はてなキーワード: オタクバッシングとは
結局の所、ジャニーズ性加害問題ですら、いつもの「萌え絵とそれを愛好する日本のオタク男達が原罪である」という、オタクバッシングの叩き棒にされてしまっている様だ。
ジャニーズ問題で露呈した「子どもへの性犯罪」に甘い日本。萌え絵がカジュアルに消費される異常さ
https://www.businessinsider.jp/post-275995
これがもし仮に日本の女性アイドルグループ、例えばAKBやハロプロ等で起こっていたとしたら、とてもじゃないが別の何かに罪を当て擦る事は出来ないだろう。
何故、ジャニーズというか男性へのセクハラに関する問題だけはこうやって別の物に擦り付けようとするのか?
世間はとっくに知っていたのにだんまりしていたマスコミがアニメ・漫画に責任を押し付けているだけでは?
普段は性的搾取とかほざいて色んな方面に言いがかり付けまくってる連中がジャニの性被害に関してはだんまりするか
「私達女はもっと辛い苦しみを味わっている!!!!」と被害者マウント・セカンドレイプをしているのは何故か?
世間が甘いのは「子供への性加害」じゃなくて「男への性加害」なのでは無いか?
元々オタクバッシング自体が、各種差別ネタが色々コンプラ厳しくなり擦れなくなってきたのと同時期に広まり出した代替品みたいなものだった事を考えると
ジャニーズ性加害問題の追求逃れのために、必死で行われるオタク叩きは二重三重に人権問題扱いだと考えている。
何故世間の片隅で密かに生きているだけで、ここまで差別されなくてはいけないのか。
アウティングしていない性被害サバイバーの一人として、世間や女性達による、男性の性被害の軽視、セカンドレイプ、責任転嫁と加熱する差別が、本当に許せない。
オタク差別なんてなくなったのに、40代以上の世代が依然オタクバッシングをしてくるという話
2010年代以降なくなったのは、アニメやアイドルオタクへの差別でしょう
むしろ、鉄オタ、とりわけ撮り鉄への差別は入れ替わりに激しさを増してる
キモくて周りに迷惑をかけているのだから当然だと思われてるがその認知が差別そのものなのだ
キモくて迷惑をかける存在(と思われてるもの)は差別されるのだ
40代以上にはアニメ/アイドルオタクがキモくて迷惑をかける存在という意識が残ってるので依然バッシングをするのだ
かつて宅八郎というベタっとした長髪で眼鏡をかけて紙袋とマジックハンドをもってアイドルを追い掛け回す、オタクのカリカチュアとしての存在があった
連続幼女誘拐殺害というおよそ許されざる禁忌をおかした宮崎勤から端を発したオタクイメージの象徴……80-90年代にはオタクは今の撮り鉄同様、(実態はどうあれ)気持ち悪くて迷惑をかける存在だったのだ
しかし00年代の中川翔子の登場からオタク趣味を公言するアイドルなどが増え始め、2010年代以降は世代交代が進むにつれオタク趣味がキモくて周りに迷惑をかけるイメージが徐々になくなっていった
2020年に宅八郎が亡くなったことは、キモくて迷惑をかけるオタクが消滅した象徴であるかのような出来事であった
しかし宮崎勤の事件や宅八郎のムーブメントがあまりにも強烈だったゆえ、それを知る40代以上はいまだに「キモくて迷惑をかける」存在としてのオタクの悪いイメージが消えていない それだけの話だ
90-00年代頃までは根暗な趣味のひとつではあったが、今ほど悪いイメージはなかったと思う
宅八郎のようなカリカチュア化された存在はいないが、迷惑行為の動画拡散という10年代以降のネットムーブメントにより急速にイメージが悪化していく
※長めの追記あり
けっこう忘れ去られてる事実かもしれないが、ちょっと昔は、左翼は「不謹慎万歳」だった。
ポルノは体制の抑圧に抗する人間性解放の象徴だとして称揚していた。
「不健全な表現は存在してはならない」なんて、宗教右派か特高警察かみたいなこと言ってる現在とは正反対だ。
「昔の左翼はえらかった」などという話ではない。だってあんまりメンツ入れ替わってないからな。共産党の主たる票田は昔も今も団塊世代だろう。
