はてなキーワード: 民主制度とは
出来ることはあるのかもしれないけれど、
どれも今の戦争には間に合いそうもないことばかりだよね。
寄付をすることも
苦境に立っている人を勇気づけるかもしれない。
でも状況を変えることは出来ないよね。
だったら長期的になら?って考えたら何か出来ることがあるんじゃないかな。
まず忘れないことだよね。
そして何でこんなヘンテコな戦争が始まってしまったんだ?って考えること。
忘れないことっていうのは世の中には戦争を起こしたがる人間が必ずいる、ってことを忘れないこと。
ぼくたちはついつい忘れてしまうよね。
そして見たくない事実を見ることが出来ない。
戦争は多くの人にとって無用なものだけど、そうは考えない人が必ずいるってことを忘れてはいけない。
考えるっていうのは何でこの戦争は起こったんだ?って考えること。
なんでこの戦争が始まったんだ?ってことをシンプルに言ったら、
ロシアの民主制度が機能していないからってことに原因があるよね。
いまのロシアの指導者が政権の座について22年が経過している。
これって、おかしいよね?
まともな民主主義の国で22年も政権のトップで居続けるのなんてことありえない。
だから、こういったことを可能にするカラクリであるとか、そういったことを許してはいけない。
いま、許してはいけないと書いてしまったけど、でもロシアにそのことを許さない、という権利は僕たちにはないよね。
僕たちはロシア国民ではないからそのことをとやかく言うことは出来ない。
じゃあ、どの国にそのことを許してはいけないのか?
といえば、僕たちが住む日本の話になるよね。
僕たちの国が将来、他国を侵略するような国にしないことは将来の不幸を招かないことになるよね。
これが長期的になら出来ることがある、って言う意味だ。
僕たちは幸い今のところ民主主義が機能している社会に生きている。
でも、それは永遠不滅のことではなくて僕たちがきちんと国民の役割を果たさなければすぐにではなくてもいずれは崩壊してしまうことだ。
例えば住民投票で2度も否決された事実を無視して自分たちの党是を優先した政策を進めようとしている政党があれば、それは民主的ではないよね。
そのこと自体は小さな出来事だったとしても、それを許せば次の出来事、また次の出来事が発生していくからだ。
そういった連鎖反応がやがては怪物のような独裁者を生むことになる。
考える、ということはこういうことだと思う。
これはもちろん僕の考えであって他の人は違う考えを持つと思う。
そして、それは当然のことだ。
重要なのは、ひとりひとりが戦争が何故起きるのか?起こさないためにはどうするべきなのか考えること。
伝える、っていうことはいまはまだ子供であるとか生まれていないとかで事実を知らない人に伝えること。
つい一ヶ月前まで戦争が起こるなんて信じられなかった。
でも実際に起ってしまった。
伝えなくてはいけないのは、このことだよね。
何もしなければ戦争は必ず起こる、そのように人間社会は出来ているから戦争を起こさない努力をしなければいけない。
でも忘れてはいけないことだよね。
だから、僕たちは今日起こったことも80年前に起こったことも忘れてはならないこととして伝えていかなくてはいけない。
そういったことが僕たちに出来ることだし、そういったことが将来の戦争をなくすことに繋がるのだと思う。
ておくれになるまえに きょう できることを する。
自由(の享受)は特権化され、負け組にとっては自由は手に入れることすらできないものとなった。努力しても手に入らないのならば、自由の重要性や優先順位が下がるのは当然と言える。
そもそも手に入らないのだから「自由は二の次」となる。中国に自由はないと言われても、拒絶するハードルは低くなるだろう。
民主的な政府への不信、幻滅が、オルタナティブとしての中国を魅力的に見せる
3)中国の巨大さ
中国の統治の特徴は、自由を代償にした豊かさと治安の追及に収斂する。
政治権力を握るトップエリートは、現代の民主主義諸国の場合と異なり、民主的な選挙制度の下での国民の投票によって選出されていない。
(現在の有権者は、大統領であれ国会議員であれ、能力や徳を基準に選んでいるわけではないし、選ぶこともできない)
中国において政治エリートのトップになるためには、能力試験にパスし、数十年におよび行政実務を経験する必要がある。そこから先にも熾烈な競争がある。
選挙でなく、実力本位の選抜をパスした政治エリートによる支配こそが、中国の統治モデルである。
コロナの制圧に失敗した米国、数十年停滞してきた日本。従来の民主主義制度は不信感をもたれている。
エリートたちもそう思い始めている。
1)
資本主義市場経済は民主主義体制と良好な関係があり、資本主義市場経済が発展することで(中産階級の成長を通じて)民主化が進む…はずだった(非民主的ー軍事独裁―国家から民主化の進んだ例:韓国・台湾など)。しかし中国はどうだろう?
