はてなキーワード: 一神教とは
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
明治以降、西洋や米国のどういう部分を取り入れたかについては、
貴方の方が詳しそうです。
私は、欧米が最も良いと思ってあの文章を書いたつもりではありませんでした。
貴方が仰るように、むしろ欧米こそが全て良いという話は嫌いです。
日本的な教育の良さは何か、欧米的な教育の良さは何かを考えないでする議論は不毛だと思います。
ただ決定的に違うのは、宗教的な態度が全く違うことは確かだと思います。
欧米の個人主義は一神教的な価値観に支えられて強化されている側面が強いと思います。
実際の信仰は別にして、生活にまでしみ込んでいる宗教的な価値観が個人の自我の発達を
個人は強くあるべき、ということは文化や宗教的な前提として発達してきた部分がある。
自我を強く強く、個人を強く強く、すればするほど日本の土壌では支えるものや人が少ない
ことになるんじゃないかと思います。出る杭は打たれる、のが基本ですから。
それでは心がもたない人が増えるのは当然だと思います。
他国と比べることの意味は、それぞれの制度の成り立ち、意味や効果を基にして、それが現下の自国の制度にどのように取り入れることでどのような展望が開けるか、という、きわめて具体的な提案の中にしかないと思うんだけど、とりあえず「西洋と違うからダメ」という議論は感傷に過ぎないよね。
が、なかなかその行為の意味や深い部分まで考えて取捨選択するのは難しい気もします。
実際は取り入れてみてやってみて問題が出てきて初めてその意味がわかる、
ということが多い気がします。
http://anond.hatelabo.jp/20111013105042
あなたが言いたいこともわかる。
一神教多神教ってくくりは「特徴」の説明であって「理由」の説明にはなってないからね。
ただなぜ彼に関して「押し付けがましい」とか「他者に対して排斥的」な部分を批判する感想をもらったので
こういう軸で見るとわかりやすいよ、と一つのアイデアを提示したもの、程度に捉えていただければ幸い。
私が指摘できるのはここまで。
一神教的な行動に至る彼の内面についてはわかるはずがないし、説明も出来ません。
http://anond.hatelabo.jp/20111012183212
あなたの言いたいことはわかる。
随所にある押し付けがましさと、先覚者ぶった態度が気に入らないという人間は多いと思う。
しかも説明が説明になってないのに長々と語るからなおさら、ね。
しかし、それについて、私は割りと好意的に受け取った。
要するに、そんだけ彼の中ではマネジメントとか、すぐれた小説との出会いが衝撃が大きかったんだろう、
どうすれば伝わるか、なんて考える余裕が無いくらい、いっぱいいっぱいなんだろう。
たどたどしく自分の感動を語って、伝わらないことにヤキモキしてしまう。小説家としてはともかく人としてみたらものすごく可愛い。
彼は子供のように、純粋・・・とは言わないけどシンプルに物事を考てしまう人なんだと思う。
これを20代の若造が言ってたらふざけんな、になるけど40過ぎのオッサンが言ってるんだからむしろ頑張れって気分にならないか?
個人的にはすこし羨ましいとまで思ったよ。真似したいとは思わないけれど。
あえて言うと、この人の良くない点は
「自分が正しい」というにとどまらず「別に間違いでない他人の意見も間違いと言ってしまう」、この一点にある。
何かを語る時、何かを否定せずにはいられないっていう性癖みたいなものね。多様性を認められない。
何かすごいものを見つけたら、何でもそれを中心において、それと比較することでしか物事を測れない。
「百年の孤独」に感動したら、他の小説やマンガをすべて百年の孤独と比較して読まずにはおれない。
ドン・キホーテやハックルベリーの凄さを語ろうと思ったら、周りをこき下ろさずにはおれない。
自分の読みの正しさを主張するためには、名指しで人間を批判せずにはおれない。
あらゆる自己啓発の本に書かれているとおり、何でも比較せずには済まされないってのは敵を作りやすく不幸の原因になる最たるものなんだけれどな。
ただ、その精神のあり方も興味深いと思う。
自分こそが正しい、自分の周りの人間は間違っている、自分が教化してやらねばならない。
そういうあり方。
和を尊ぶと書いて出る杭は打つ、と呼ぶような日本において、
40過ぎになってもこういう考え方を維持できるってのがすごいと思う。
要するに、ソレほどまでに他人を嫌悪しているというか、プライドが高いわけでしょう?
