和に生きられる可能性を信じている。
[いろいろなるほどと思うことを言ってるけれど、疲れたので後略]
はい。
まあ、イスラエル人といってもいろいろ立場があるということで。
賞とかボイコットについての考えも。
追記 もうちゃんとまじめに調べた人がいたんだね http://d.hatena.ne.jp/le-matin/20090128/p3
もし本当に伝えたいことがあるなら、言い訳じゃなくて
別の言葉で書き直せってんだ
あなたも伝えたいことがあって、書いたのでしょうが
私には伝わっていません。
まず、あなたから、別の言葉で書き直してみてください。
元もとのテーマは
XXだから権利はいらないという考え方は
XXにロボットを入れても、黒人を入れても危険な考え方ではないか?
というテーマです。
という思想とまったく同じ物なんだなと
黒人迫害はいけないことであるので、同じ理由でロボット迫害もいけないことではないか?
XXにはいるのが、ロボットならば良い。黒人なら悪いと差別するのは危険ではないか?
という論法であり、迫害をなくす啓蒙活動の一環であると思っていますが、
なぜ、
ただし、ロボット三原則を拒否しても
となるのか、読み取れませんでした。