はてなキーワード: 現代思想とは
「有事には役に立たない」だとか
「土壇場では度胸も知恵もない」だとか
そもそも平時から、いつだって、あいつらは役になんか立っていないのだ。
社会の平穏と余剰を食っているうちはいくらでも霞の奥に隠れられるが
一時的にでもそういうものがぶっ飛んだときには実体が丸出しになる。
別に大災害が起きずとも
実務能力を問われる場面に出て行ってしまったところを見たとき、
「あれ?なんかただの馬鹿じゃないの?」
「普通の人と変わらないし、不慣れなぶんただの無能じゃないの?」
と察知したことのある人も居るはずだ。
若い世代の思想家の親分は
だから子分がそれすら理解せずにモノポリーとか言ってりゃキレたくなるのは人情だ。
思想家達の立たされている今の状況は、遅かれ早かれ有り得た未来でしかない。
これは往時の日本のプロレスラーが、ガチ競技である総合格闘技に直面した時とよく似た状況だ。
だいたい、ファンとの距離が縮まったり、消費者の持つ情報が増えたりすれば、
虚像は見破られて熱は冷めてしまう。
ネットで四六時中所感や行動を報告して関心を引かなければならず、
また観衆にそれをまとめられちゃったりする時代に、
従来通りの思想ごっこ続けようって方が無理なのだ。
そこでまだなんとか活路を探して「我々はガチ」と言い張り続けるのが親分の道で
あっさりと「いやいや、ガチのリングで俺達に何か求めないでよw」と表明したのが子分Uの道。
後者も日常に戻ればもちろん「俺は最強だ!」「誰でもかかって来いぶっ殺してやるよ!」と吼えるけれども
それがどういう意味なのか、どう消費してほしいのか、を暗黙かつ雄弁に示したのがモノポリーではなかったか。
一直線の衰亡を脱する可能性があるのは子分Uの道だけだ。
今回メタ目配せとしてスマートな所作を見せることが出来たのは彼だけなのだが
「別の子分はチャリティーやると言えたのにおまえは!」なんてズレたこと言ってる。
弁舌の徒がチャリティーやりだしてどうすんねんと。
それは新日やノアのプロレスラーが総合のセコい大会のエキジビジョンに参戦するような迷走でしかない。
有事に臨んで日頃やってきたことと連続していない別の商売をやり始めちゃうのは
それまでやってきたことがお遊びだったと認めるに等しいうえ、
大雑把な論旨は
お前が言うなで終了だなこれw
というより東自身、震災後の行動のみっともなさについて
そのストレスや言われたことを下に流してるだけじゃないのかこれ?
そんなやつがこれから何言ったって聞かれないよ。
ってことを今回示しちゃったんだよ。そんなやつがこれから何言ったって
聞かれないよ。俺がそう言う。宇野と濱野の話は俺が聞かない。
今回みたいな出来事は二度とない。それで何もできなかった
坂上「震災で明らかになったのは圧倒的に専門家って強いですよね。原発の専門家とか。
そうじゃない東さんなり僕なり人文系の人間はやっていくわけですよ。役割が違うじゃないですか」
東「そうだよ。でもそういうなかで、発言のポジションがなかったり、効力が発揮できなかったら批評家って
無意味だって事でしょ。そういうなかでサバイブするんだとかあいつ言ってたんでしょ。
俺が言いたいのはやってないじゃん、お前口だけじゃん。
俺もそうだけどジャーナリストじゃないし色んな事わかんないから
ツイートしたくない。でも一生懸命頑張って一応プレゼンで示すとかさ。
そういう必死さが全然ないんだもん。
「現代思想」とか「文藝」の連中は震災に対してなにもアピールできてないし知識人としての
役割を果たしてないとおれは思う。そういうことに対して『彼らは自分たちのグループに閉じてて
なにもできないんだ』って言ってた宇野もできてないじゃん。
そういう判断が宇野に戻ってくるでしょ。
東「じゃあさ、あいつ偉そうすぎない?いや俺に対してじゃないよ、いろんな人に対してすっげえ
偉そうにしてたじゃんあいつ。じゃあ言うなよ。
お前しょせんサブカル批評家じゃん。震災になったら黙っちゃってモノポリーやってるサブカル批評家じゃん。
それでいいけどさ、言うなよ。それが世界の真理だろ。アホなのか?」
言ってただけなんだよ。それが今回の震災で現れたの。これは絶対反論できない。
ともあれ早稲田文学は
アクションを起こした。市川くんは僕も含め多くの人間にバーって流してる、震災の三日目か四日後に。