どれほどまでに人生に鬱屈を抱えてきてるんだろうこの人は、と思う。
これほど全力で後ろ向きに生きている人も珍しいと思う。
こういう人は処女作なんかだと、装飾抜きで己の鬱屈を自分の分身に語らせてぶちまけるような本を書いて、
全然売れないけれど一部の人間にはカルト的人気ってのが定番なんだけれど
いきなり「女子高生」「マネジメント」など計算された本を世に送り出せるわけだから私の理解を超える。
小説家としてはいろいろ問題がある彼と、企画屋としては優秀なのかもしれない彼のちぐはぐなキメラ具合が本当に面白い。
なんにせよ、ホメオパシー教や反原発教、子供をまもれ教などの人たちを見ればわかるように、
彼のような一神教の人たちは、一度神を見つけてそれに身を捧げてしまった人ってのは、
常人じゃ考えられないほど精神が強固にしばられてしまってるし、そのことに幸せを感じるものであり、
それを否定されると攻撃的になるのは宗教の性質上仕方ない。
他人から見たら不幸な生き方に見えるとしても、一神教の人間にとっての幸せとはこういうもの。
一体、人間にとっての真の不幸とはなんなのでしょうか?
どれほど多くの友人がいても、どれほど親密な家族がいたとしても・・・
互いを縛ることなく、対等の建前のもとに、ただ、自我を垂れ流し合っているだけの関係だとしたら・・・
人の心はとどまることなく拡散し、やがて、自分自身の姿すら正常に認識できなくなってしまうでしょう。
あるいは、なにが「自分」なのかがわからなくなった状態こそが、真の不幸だとは思いませんか?
彼女の大地に穿たれたような心の強さは、彼女自身が、しっかりと自らの魂の形を認識しているからに他なりません。
それが可能だったのは、彼女が常に、「縛る者」と鎖によってつながり合っていたからです。
こういう思考が前提にある以上、彼が身分に対してもこだわりがあり、
自らを一つ上に置いて、私達のように「教養がない人間」を当然のように見下すのも彼にとっては自明のこと。
それを堂々と語るあたりは、現代離れ、日本人離れしているというか世間知らずだと思うけれども、それもまた面白い。
おっす、オラ就職王。辞職届は提出したので、再来月から起業王へジョブチェンジだ。
ちなみに、「まだ就職してない」という人は、http://anond.hatelabo.jp/20110107214632を読んでくれ。
以前この文章を投稿した直後は強烈な鬱に襲われて削除してしまったので、二度目の人は勘弁な!
ちなみに「辞職願」ではなく「辞職届」とするのがキーポイントだということは、君も社会人になればわかるさ!
いいかい、こないだ入社式だった全ての新人達。先輩とは上手くやれそうかい?まぁ、これから理不尽地獄の社畜生活が始まるわけだけど、俺の話を聞かないかい?この心得を守っておけばとりあえず、職場のゴミ扱いはされずに済むはずだ。
①二択だ、選べ。
いいかい、君も社会人になって三日目。先輩社員から、様々なありがたいお言葉を賜ったかもしれない。中には「素晴らしい言葉だった、俺も甘えを捨てて頑張ろう、立派な社会人になろう」なんて思ってしまった人もいるかもしれない。しかし、君がまずやるべきなのは、そういう気持ちを1ミリ残らず綺麗に捨て去ること、あるいはその言葉に完璧に一ミリの狂いもなく染まり切る、すなわち狂信者になることだ。このどちらかを選ぶかは趣味の問題だ、俺は前者を選んだが君は後者が向いているかもしれない。一応、念のため言っておくけれど、後者を選ぶことは決して間違いとは言えない。場合によってはこの先40年を戦う場所なのだから、立派な信者になり布教に努めるというのも一つの賢い選択だ。日本で就職した多くの人々にとって「金こそが絶対」という信条を選ぶことは難しいから、結局はこの二つから選ぶしかない。ちなみに、うっかり投資銀行や外コンなんかに就職した人々は、例外なので俺の文章は役にたたない。君たちは、資本主義一神教の教義を読んでくれ。大丈夫、どこのホテルに備え付けられた机にも「資本論」は置いてある。さぁ、どっちにするか決めたかい?じゃあ読み進めてくれ。
②コストとリターンの諸問題