いかに左翼の正義が何にでも結合するのかということだ。無農薬野菜にも反原発にも、エログロにもポルノ廃絶にも、アニメにもオタクバッシングにも、反戦にも戦争賛美にも、宗教にも宗教弾圧にも、何にでも取り憑いて寄生してしまう。
まあそれはそうなんだけど。もっともな動機に根ざした暴走こそタチ悪いというのもあるし。
のもその通り。
いわゆる保守・体制側は、締め付けるにしても緩めるにしても風向き次第・エライサンの胸先三寸というところが元来有る。
本邦において左翼に期待される役割は、そういうヌルヌルの動きに要所で釘を刺すことのはずだ。
保守は伝統と呼ばれる暗黙知をベースに共有してる(ことになっている)からなんとなくで動いてもいいんだ。
左翼はそうであってはいけない。理屈で動かないと意味がない。でももう「戦後」ももはや「歴史」になり、左翼にもなんとなく感覚的に依拠できてしまう「伝統」が生じてしまったんだろうな。
もちろんここで左翼とか保守とか雑語りしてるのは「敢えて」なんで、細かいツッコミは無視で。
結局のところ「日本社会って変だね」という話ではある。ウヨサヨ相克史という切り口からはむしろその変さは整理できないだろう。
ところで「けしからん表現の取り扱い」については欧米もたいがいわけのわからない紆余曲折を経てきており、それが本邦の国内状況に混乱を添えている。
そこで保守に期待される役割は「うちにはうちのルールがある」という毅然たる態度のはずだがおとうさんもうふにゃふにゃだからな。
その辺のディテールは言わなくても知ってる同士(というか世代)での書き方しかしてないからな。ちなみに78年生まれで愛のコリーダだののリアタイ世代ではない。
表現規制とかセックス・ジェンダー関係の話ってウヨサヨヘイトプロレスのネタとして消費されやすい。
別にただちに生き死にに直結する話でもなし、まともな人は火の粉をかぶらないよう距離をとることが分別ではないか、基地外と踊るべきではない、そのように受け取られがちだ。
でもそうじゃあないんだね。こういうのをグダグダのままにしておいたら我々はクソみたいな「戦後」の文化言論空間をどこまでも(団塊の死後も)ズルズルひきずることになる。
物知りオモシロ人間ではなく嘘吐きパワハラ人間だったことは既に衆目にさらされたが、
最近ではオタク第2世代もだいぶキツくなってきたように感じる。
オタク第2世代は1970年前後生まれとされる。現在は50代前半となる計算である。
ガンダム、ジャンプアニメ、アニメ雑誌、ファミコン、ロリコンブーム…
オタク文化が形成されていった80年代に多感な10代を過ごし、
学生時代にはオタクバッシングに晒されつつパソコン通信〜インターネット黎明期を体験した。
オタク第1世代がオタクバッシングを引き起こしたことを反面教師にしたのか、
彼らは「自分は老害にはなりなくない」「私たちは新しい社会常識を受け入れられる」と思っていて、
最近ではポリコレなどに過剰適応して年下のオタクを攻撃している。
Twitterで論客をやっているようなリベラルをこじらせたオッサンはだいたいオタク第2世代ではないかと思う。
そして相変わらず「一見すると物知りそうだけど単に断言口調でデマを流しているだけの人」に弱い。
オタク第1世代を批判しつつも、どうしようもなくオタク第1世代的なものに憧れているのだ。
結果として、デマによわよわのくせに正義感で暴走する老害になってしまっている。
これからさらに10年後20年後、彼らが本当に老人となったときにどうなるか、想像するだに恐ろしい。
なお80年前後生まれのオタク第3世代はエヴァと就職氷河期で精神をやられた弱者男性だらけで、
90年前後生まれのオタク第4世代は深夜アニメとまとめサイトで育った嫌韓ネトウヨ世代なので、
真のデジタルネイティブである2000年前後生まれオタク第5世代に期待しよう。
追記。
オタク第2世代の定義って「1970年前後」説と「1970年代」説があるんだけど、
「80年代に多感な10代」といった説明は1970年前後生まれの人をイメージしており、
混乱を招いていたので「1970年前後」説に統一しておいたぜ。
1970年前後生まれだと就職氷河期の初期にギリギリかするかどうかで、
1980年前後生まれのほうが氷河期ど真ん中、というイメージだ。
よろしくな!