これらってぜーんぶ、
評論家宇野常寛は論壇ヤンキーである。のほうが、合ってるかも。
俺はさ、現代思想とか文壇とかは、よくわからんが、ただ、彼らの行動を見ていると面白いんだよね。
で、「彼らのやっている事を、ああしてこうすればゲームにできるな」と思い、それを作ろうと思って、「ああプログラマどうしようかなあ」とか思いながら、仕事してたんた。
で、ふと思った。宇野センセと島田紳助の行動パターンって、似てるんだよね。
・挑発的な口調と行動
・勝ち負けに対するこだわりが強い
・(仮想)敵が必要
・古いものを否定し、新しいものを性急に欲しがる
・やたらと群れたがる
ま、こんな感じ。
宇野センセのいっている事はよくわからん(というか興味が無い)が、行動パターンとしては、「勝てる相手にケンカ売って論破して勝利宣言」ってのが、多い気がする。
決断主義だっけ? でもさ、ゲームのパラメーターで考えたら、そういうものよりも、「挑発」や「破壊」の能力の方が、はるかに大きいんだよね、センセは。
芸能界と違い、サブカル・おたく村は、彼のような人物を受け入れるには狭すぎてもてあまし、宇野センセは、他の世界に行くには小さすぎる、という、微妙なパワーバランスが、すごく面白い。
彼程度の連中を飼いならせないギルドっちゅうのも、情けない気もするが。
書きかけの小説が出てきた。
恋愛ゲームなどで攻略される側の少女がヒロイン。でも、プレイヤー、攻略する側の男が、いつまでたっても来ない。なので、こちらから探しに行く、というものだった。姿を現さないプレイヤーを失踪人っぽくして、ミステリー風にするつもりだった、ような記憶が、ふわっとある。
はるか以前、「ときメモなどの恋愛ゲームが好きな人」のブログにはまっていた頃、書き始めた奴だった、と思う。
美少女ゲームとか、エロゲーとかが好きな人って、インテリが多い気がする。つうか、頭がいいプレイヤーと、そうでない人の差が激しい、というか。私が読んでいたブログは、インテリ男性が書いていたんだと思う。たぶん。大学のサークルが、などとブログのどっかに書いてあったし。
現在のレースゲームなどは、ドライブシュミレーターとして、自動車評論家からも高い評価を受けているものがあり、ゲームにもよりますが、ゲームが上手くなれば、実際の運転も上手くなる、そうです。クルマの事よくわかんないけど。
で。それでまあ、恋愛シュミレーションと銘打っているのに、ゲームのプレイを重ねても、恋愛が上手くなるように、ちっとも思えない、というのが、書き始めた動機だったような……
ああ。思い出してきた。
コナン(名探偵の方じゃなくて、ロバート・E・ハワードの方)みたいに、筋肉脳みそ男の主人公が、なあああんにも考えないで、あっちの女に手を出し、こっちの女に粉かけて、だったら、私も好きだ。ポテチ喰いながら「バッカでー」と笑いながらみる、みたいな。
美少女ゲームとかエロゲが好きな人って、頭がいいからか、例えば東浩紀について、どうのこうのと書いている人もいるんだけれどさ。
それゆえに、自分の中にある獣性、っていうのかな、そういうものが自分の中にある、ということから、目を背けている男が多いように見えて仕方がなかったんだ。その頃は。
の割には、「ヒロインを攻略する」というキモチ悪い言葉を平気で使うし。
んな言葉使いをするってことは、ヤンキーのように力で女を屈服させるのではなくて、頭脳を使って、でもやはり、女を屈服させるのかい、と思ってしまったのさ。
相手がいないから、仕方なくゲームを… という男だったら、まだ、わかりあえるような気がする。というか、「女の手も握った事もないのに何が『少女の内面が上手く描けてる』だよ、ばあか。あ。握った事がないから、内面しか語れないのね!」と、楽しくdisり合いくらいはできるような気がする。気がするだけ、だけど。しかも、向こうは楽しくない気がする……
でも、「現代思想からみてエロゲがウンヌン」とくると、自分の心の問題から目をそらすために、難しい事に逃げているような気がするから、私はダメだ。「お前がダメだからなんだというのだ」と、いわれてもダメなんです(><) 自分の中の触れたくない部分を隠すために、「思考停止」したくないんでしょ。あなたにとってのポストモダン(って、よくわからんけど)とかって、ただの逃げでしょ。違うの?