馬鹿馬鹿しい、と思う。例えば、会社に一時間早く出勤すること。これは、本当に馬鹿げてる。くだらない、狂ってる、クソの群れだ。九時から五時までキッチリ働いて賃金をいただく、あるべき姿はこっちだ。しかし、コストを支払いリターンを最大化する、という面でこの行動は一概に間違いとは断定出来ない。そして、社会人にとって重要なのは払ったコストに見合ったリターンを得るということなのは、言うまでもないことだ。過程などどうでもいい、結果を出したものが勝ちだ。しかし、新人に与えられる業務の中で周囲を黙らせるほどの「結果」を出すのは、余程特殊な業種でない限り不可能だと思っていい。金融業界の法人営業マンですら、一年目は「結果」を数字で括られることはないだろう。では、ド新人である君に求められる「結果」とは何か。それは、周囲が「あいつは頑張ってるし好感の持てる奴だ」と思うこと、つまり就職活動の延長線上にあることだ。当面、君には責任のある仕事など与えられない、会社に貢献するチャンスなどゼロに等しい。その境遇の中で、君はなんとかして周囲の信頼を勝ち取り、愛される人間にならねばならない。さもなければ、実に悲惨なハンデを背負ったまま数年を戦い抜かなければならない羽目になるだろう。この文章に食いついたということは、君はコミュニケーション能力にそれほど自信がないことだろうと思うし、では職務遂行能力に自負があるかと言えばそんなこともないだろう。だが、安心していい。そういうのは、新人にとってさほど問題にならない。コストとリターン、この観念を忘れるな。逆に言えば、それ以外は忘れろ。
③15分のアドバンテージ
君は「8時30分に出社するように」と申しつけられた。当然、君は弱気で自分に自信もないから「8時15分には出ておこうかな」と思ったことだろうと思う。しかし、そこは敢えて8時に出社するのが今日のミソだ。いや、8時に出社し続けることこそがミソだと思っていい。何故なら、新人の職務遂行にはおよそ差は出ない。あるいは、差が出たとしても数年は評価に直截的に響くことはまずない。日本の大企業は、およそ10年かけて評価を固める。最も数字に詰められる証券マンやMRですら、五年は様子を見てもらえる。(ただし、この様子を見てもらえる、というのは「詰められない」という意味ではない。無論「詰め」られる)そこで仮に新人としての君の評価がクソミソであったとしても、俺が断言するが8時に出社している限り君の評価は「アウト」にはならない。日本人というのは、凡そにしてアホだ。それもたちの悪いアホだ。怠惰な俊才よりも勤勉なクソマヌケを高く評価する傾向がある。逆に言えば「勤勉なマヌケ」である限り、君は当分生きていられる。こういう部分を細かく守ることが、非常に重要だ。他にも、気遣いポイントは無数にある。例えば、君はドアを開けた。同じタイミングで先輩が向こうから出てきた、ドアノブを最初に回したのは君だった、しかしここで君は一歩下がって道を譲り、軽く会釈をする。これを、嫌味なく最適にやれている限り、君の立場は大丈夫だ。大きな声で挨拶をして、まるで先輩たちを心から敬愛しているかの如く振る舞い、機会のある限り尊敬の言葉を口に出せ。「やりすぎかな・・・」くらいで丁度いい。この十五分のアドバンテージが、君を守る。誰かと話す時、必ず誰かを褒めるセンテンスを織り交ぜることを徹底しろ。実にくだらないが、得られるものと比較すれば実に安いコストだ。
『世界を回しているのは何か?』と問われたら、色んな答えがあり得ると思う。しかし、社会人になって俺はこれに一つの答えを得た。世界を回しているものは、マニュアルだ。しかし、社会人になった君に一冊の完璧なマニュアルが与えられる、という状況は余程恵まれた職場でない限りまずあり得ない。君に与えられる情報は常に断片的で、状況はいつだって切迫している。複数のタスクを同時並行で回しながら、職場全体の状況にも気を配らなければならない。挙句の果てに、それは間違いだらけで全ての人間の言うことは矛盾している。だが安心して欲しい、それはデフォルトだ。例えば、君は「AをBしろ」と言われるかもしれない。しかし、君にはAをBすることの目的、あるいは工程A~Zの中で、AをBすることの役割がどのようなものなのか、それを知る機会はそう簡単には与えられない。君は完成像の見えないまま、どこのパーツかもわからないプラモデルと取っ組み合わなければいけない。さらにそれは、往々にして全体像さえ見えていればサルでも出来るような工程だったりする。しかし、君はやらなければいけない。メモの重要性について君は学ぶ必要がある。どんなにクソくだらない、と思ってもメモは取れ。