※末尾に追記2(5/7 19:26)、追記3(5/8 01:45)を付与。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、関連する記述は削除した。(5/8)
何故、フェミニストの中では「たわわ」がNGで、園子温は"無罪"(論じる必要がない対象)なのか?何故、オタクがバッシング対象で、ホストは共感の対象なのか?フェミニストの性質の中にその答えが眠っている。
「フェミニストの活動家達には、何故こんなに一貫性が無いのか???」
こんな事を一度でも思った事のある方は、少なく無いのでは無いか。
何故、フェミニストは、実際の被害者が居ない「たわわ」にお熱になるのに、被害者と称する女性からの訴えが週刊誌に載った園子温にはさほど関心を示さないのだろうか。
何故、フェミニストは、「海、似合って無いね」動画における反応のようにインドア派の男性(というかオタク)への蔑視を隠しもしない一方で、実際に女性を搾取するホストに対しては、さほど怒りの声を上げず丁重に扱ってしまうのだろうか。
何故、成人指定でも無いお色気漫画のゾーニングを強く求める一方で、BLに対するゾーニングに抵抗し自由を求めてしまうフェミニストが出て来てしまうのだろうか。
フェミニスト諸兄は、胸に手を当てながら読んで頂き、自分に当てはまる点について、「アップデート」する事は出来ないか、じっくりと考えてみてほしい。
フェミニストは、「〜だから、ダメ」というタイプの論理を多用する。
フェミニストが火をつける炎上は、基本、この論理のタイプで起きる。
一方、フェミニストは「〜だから、良い」というタイプの論理を使用する事については慎重だ。
この論理を使用する場合、フェミニストでなくても言える以上の結論となる事は、あまりない。「性的表象」のような妙なフェミニスト用語を使うケースは滅多に見ない。誰もが「そりゃそうだ」と思えるレベルの、ある意味無意味な内容の時に、好んでこの論理を使う事になる。
これはどういう事を意味するのか。
フェミニズムは「何が良いのか」「何がダメなのか」という事の境界線をきっちり引くことに、正面から向き合っていない、ということだ。
そして、境界線がないが故に、個々の事象に対する良し悪しの判断が、個々のフェミニストに内在する、明確な境界線のない嫌悪の反応(つまりは「お気持ち」)に委ねられてしまう事になる。
「一人一派」と言う表現は、その現状を言い換えているだけに過ぎない。
次の論戦を見てみよう。
https://togetter.com/li/1873195
この議論で最も重要な指摘はCDB氏による以下のコメントである。
小宮先生は『まずUN WOMENの主張を理解せよ』と仰いました。なので、『UNWは広告表象を問題にしており、表現を修正すれば掲載可能である』と主張していると解釈されるのか、それともUNWは作品そのものが広告掲載に不適切であると主張している』と解釈されたのか、小宮先生の解釈を伺っています。
「たわわ」の広告表象が問題であるのか、作品が問題であるのか、という質問である。小宮氏はこれに直接回答する事を避けている。
小宮氏を少し擁護すると、これは小宮氏でなくとも回答が困難な問いであろう。何故なら、UN WOMAN側がどちらの解釈が適切なのかを提示していないからだ。そもそもフェミニズムが、この場合にどう判断するかという線引きに十分に向き合ってこなかったのだから、小宮氏にはどちらとも言えないのである。
UN WOMANのコメントがなければ解釈が出来ない、という構造は興味深い。つまり、結論が先にあって、その理論付けは後から行う、と言う実態を示唆しているからである。