彼らにとっては、恋愛は頭でするものなのだな。かわいそうだなと思う。同情はしないけど。偏差値が高いがゆえに救いがない、みたいな。だったら、まだモテない連中と傷のなめあいしてたほうがマシ……
と、妄想たくましく、よく知らない人達の事を、あれこれ思い浮かべて憤慨していたような記憶がある。しかも、そういうゲーム、した事がないのに。ああ、あの頃の私は若かった。今の私も、ちっとも大人には、なっちゃいないが。こうして自分の考えを文章にしてみると、我ながら思い込みが激しいというか、支離滅裂というか。
絶賛ほったらかし中の小説は、そのころ、なんとなくテレビで見た映画「プレデター」の影響で、壮絶なバトルの末、ラスト美少女は自爆する予定だった。私的には、完成させたくない小説である。
論理学にはあまり詳しくないのでなんなのですが、以下のあたりをどうぞ。
->ある事実が真理であることはそのシステム内部では証明できない
ある意味究極の定理です。厳密に証明されていますので数学として「定理」と呼ばれます。まずは「ゲーデルの不完全性定理」で調べて頂ければ資料は大量に出てきます。数学すら穴があることを証明してしまった恐ろしい定理です。
->記号論からイデオロギーが固定された意味を持たない無意味なものと論証
まずは「(ポスト)構造主義」「ソシュール」なんかを調べてから「バルト」を引いてください。「正義」の体系とも言えるイデオロギーが記号論的には無意味な戯言と等価になってしまいました。
「ファイヤーベント」の方法論虚無主義
->合理主義と非合理主義に差異はない、など「何でもあり」を唱えています。証明とは言えませんが、現代思想がどんなものか知るにはいいでしょう。科学の方法論すら恣意性の塊で何ら特権的な方法ではないことになってしまいました。
いにおと空気人形で泣いて
自分に近すぎる話で釣るのってどうかと思うんだよ
って。君はなにを読んでるのさ
すごくすごく狭い所で話をしている自覚があって
それでも私は私と言えるほど自意識も抑えきれず
よりごのみしてるくせに友達欲しいとかって嘆いて
手垢の付いたやり方でも、ワイワイしたかったな
けどどうせ冷めて、青ざめて、青い顔して去るんだろうな
ただ、誰かと話をする権利が欲しくて『複製芸術時代』とか精読してるんです
「自覚のないやつは痛々しい」とか言って
自分を縛って苦しそうな目を向けて
わかってほしいとか言ってるだけ
死にたい、って軽薄に言えたら楽なのかね
軽はずみに発するには年を食いすぎたよ
まだ一つも成長してないのに
デリダとフーコーとバルトとプルーストとヴァレリーを読み切ったら
いつか誰かが僕を愛してくれるのでしょうか
やり方が間違ってるのに
だったら嫌な顔してないでサークルはいればいいのにね
ってことで明日、読書会に参加してくる
がんばろう
必要とされたい
愛されたいんだ
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
人(法人その他の団体を除く)が被害者となった一般刑法犯の認知件数及び被害発生率の推移。
平成8年(1996年)を境に増加傾向が始まり、平成12年には200万人を突破。ピークは平成14年(2002年)の2,486,055人。
平成15年以降は徐々に減少。平成17年には200万人を下回り、平成19年(2007年)は1,581,526人であった。
年度 | 被害者総数 | 男性(発生率) | 女性(発生率) |
---|---|---|---|
平成10年 | 1,768,200人 | 1,907.4 | 909.4 |
平成12年 | 2,141,037人 | 2,303.5 | 1,096.2 |
平成14年 | 2,486,055人 | 2,652.2 | 1,281.0 |
平成17年 | 1,919,609人 | 2,055.6 | 980.0 |
平成19年 | 1,581,526人 | 1,672.9 | 823.6 |
被害の発生率は、「人口10万人当たりの認知件数の比率」を表す。男性の被害発生率が、女性の2倍強であるのは毎年の傾向。
ちなみに、殺人・傷害致死・強盗致死・強盗殺人などの凶悪犯罪件数では、平成19年(2007年)が戦後最低だった模様。
もちろん法改正や警察の記録の取り方で数字は左右されるが、グラフは緩やかなカーブを描いているので、被害が増えているとは言えないだろう。
しかし「犯罪が増えている」と思っている人は少なくない。
浜井浩一氏(犯罪学)が『犯罪社会学研究』(33号)と『現代思想』(2008年10月号)で犯罪統計をテーマに論文を書いている。そのテーマは現在の日本社会の実態を表している。
2年前と比べ犯罪が増えたと思うか?という全国調査で、「とても増えた」と答えたのは
つまり50パーセントの人が日本全体で犯罪が「とても増えた」と思うが、居住地域で「とても増えた」と思う人は4パーセントにすぎない。この乖離はなんなのか。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