しかし、世の中には「メモなんか取るな」と「なんでメモの一つもねーんだよ」を同じ口から発するゴミクズ野郎も大量にいる。ボウフラとどっちが多いかな?くらいの数がいる。しかし、君はクソボウフラ野郎からなんとか情報を吸出し、戦っていかなければいけない。コレに対する方法論は幾つかあるが、俺は「フレーズ凝縮式」を推薦する。例えば、この文章は一章ごとにその章を集約的に表象するワンフレーズで取りまとめてある。メモにもこの方式を採用するといい。人間の記憶というのは、基本的にイモヅル方式で形成されている。メモは、その一文を取るだけでいい。夜にそれを見返せば、君は絶対におよそのことを思い出せる。それを記憶が新鮮なうちにノートに取れ。一年も経てば、君はマニュアルが書ける人材に育っている。いいか、メモから吸い出した一冊のノート、それは宝だ。それが世界を回している。忘れるな。メモは詩の如く取れ。君の記憶を呼び覚ます、美しい一文を素早く書きとめろ。これに慣れればいずれメモも要らなくなる。
半年も経った頃、君には「もう限界です」くらいの作業量が与えられる筈だ。これは多くの職場でそういうことにしているフシがあって、そいつが食べきれるか食べきれないか、ギリッギリの量を口にねじこまれる。ブラック気味なところだと、「精神力で食えや!」方式になる可能性も否定出来ない。しかし、俺が断言するがそれは君なら絶対にこなせる量だ。人間はそういう状況になると、概して頭が回転しない。三つも作業が並行すれば、何がなんだかわからなくなる。ジャグリングしながらテトリスをしつつダンスダンスレボリューション、みたいな気分になるはずだ。しかし、君には便利な外部記憶媒体、すなわちノートというものがある。「やべー、いますぐ手をつけなきゃ絶対おわんねー」と思った時こそ、ノートに全てを書き出せ。作業のエンドが見えないまま手を動かすな。エライことになる。いいか、まず大事なことは「俺には出来る」という確信を、全くの無根拠であっても持ち続けることだ。そして、君は実際に出来るはずだ。これは実にシンプルな話で、設計図なしで機体は組み上がらない。しかし、大量のタスクに追い立てられるとこれが見えなくなる。ヤバイ時、君が真っ先にやることはエンドまでの工程図を組むことだ。焦るな、まずはこれをやれ。これが終われば、どんな仕事も五割は終わっている。それを忘れるな。いいか、君は絶対に無能なんかじゃない。信じろ、信じなければ予定なんか組めやしない。それでも出来なけりゃ、そんなタスクを振った上司がクソ無能なんだ。いいか、これを忘れるな。
⑥お局を殺せ
どの職場にも必ずいる悪性新生物、「OTUBONE」は骨の折れる相手だ。まるで癌のように転移し、害悪を放ち続ける。あんなに愛らしかった新人一般職も、十年経てば仲間入りだ。誰だ、新人にベヘリットを配布したのは。今すぐガッツ呼んでこい、義手大砲ブチこめ。なんにせよ、「この道20年」みたいなお局は男女職種全て問わず新人にとって最初の難関と見て間違いない。カンタダみたいなものだ。個人的に、一般職の定年は35歳にすべきだと俺は確信している。君の立ち居振る舞い、仕事のこなし方、日常生活や趣味、果ては性生活や好みの体位まで奴らは干渉してくる。顔面に正拳突きをブチ込みたくなったのは君だけじゃない。これで、僕の燃料棒もブチこみたいです!みたいなヤツらならまだヤル気もみなぎってくるというものだが、あいつらは原発も一瞬で1ケルビンまで冷却するタイプの生き物だ。今すぐ福島に送り込めばみんなハッピーになれる。民主党は何をしてるんだ、今すぐやれ。しかし、大体の場合現場仕事の詳細はこの厄介な生き物から盗み取るしかない。就職王に続いて新人王を目指して戦った俺だが、この生き物の攻略だけは些か苦労した。ここだけはイケメン補正がかかるからだ。日常面での攻略は、「15分のアドバンテージ」に準ずるが、「マニュアル作成」作業が更に重要になる。早い話、現場の仕事回しがクソお局より優秀になれば、君はお局をぶっ殺せる。とにかく、血を吐く思いをしてでもマニュアルを完成させろ。これだけは言っておく。クソお局が20年かけて学んだ内容は、君なら半年で絶対にやれる。ここまでいけば、お局の存在意義などゼロに等しい。そこまでは、耐えろ!大丈夫、君は独りじゃない。少なくとも、世界のほとんどの新人(除くクソイケメン)は君の味方だ!