多くのフェミニストの主張では、個々の事象に対して、それを許すか許さないか、についての個人の無意識的なバイアスに基づく判断が先にある。そこから理屈が逆算される形で構築されるのである。
最近、「当事者性がある人が批判するべき」「当事者性がなくても批判できるべき」と、シチュエーションによって主張が安定しない論者が話題になった。
理由は簡単で、その場その場で結論から後付けで理屈を構築しているからである。
シチュエーションによって、議論の構造と前提が異なるため、その場で自分に都合の良い形(言い換えると「お気持ち」)で論理を組む事になる。結果として、ダブルスタンダードな主張が散見される事になる。
良し悪しに関する客観的な物差しの不在はまた、男性に向ける物差しを自分に適用しないように巧妙にサボる事も可能にする。
「海、似合ってないね」という例の動画を見れば、これがジェンダー的にかなり多くの要求を男性に課している事は間違いない(性別を逆にして、スタイルの悪い女性に「海、似合ってないね」と言ったら大炎上するのは、火を見るよりも明らか)。しかし、何人かのフェミニストはこの動画を絶賛した。
それは、彼女らが自身の中にジェンダーについての規範をインストールしてこなかった事を強く示唆している。言い換えると、相手に求める厳しさを自分に適用していない、という事である。
「たわわ」や「宇崎ちゃん」に怒りながら、BLの不健全図書扱いに怒るフェミニストもまた、非常にわかりやすい例である。男女間で別の基準を適用することの狡さを、本人の中で言い訳をしながら共存させてしまっているのである。
フェミニストは、ダブルスタンダードと言われても意に解さない。
自分が悪者になりうるような基準を、そもそも自分の中に持たない(もしくは言い訳、という形でパッチを当てる)事で、「自分がおかしいのではないか」と懐疑心を持たなくても済む、という構造があるからである。
なので、フェミニストが自分が責められた時によく使うロジックは、「それには当たらない(だから自分は悪くない)」である。常に自分は(何やかやと言い訳をして)安全地帯にいることになっているのだ。
私見だが、
この文章を読んだフェミニストは恐らく「これは、きちんと書けていない。だから自分の話では無い」と矮小化するか、「この論理は破綻している。だから認める必要はない」と全てを排除するか、の大きく2つの類型に向かうのではないか、と予想している。
フェミニストの一部に非常に性格の悪い人間が居る。多分本人は気づいていないだろうが、周囲からは丸わかりである。これはフェミニズムが他責型の人間にとって居心地が良い構造にあることと無縁ではないだろう。
フェミニストは行動を起こした結果がどうなろうと、その事にはあまり関心を持たないし、結果に責任を取ろうともしない。ましてや「これはやり過ぎたのでは?」と思う事もない。
大量の人間を集めて、一人の人間を徹底的に糾弾するほど、社会的に強いメッセージを発している。にも関わらず、問題が起きても、誰も責任者が出てこない。これはあまりに情けない話で、呆れている。何故フェミニストはこんなにも無責任な人間の集まりなのだろうか?
オープンレターでもう一つ興味深いのは、「教授」などの肩書きをとても重要視している事だ。単なる署名であれば肩書きは不要であるはず。肩書きをつける事で権威を付けて相手を攻撃しようと言う意図を読み取る事ができる。
たわわの件でも「UN WOMAN」が日経新聞に抗議するというアクションが取られている。
演繹的な議論を嫌う性質と、結論ありきの権威主義は相性が良いといえば言い過ぎだろうか?