http://d.hatena.ne.jp/raf00/20090305/1236262585
んー、タイトルだけならいろんな改変ネタができそうだ。そこで考えてみた。
この中でいくつかは、本当に俺の友人が似たようなことを言ってた。
東浩紀の愉快な仲間たちpresents
次世代の批評は俺たちが作る!まったく新しい批評の形を模索する、熱き批評魂を持った若者たちが、批評の未来についてガチバトルを繰り広げます!ザクティ
革命の真の意義とは!?ゼロ年代批評の申し子となるのは誰か?そしてスペシャルゲストは誰なのか!?批評論壇の新生を目撃するために、次世代の批評家(と
【出演】
坂上秋成(ゼロアカ道場第四次関門通過者/道場破り)
峰尾俊彦(ゼロアカ道場第四次関門通過者)
これってどうみてもこれ自体が第5関門だろ。当然、企画者はあずまん。
事前にこれが関門だと告知せずにやろうというわけだね。
うーん、いまいち「大学でしか得られないディープな知識」を念頭においているのか、「批評界隈での価値」を念頭においているのかわからないんだよな。どちらについても突っ込んでおく。
前者の場合、君のアプローチはあまりよくない。「質問」ってのは、前にある質問すべき事柄があって、それに対してするものだが、その前の事柄が<知的探究心のない><頭の悪い屑ども>が大半の受講者である、授業で行われた内容にある程度限定されてしまう。だから、教員の返す回答も、そのレベルを少し超えたものになるしかない。
で、本当にディープな知識ってのは、ほとんど論文という形に独占されてる。だから、ディープな知識を教員から得るとしたら、それは論文を紹介してもらう、もしくは現物をもらうことに他ならない。その教員自体が書いたものにしても、それ以外にしても。それを積極的にやる教員もいるし、やらない教員もいるが、とにかく論文へのアクセスを獲得したら、君の勝ちだし、こればっかりは大学でしか得られない。
あと、君の「本」に関する態度は、少し甘いと思う。「シミュレーショニズム」やら「思想地図」やらに価値を置いていて、テキストなんてだめだって語り口だが、正直大学の知識体系から言ったらどっちもクソ。世の中には論文からスピンアウトしたような本(部数が少ないので高い。文系なら大体3500円が目安)が多数あり、それらからは、比較にならないほどの知識と参考文献を得ることができる。また、それを読むための基礎知識を得るために、またテキストに戻ったりもできる。こういう本を読みこなせるようになれば、もはや君は批評家の言説のほとんどを馬鹿にできる。もちろん、その専門分野においてだが。
もしくは、君は批評家にあこがれているようだが、それなら「思想地図」から入るのは少し分が悪い。なぜなら、あれにはまだそこまで権威もないし、いわゆる一般読者も少ない割には、掲載が難しいと思われるため。かといって、「現代思想」とかのいわゆる思想誌はさらにハードルが高い。
あと、思想系の雑誌で重要なのは、人間関係だったりする。「思想地図」の東、北田界隈とかはだいぶ前からかなり凝り固まってるので、その点でも難しい。どちらかというと、雑誌の中心の人間と接触しやすいこと、それが重要だったりする。「ロスジェネ」とか「VOL」とかは意外に門戸が広いんじゃないの。高円寺とか行けば適当に関係者と会えたりする。
そのためには、多分無名からは幾つかのステップが必要だろう。その取っ掛かりが、はてなだったりする。まあ個人名を出すのもアレだが、古克とかはそこそこ有名だし、面白い話ができるなら話も聞いてくれると思う(というか彼はまじめ)。あとはオフもそうだし、デモもそうだし、出版に関わっている人間はいくらでもいる。彼らと面白い話ができたら批評記事をどっかで出せるんじゃないの。冬コミでも古克や素人が新刊出してたりしたし。まあ、それが続くかどうかは、あの特有の人間関係に馴染むことができるかどうかにかかっているが。
はてなで活躍してる3人
有村悠(ありむらゆう)98年度入会
入会当初はお茶会期待の星であったが、8年経った今ではニート・非モテ・メンヘルと3拍子揃った白色矮星と化した。人生を矯正するためにインドへ送り込む計画が有志によって進められているが、ヘタレなので逃げ回っている。一応、文才・画才両方兼ね備えた器用な人ではあるのだけど。かつては純文学と日本SFが守備範囲だったが、現在は無軌道にラノベを買い漁って読み漁り、会員に罵倒されている。まるで滝本竜彦の小説の主人公、あるいは滝本竜彦本人(ただし昔の)のようなダメ人間。
夏葉薫(なつばかおる)99年度入会
当会に数年ぶりに現れたまともなSF読み。山田正紀とかエリスンとか、SFファンとしては正統的な趣味をしているのにもかかわらず、口走る言葉がエログロばかりなのは一体どうしてなのか? セックス&バイオレンス主義を貫く一方、S─neryとか大塚英志とか白倉由美とかに対して屈折した愛情を抱き、「俺は桑島法子だ」と常日頃から公言している変態。むしろ中身より外見が桑島法子だったら良かったのに。白倉由美を大塚英志と離婚させるために大塚英志を寝取る計画を立案中。