資本主義市場経済は発展しているが民主主義体制ではないではないか。その二つの間には因果関係はなかったのだ。金儲けのために民主主義体制を選ばなくてもいいわけだ。
新自由主義化した社会で厳しい競争に打ち勝ってきたエリートは、当然能力主義、成果主義に親和が高い。自分たちと同じように、政治家も能力・業績本位の競争によって選抜される方が望ましいと思うかもしれない。それは、今の民主制度と同じとは言えない ―結果として現在の中国的な制度の方に近い。
※ 憲法九条は事実上、何十年も停止されている状態なのに、本当に反しない範囲である必要があるのか?というのは今は論じない)、
もちろん憲法に反しない必要はある。「事実上何十年も停止されている状態」は君の解釈であって、共産党や公明党の国会議員と、その支持者に聞いたら違う意見を言うだろう。
ならば、憲法九条に反しない範囲でなら、政府の判断によって、制約の具体的一形態がべつの具体的一形態に変化するのは元々ありえたはずじゃない。
これはそう。政府は憲法の解釈において、ある程度の自由度を与えられていると考えるのが妥当。ただ、その「ある程度の自由度」は当然限界があり、その限界は世論とか今までの経緯とか学説とか現在の政府が直面する状況とかによって決まる。集団的自衛権は憲法で明示的に禁止されていないから行使可能だ、というのは君の解釈だが、学説の圧倒的な多数説は、昨年の集団的自衛権を認めた閣議決定は、政府に与えられた解釈権を乱用する違憲な解釈変更だ、というものだ。
私はそれがどこまで妥当か君と議論し、説得できるほど憲法学に詳しいわけではない。ただ、安保法案は、憲法学会をまとめて無視してまで強行すべき緊急性があったとは思えない。学会を無視し、世論を無視し、野党を無視し、メディアを無視し、憲法まで無視するようなら、現に政権を担っている政府を制御する制度はすべて無効になったということだ。結果として法案そのものが日本の「国益」に資する行為かどうかにかかわらず、長期的に見たら、今回の法案制定プロセス全体の、日本国の民主制度に対するダメージは大きいと考えている。
たぶん君と私では、政府の暴走に関する危機感が違う。日本は十分に大きな国だし、地理的環境も恵まれているから、他国政府の脅威より、自国政府の暴走のほうが、国民の福祉に関しては警戒すべき対象だと私は考えている。中国ができることはせいぜい沖縄を独立させ衛星国にすることぐらいだけど、日本政府そのものがおかしくなったら、国民全体が悲惨な事態になる。大日本帝国は、海外領土を一夜にして全て失い、本土すべてを焼け野原にし、沖縄では悲惨な地上戦を行い、多数の国民を餓死させ、多数の国民に自殺攻撃を強い、全土が他国の軍隊に占領されるまで戦争をやめず、天皇の死刑リスクおよび国土の分割リスク(ドイツ、韓国)にさらした。
現在も、日本会議だとか、自民の憲法草案とか、まず96条を変えたがることとか、メディアに対する規制が強まっていることとか、暴走の兆しはすでに見せている。大正デモクラシーの時代は、治安維持法とか想像できなかっただろうと思うよ。
衣服は専門家の技術がなければ作れなかったし、軍事は有能な専門家である騎士や侍が必要であったし、政治も専門家の技能がなければ動かせなかった。
これが民主制度として移行し得た理由としては、
機械化による大量生産で、熟練工1人よりも素人10人の方がよっぽど服を作れるようになったこと、
ライフル銃の誕生で、職業軍人1人よりも素人を徴兵して10人並べた方がよほどに成果を出したこと、
公教育の充実で、王や貴族が少数いるよりも平民が多数で議論した方が成果を出せるようになったこと、
これらが噛み合ったからこそ、少数の力を持つ人間よりも、普通の大多数の方がより有用となり、少数の専門家によって成り立っていた世界から、大多数の普通の人によって成り立つ世界になった。
徴兵された兵は役に立たず長い年月訓練を積んだ軍人が必要となっているし、
ただ働けるだけの人間は奴隷のように使われ、人より優れた熟練工や才能のある人間以外はまともな生活は出来ない、
ttp://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/01/post-2ed3.html
小沢氏が独裁者であるとは私は思わない。しかし、民主党員の誰一人として表立って小沢疑惑に異議を述べることができない現行の民主党政権の状況では、その道を辿りうる素地があるかに見える。民主制度とは、そもそも衆愚から独裁者を生み出しやすい制度であるがゆえに、絶対的な権力に何重もの歯止めを掛けるようにできている。それが機能しなければ、民主主義は守られない。
私は、小沢氏は民主党幹事長の職を辞すべきだったと思うし、鳩山首相はその配慮を見せるべきだったと思う。少なくとも、鳩山首相はたとえ一つの政党内であれ、各種争論が起こりうる、ハンナ・アーレントが複数性と呼ぶ多様さへの寛容を示すべきだったと思う。