この文を読んで、「アカデミックなバックグラウンドを持つ人物かどうか確認出来ないからダメ」と考えるならば、それはつまり権威主義の病が膏肓に入っていると言えるだろう。
フェミニストは自分を省みないので、まともにこれを読まない人間がきっと多数だろうが、フェミニストでなければ首肯する点が多いのではないか。
また、上記の逆になるように行動するようなフェミニストは健全であるとも言える。皮肉ではなく、そのようなフェミニストであれば全力で応援したい。
他者にばかりアップデートを求めるフェミニストに自らのアップデートが出来るとは到底思えないが、実現すれば結果としてもっとジェンダー的にフェアな状況が生まれるように思える。
若い世代でフェミニズム離れが進むのは、こういうフェミニスト・フェミニズムの(卑怯な)特性に嫌気が差している部分も大きいと考えるからだ。
面白いなー。園子温への対応の話以外にも一貫性の無さを取り上げているのだけど、園子温の件を否定できれば俺無罪!!という感じのブコメが多くて興味深い。通底するテーマは批判するかしないかに関する基準の無さ、一貫性のなさだよ。園子温に対する考え方をちょろっと批判した、という程度では揺らがない部分。
BL無罪の人なんて、フェミニストの矛盾を体現するようなアクションだったけど、そこには全く目を向けない。まー、フェミニストは、自分に問題があるかもしれない、という論理は受け入れ無いということが良くわかる。
lacucaracha:
有罪だから語るべきものがない、って不思議な論理だね。UN WOMANが、園子温(や榊秀雄)のような現在進行形の問題よりも先に、たわわのように複雑な議論が必要な事象を糾弾したのは何故?
cinefuk:
「女性差別的な文化を脱するために」と、特定の人間を貶めるためにフェミニストが結集し、オープンレターを叩きつけ、失職に追い込んだのと比べると、今回は弱々しいですね。名指しでないオープンレターぐらいはあってもよかった。
(女性原作者のオープンレターをフェミニストの手柄にするような下衆しぐさはしませんよね?)
「たわわ」との違いは、園を免罪しようとする擁護が出なかったからでは。炎上案件は、フェミの批判より反フェミが盛り上げてる印象
たわわには反論すべき論理もあるけど、それ故に炎上の責任を負わされる、という構造があるのであれば、それは容認していいの?
ウクライナが抵抗したから戦争が激しくなった、みたいな論理ですよ、それ。
todomadrid:
園子温を支持しているフェミニストなんて存在するの?そしてそもそも、広告のバッシングは広告主や媒体、もしくは痴漢をバッシングしているのであって、オタクをバッシングしてるわけじゃないので勘違いでは。
何で「園子温を支持している」にすり替えてるんだよ。こういうフェミニズムの卑怯さの構造を説明したんだからしっかり読め。
フェミニストのオタクバッシングは結構見苦しいものがあるので、これも話をすり替えないように。だから、たわわと園子温事案の熱量の差は何だよ?という話をしている。
kohgethu:
誰が性的加害やらかした映画監督どもを無罪と言ってるんだ?奴らは粛々と社会的制裁を受けてるし騒がなくても罰せられている真っ最中なので騒ぐ必要が全く無い。もしも当人が足掻いたならたわわレベルに炎上するよ。
https://www.jprime.jp/articles/-/23703
Domino-R:
一昔前に、一部の女性が自分はフェミニストをやめたと、怒りながらに距離を置くのを見ていたが、理由が分からなかったんだな。
フェミニストとの議論を通じて気付いたのは、フェミニストの立論が場当たり的で、論理がなく、端的に不誠実だという事。何故か自己中心的で、話のすり替えに余念がないクズが多くて、腹が立つ事がやたら多いんだよ。
フェミニストは、ツイフェミに限らず、例えば立憲民主の中で、まともな議論を尽くさずに議員を辞職させたりしている。害悪が大きくなるばかりじゃん。その構造がクリアでなかったので、まず見える化をしようとして書いた。
今回まとめた特徴に合致しないフェミニスト、ほんと見つからないね。居たら連れてきてよ。1人でも居ます?