転叫院豊(てんきょういんゆたか)98年度入会
第十七代編集長。ときどき電波でも食らったように、現代思想のあやしい用語を用いてアニメやらノベルゲームやらSFやらを語り始めるが、結構マジメな人なので訊けば丁寧に説明してくれるはず。小説では筒井康隆が好きらしく、ときに「脱走してやるぞ!」とか叫ぶ。好きな思想家は海外ではスラヴォイ・ジジェク。東浩紀のファンであるようだが、ミーハーとかサブカルとか呼ばれたくはないらしい。鬱キャラの次の時代は統合失調キャラだと信じている。
夏葉の方が有村より若いのか。意外。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1
はてなダイアリーは書いてないしTwitterは文字数制限あるしで、他に書くとこ思いつかなかったんで増田に書くよ。
本来の受講対象者である(ってあずまん言ってた)「東京工業大学の学部2、3年」です。数少ないらしいですけど。
別に彼のフォロワーではなく、現代思想のこともほとんど知らず、興味本位で取ってみたら話が面白かったので、というくらいの気分で受けています。
一応言っておくけど僕個人の話。
正直言って授業遅らせられるのは結構迷惑だし、
授業の流れ止めてまで活発に質問する権利は学費によって与えられてるもんだと思うし、
来ても数人かなーとか思ってたらドアの前に十数人立ち往生してて正直少し引いたし。
でもこの件でやっちゃいけないことしたのは東浩紀の方な気もするんだよなあ。
blogでは明らかに「こねーのか腰抜けども」とか挑発したりしてるし、
講義中に「僕最近ネットみてないんですけどね」と言いながら半ばムキになって反論してるし。
よそでやれよって思う。
誰に向けてるのかよく分からない感じになっちゃったけど。
トラメガ持って突撃してくるのならそれでもいいんだけど、次回でケリつけてほしいなあってだけです。
(追記)
どうして声を上げない? ってのはヘタレだからとしか言いようが無いんだけど、
しかも講義室には東さんのフォロワーがたくさんいるとなると少々ビビってしまったのもあります。
ただ、歴史修正主義がどうこうってのもそう連続してやられなければ、聴く話としては面白かったし、
昨日の講義ではもう東さんもその話題についてはあまり言及しなかったんで。
本読むよりも講義聴いた方が楽だし楽しいしそんなマジでやるつもりはないし、くらいの気持ちだったんだけど、
やはり傾倒されてる人からするとこういう態度は浅はかでウザったいのかなあ。
東さん自身の主張には大して興味はないけど、彼の話し方は聴いてて面白いし、
初心者向け、とか言ってたから本当にその程度の気持ちだったのが、
「無関心を恥じよ」とか言われてちょっと凹んだんで。
主張は余談として、あくまで知識を得るってのは悪い行為じゃないと思うんだけどなあ。
まあ理系っぽい考え方、と言われそうな気もするけどw
いや、なんだ、その
増田の言うことはわかるんだ
広義に文学を捉えたら、そりゃ、俺にも面白さはわかる。
現代の「文学」観と言うのには興味が持てる
しかし、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」と言うのが文学で学べるかというと、それはないんじゃないかなと思う。
学べたつもりにはなれるので娯楽としては成立するがね。
「異質な他者・異文化との出会い」に触れる経験なら実際に異文化に触れた方が早い。旅行に行ってもいいし、自分と違う階層の友達を作っても良い。
「自分を遥かに超える思想体系」がどう言ったものを指すのかは微妙だが、知りたいなら数学を勉強すればよい。数学以外でも技術や物理でも良い。
「芸術」と言う観点から見れば、音楽、絵画、スポーツほどのインパクトを精神に与えることも難しい。
学べたつもりでいる文学屋は何人も見たことがあるが、一様に狭量で知識にひどい偏りがある。
現実経験の足り無さを言葉を装飾することでごまかすタイプばかりで、重傷のアニメオタクとの違いはせいぜい女性経験の有無くらいだ。
空想が空想だとわかっているだけにアニメオタクの方がマシとも言える。
それと話しが分散するが
「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ
「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える
残念ながら、その全てが出来ていないのが現在の国語という科目だ
知は基礎となる「論理的思考力」とそれを他人に広げる「情報伝達」に支えられているが
「論理的思考力」は数学の領分で国語科に係わる人々はそれが病的なまでに欠けている。
その為に国語科で教えられる内容はその基礎を欠き、うわっつらの印象だけが空回りし、詭弁が跋扈し、授業は思考停止の場に成り下がっている。
一方、「情報伝達」に関してはまさに国語科が担うべき内容であると考えられるが、現実的にはほとんど教えられていない。
論説文を読んで理解するという所で止まっている。