⑦上司の足を掬え
マニュアルが完成すると、君には見えて来るはずだ。職場の全体像が。必然的に、君には「足払い」をかけられるポイントも見えてくる。散々足を払われて得た教訓がここで生かされる。つまり、あれをこうしたら上司コレミスやらかすんじゃね?みたいな部分が、君には見えているはずだ。未必の故意、という言葉がある。これは社会人生活に於いて「無罪」の同義語だ。この辺りから、君は逆襲に転じなければならない。つまり、これまでは多くの人間にへつらい、腰をヒン曲げ、頭を下げ倒して来た君だが、そろそろそこから得られる実り、リターンは小さいものになって来ている。君は手柄を立てなければいけない。しかし、所詮三年目くらいである君に「手柄」を立てるチャンスはほぼない。少なくとも、業務が正常に回っている限りは。ここは一つ、コケていただかねばならない。そして、コケたところに君ははせ参じる「こうなる可能性は見越していました!」。これは、実のことを言えば正攻法で手柄を立てるよりは、よっぽどイージーなことだと言っていい。予測された失敗には、対処が出来る。しかし、予測もしていなかった上司はパニックに陥る。もし、上司がパニックに陥らなかったとしても、君は別段何も失わない。ただし、責任の遡及が及ばないことは入念にチェックしてから行うのは当然のことが。自分の足を払って流血するなんて馬鹿馬鹿しいことをするくらいなら、何もしないほうがよっぽどマシだ。しかし、チャンスは見逃すな。やれる時は、殺れ。
⑧グチニケーション
同期というものが、多分君にもいるだろう。実際のところ、同期というのは競争相手であり君が会社に残る気であるならぶっ殺すべき相手なのだが、実際は「デキない同期」こそ大事にした方が得られるものは大きい。君の同期にも、必ず一人は「どーしようもない」と評される奴が出てくる筈だ。これは、人間関係の力学として必ずそうなる。しかし、君は常にそういう同期に優しく接し、かつ失敗談を綿密に聞き出すべきだ。「デキる同期」と仲良くするメリットは概して少ない。奴らは往々にして情報をこぼさないし、そもそもウザイ。奴らの「頑張ればいいんだよ!」論は、脳に悪い影響を与える。大脳新皮質がどんどん死んでいく。むしろ、「どーしようもない奴」から得られるネガティブな情報こそ、明日に生きる。彼のやらかした失敗は君もやらかし得る。ダメ同期から一つミス談を聞くたびに、君のリスクは一つずつ軽減される。そして、君と彼の友情は実に強固なものとなる。どんなダメな同期であっても、一応は毎日出社し、仕事はこなしている。噂に聞くほどの差は実はない。そこから得られる情報は、常に君を救い得る蜘蛛の糸だ。そして、君の存在はダメ同期を支え、助けるだろう。これほど素晴らしい情報源が他にあるだろうか?これは、職場の「ダメな先輩」にも言える。過度に職場で仲良くすることはデメリットが大きいが、それでも先輩は先輩だ。長いキャリアの分だけ多くの情報を持っている。それは、大事にしろ。デキる同期はコケるまで放置しとけ、無論デキ同期がコケた話を聞いた時は速攻で電話を鳴らすのは言うまでもない。
⑨体調
俺は社会人になって、人生最大の苦難にブチ当たったことをここに報告したい。俺は、ナルコレプシーだった。俺は学業もそれなりの成績で収めてきたし、自分が無能だと思ったことはそれほどない。しかし、思い返せば俺はあらゆる授業を眠り倒して生きてきた。なまじ、独学が得意だったせいで、この歳まで気づけなかった。俺は、自分が救いのないブサイクで初対面の女性にアメフラシを顔面に投げつけられたような嫌悪感を与える部類の生物だということは認めても、自分がそれほどのハンデを抱えていると認識したことはなかった。ちなみに、攻撃されても紫色の汁は出ない。入社直後、上司の談話を聞きながら俺は爆睡した。現在は、お薬を飲みながら問題なく業務を進めているが、「居眠りクソ野郎」の汚名を被ったまま進めた社会人生活は、正直言って辛かった。俺の職場はそんな人間に仕事を任せるように出来ていなかったので、必死に隠し通しながら検査入院の時間をヒリ出すのにも相当の苦労をした。これほど特異な例ではないにせよ、体調というのは凄まじく大事なものだ。睡眠時間が十分でなかったり、体調が悪かったりした場合職務遂行能力は7割減だと思って間違いない。新入社員は、何はともあれ六時間寝ろ。他の何を犠牲にしても、寝ろ。そして食え。エスタロンモカはポケットに入れておけ。体調に不安を感じたら、何を差し置いても病院に行け。ワイパックスを一錠を持っているだけで、人生は随分楽になる。ソリッド・スネークだって狙撃の時には使っていた。使えるものは全部使え。薬は、偉大だ。いいか、おまえはそれほど強くない。頼れるものには頼れ。ヤバい時こそ精神論に逃げるな。現実的に対処しろ。死ぬ前にデパスを飲め、それで9割は生き残れる。