こっちに移動
あなたがリベラルと読んでる方々はレベラルでもなんでもありません。それ以前のレベルの人たちです。
この人たちは別に表現を規制したいわけじゃなくて単に自分が気に入らないことを目にしたり耳にしたりするのが嫌なだけなんです。
RさんやQさんやZさんを見てください。別にこの人たちは自分のことをリベラルだと言ってない。なぜこの人たちをリベラルということにしたがるのかが逆に私にはよく分かりません。
だからこの人たちはリベラルはなぜ表現規制をしたがるのですかと言われても自分のことだとあまり思わないんですよ。
この人たちはただ自分が気に入らない表現を種したり自分が気に入らない人に対して貧困な語彙力を持って嫌がらせしてるだけなんです。
自分は好き勝手相手に嫌がらせをしたいけれども自分が他人から何かを言われるのは嫌なんです精神年齢が幼稚園児並みに押さないのです。
いい加減わかっているはずです。はてなの一部のユーザーが問題なのは、リベラルだとか表現規制がどうだとかそういうことではなくて単純に精神年齢と言うか知性が極端に低いということです。
そしてこの人たちは自分たちが発達障害あるいは知能障害であるということをよくわかっていますそしてそのことを指摘するとそれが差別になることもよくわかっています。
自分が実際の社会生活においては完全にその知能の低さあるいは精神の幼さから詰んでいるということを自覚しており、そんなリアルではお排泄物ような存在の彼らでもオタクを攻撃している時だけは何かいっぱしの人間のように感じられるわけです。
はてなブックマークの一部の方々によるオタクバッシングは人生に何も希望が持てないリアルでは完全に終わっているお排泄物達の精神を救うための副詞なのです。
精神年齢が幼稚園児並みの人に対してリベラルがどうだとかそういう話をしても意味がありません。この人たちはそういう話をする以前の問題なのです。
みんな本当は言われなくてもわかっているはずです。
でも今のインターネットではこうした精神障害や知的障害や発達障害を原因に他人に迷惑をかける人に対してそれを正直に迷惑なんだよとか指摘すると差別ということになります。だから仕方なく知的障害や発達障害のことを指摘するのではなくて代わりにリベラルというものを殴っているだけなのです。
リベラルが悪いのではありません。
はてなの一部ブックマークユーザーの知能レベルや性格や精神性がどうしようもないぐらい終わっているということが本当の問題だということから目を逸らしてはいけません。
オタクは世の中に出ることを選び、乙女系とか腐女子は引き続き世間から隠れる道を選んだ。
その結果、オタクは社会に進出したが、腐女子はずっと隠れ続けて社会からは認められていない。
実際には相当乙女系腐女子系、いわゆる女性向けも認められているのだが、学級会が邪魔で世間に出ようとすると逆風が内部から吹く。
この戦略差が、「なんでオタクだけ世の中に出て、そっちは全然なんだ」という結果になってる。
というのは間違いで、オタクは世の中に出る道を選んだんだよな。(なし崩し的にそうなったので、別に選んだわけではないのかもしれないが)
だから、女性向けの規制派も、「オタクだけ世の中に出ていって許せない。自分たちのように隠れているべきだ」
とか言ってないで、オタクのように世の中に出るべきだと思ってる。
女性向けには赤松健先生も山田太郎議員もいないと思ってるかもしれないが、実際には、自分たちが隠れることを選んだだけなんだよな。
でも、隠れることって、社会から見えないから、オタクのように社会に出ることができなくなってしまう。
安易なフェミニズムによるオタクバッシングなんかやらないで、社会に出るべきだと思う。
もう、そういうのいいんじゃないかと思う。