だから国語の授業はもっぱら「他者に正確に情報伝達」を行う技術の習得に集中した方がよいのではないのかと思う。
これですら、多くの文学屋は他分野の専門家に大きく劣るのが現実ではある。
文学屋の論説文は論説文の体裁を為していない
論説の最中で情緒に流され余情な装飾が混じり、語彙力をひけらかしたいのか用語も統一されていない。
概要、前提、議論及び証拠、結論の順で書かないといけないのに
論説文まで起承「転」結で書かれていたりもする。
また、図表記号を用いればよいのにことばのみで表現しようと迂遠な表現になっている。
結果、曖昧で冗長な文章ができあがる。
その上で増田がことばが好きなのだから
(すでに習得済みかも知れないし、これらも文学に含めてみても良いかもしれない)
なんか色々同情するな。
SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。
文学は空想だろw
増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人”ブラッドベリや、”哲学者”フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。
…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。
今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく
「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。
「歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。
それに人を楽しませる文章は文学なのか?
時代小説、ラノベ、歴史書、SF、ファンタジー、推理小説は好きだが文学
少なくとも純文学とは言わないだろう
「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義は正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育の本質的な価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。
再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学の文学部文学科の適当な研究室に電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去の歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観を押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。
その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディアと情報・文化論・芸術論・経済・教育・日本論・近代主義・心理学・倫理学・宗教・歴史学・国民国家・テロ・文明の衝突・ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーなテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄・差別・風景論・都市論・スポーツ・時間論・労働・高齢化社会…etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校の教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説のテーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語(現代文)」の仕事なのだな。
それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語や文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌の編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学」フィールドだ。その意味での「文学」教育というのは、メディアリテラシーの教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要な資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。
まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシーは情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。
どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。