俺は甲本ヒロトよりも正確に歌えるぜ!と自信を持って言える。
つか、マジでライブの時のブルーハーツは音程もテンポも素人でも分かるレベルでひどい。
でもそれが唯一無二の魅力。
それいったら、源流であるゲームハード間の対立煽りだってゲハ板が元だからね
親に捨てられた経験が今でも、いつまでも、物心が付いたときから、身についている。
知人の母親の温かい気持ちに接した時、私がどう感じるか、お前等に分かるのかよ。
一生、私はその気持ちにありつけない。
近寄ることができず、接することができない。
分からない。
その気持ちを背負って、私は一生生き続けなければならない。
口に出して気持ちを空中にぶつけても、ただ空中に吸い込まれるだけ。
親に捨てられた。
母に捨てられた。
分かってほしいなんて思わない。
ただ、何かを破壊したい。
今はそんな気持ちだ。
「2ちゃんねら界隈の異常な女叩き」が男によって行われるって考え方を、まず、やめよう
ゲームハードの時もそうで、ゲーマーコミュニティは大きな分断があった。
まとめに影響される人のことはアフィチルって呼ばれてたんだけど、
アフィカスさえいなければアフィチルになるようなバカともうまくやれてたわけだろ?
TOUGH 龍を継ぐ男
(ラーメンショップは別として)家系の元祖である吉村家から喧嘩を売るかのように独立して生まれたのが六角家だ
家系の元祖は確かに吉村家だが、昭和63年に生まれた六角家が家系のベンチマーク的存在だと私は考えている
その理由は、現在家系を自称するお店は吉村家よりは六角家の味に近いからだ
吉村家は醤油ダレをガツンと効かせるのに対して、六角家はスープ(出汁)を重視して家系ラーメンに変化をもたらした
その変化は、吉村家と比べると六角家の方が食べやすく、多少は万人受けするラーメンになった
万人受けといっても吉村家よりはマシと言う程度で、昔は獣汁と呼ばれるくらい臭いしクセがあった
六角家をもってしても、その頃の家系はまだまだ人を選ぶラーメンだった
壱六家はげんこつを使わずに豚頭を使うことでクリーミーな家系を発明した
壱六家以後、スープの獣臭さは年々弱くなり、ラーメン本から獣汁という言葉が消えていったのではないかと私は考えている
(横浜の都市化が進み、店で獣臭いスープを炊けなくなったこともあるだろうけど)
壱六家は吉村家や、そこから独立したお店で修行したわけでもない非直系
この壱六家を元祖とし、壱系と呼ばれるくらいに広がり、現在展開されている資本系とか呼ばれるのをたどると壱六家に行き着く店も多い
https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=2328
本当に壱六家発祥なのか怪しいと思っているけれど、昔は今ほど家系でライスを食べる文化は定着していなくて、直系でもライスを食べる人が増えてきた頃は違和感があった
直系以外は認めないという方も、壱六家発祥とされるライスの美味しい食べ方を実践しているのではないかと思う
なので、スープに浸した海苔でライスを巻いているラオタがいたら「それって壱六家発祥だから直系の食べ方じゃないよね」といじめてあげよう
ライスの食べ方だけじゃなく、直系ですら壱六家の影響を受けた食べやすい臭くない家系になっていて、現在直系にこだわるほどかなと私は考えている
ただ、資本系と呼ばれるお店には家系とは呼び難いものも多いから、資本系を家系と一緒にしたくないという気持ちも理解できる
二郎系はインスパイアと呼んでも、資本系の家系をインスパイアと呼びたくないラオタの微妙な感情があるのです
直系とか資本系とか知らねーよって方も直系と資本系をそれぞれ食べたら違いがわかると思うので、直系を探して食べてみて欲しい
食について一切語るなよな
なんでそんな闇を見に行くんだよ
洗面所は謎の茶色い皮脂なのか水垢なのかカビなのかがこびり付いている。
ガサガサのブラシで掃除しているのか、洗面所に細かいキズがついていて汚い。鏡も錆びている。
「ゴムパッキン部分にしつこいカビがいる」というレベルならまだ許せるが、普通に「面」がカビている。風呂のドアの取っ手とかキモ過ぎて触りたくない。
キッチンは立ち入らないのがマナーではあるが、排水溝に直接生ゴミを捨てるスタイルの義母。キモ過ぎる。
和室にベッドや棚や物干しを置いているので、
畳が傷んでいる。
畳はカビてはいないが、その和室の使い方が生理的に無理である。
玄関前や裏の庭は雑草だらけでムカデとかデケェ蜘蛛とかに占拠されている。
義父が刈った雑草は、そのままで土に還ると本気で信じて刈った場所にそのまま放置している。
グチャグチャの枯れ草の山になっている。
もちろん腐葉土の作り方はそんなものではないし、仮に土に還るとしても、元々は庭であったはずの場所でそんなことしているのが生理的に無理。
以下毒抜きのためのフォロー
スイーツとかお惣菜とか買ってくれるし、孫へのプレゼントも事あるごとにくれる。
以前普通に大金とかくれて助かった(嫁マターで必要になった出費ではあるが)。
いつもとても気を遣って良くしてくれる。
ただ、家は汚い。
AppleMusicのtop100に何曲も何ヶ月も入っていて
あー売れてるってこういうことかあ〜などと思ったり
単にnot for meだろと言われればそれまでだけど
みんながわかる良さを俺がわからないというのは
何か俺の感性が欠落してるんだろうなとは思う
最近よく聴いてる
カラオケの精密採点が広く流行ってから、歌を「技術」で評価するスタンスは世に広まったと思う。
たしかに、カラオケの精密採点ではリズムや音程に加え、しゃくりやビブラートも評価軸にあり、なかなか良くできた仕組みであることは間違いない。
これらを自分が趣味で歌う上の遊びのツールとして使うのは良いだろう。
しかし、この視点を持って音楽を聴くことは、あなたの音楽体験を著しく損なう。
歌に限らず、ギター・ベース・ドラム・バイオリンといったありとあらゆる楽器に共通する特徴だが、
楽器において技術力というのは「足切り」としてしか機能しない。
楽器がどれだけ上手くても、音楽の魅力に繋がる要素は限定的である。
これは大学受験で共通テストの点数ばかり良くても、二次試験で点が入らなければ大学に合格できないのと似ている。
音楽の魅力は何か。
これは語り出すとキリがない。ジャンルやリスナーによって大きく異なるが、
ざっくりいえば、何らかの感情の揺さぶりを生むことができるのが魅力だ。
平たく言えば「ノレる」「アガる」「泣ける」などといったものが音楽の魅力と言って良いだろう。
歌が「ノレる」状態を目指すには楽曲の理解、ひいては楽曲に合わせた歌い方をしていく必要がある。
「ビブラートがない方がよりノレる。」
すなわち、音楽において、楽曲に跨って共通する「技術」で解決できる問題は微小であり、
ミュージシャンが楽曲ごとに、一見して技術が低く聴こえるスタイルをとることは日常的にある。
にもかかわらず、リズムや音程といった普遍的な技術にこだわって聴く行為は、こうした表現の許容幅を自ら狭める行為であり、
百害あって一理なしだ。
表現としての音程ズレなどに対し、「今音程外したね〜w」などといったコメントをすれば、
△△△<教えてあげるよ! 鉄鍋のジャン♪
狼子供の弟の方?