⑩生きろ
正直に言えば、社畜ライフに辛いことは山ほどある。精神論に逃げるな、と言った口でおれはやはりこれを言わなければならない。おまえは、生きてるだけで素晴らしい。生きてるだけで、人間は合格だ。もし、どうしても耐えられない時が来たら、首を括るか仕事を辞めるかの二択を迫られた時は、迷わず辞めろ。やれることを全部やっても尚、どうしようもないシュチュエーションというのは起こりえる。地震が起きて津波がなにもかもを浚っていったり、飛行機がビルに突っ込んだりする世界なんだ。それは、仕方がない。そんな時、おまえが一番に考えることは「生き抜く」ということに他ならない。俺は再来月仕事を辞めて、新しい世界に挑んでいく。これは、とりもなおさず俺が組織人として適応不全であったことを示している。俺は、本当のことを言えば負けた。ここで勝ち抜いていくことに、どうしても意味や意義を見出せなかった、もっと正直に言えば同期の「とうだい」軍団にこの土俵で勝つ方法論を見出せなかった。そりゃあ、幾つかのハンデは喰らったにせよ、俺は同期の中で常に上位一割をキープした自負はある。しかし、結局のところを言えば、俺は負け組だった。「就職王」でも明白だったが、所詮俺はフェイクだった。ここには向いていなかった。でも、人生は続く。まだ生き抜かなきゃいけない。だから、こんな十カ条を完璧にこなす必要なんかハナっからないんだ。とにかく、君は生きていけ。社会生活は理不尽の繰り返しだ、また自分自身がその理不尽を他人に振るわなければならないことも多々ある。そんな中で、君は生きていかなきゃならない。いいか、君は生きるべきだ。一切の留保や付帯条件なしに、君は生きていかなきゃならない。それだけは忘れないでくれ。
どーでもいい話だが、ブコメ数に気を良くした俺は文章仕事が欲しいなぁ、とか思い始めた。
お米券とかビール券とかでも書くので、商業誌から学生の同人雑誌までそういう界隈の人、なんか仕事ください。
基本、筆は早いです。実力はともかくとして、コレ書くのに大体20分です。穴埋めが必要なら、是非。
syusyoku0@gmail.com
うん、冷静に考えて7000字を20分は無いね!秒速3.5文字は流石にムリだね。
泥酔状態の感覚で20分ってことで。素面ならもっと良いものが書けるかと言えばそうでもないから困る。
というわけで、やっぱり仕事ください。
石原慎太郎都知事は3月14日、「日本人のアイデンティティは我欲。日本は津波を利用して一度我欲を洗い落とすべき。震災は天罰」と発言。
翌日には謝罪・撤回したが、30日に行われた支持者向けの集会で再び「今回の震災は天からの警告」と発言。(ソースはここ)
どうしても石原氏は「日本がおかしくなったことに対する、天からのメッセージ」であるということにしたいらしい。
それがいかに思い上がった発言であるかという理由を以下で順を追って説明する。
1.そもそも天と人とはどういう関係にあるか。
そもそも天は人に対して天命を下して政治を行わせ、もし天命を受けた者が正しい政治を行わなかったら天変地異を起こして『正しい政治が行われていない。対策をしないと天命を去らせるぞ』と警告する。
2.では天命を受けた者は誰か
古い言葉に「天に二日なく、地に二王なし」という。天命を受けることが出来るのは中国の指導者ただ一人である。
天命は人から人に譲り渡すことが出来る。かつて堯舜の時代は、禅譲により前任者が後任を選んでいた。堯や舜の息子には徳がなかったが、舜から禅譲を受けた禹の息子である啓には天命を受け、王となる徳があった。
だが禹は「ここで息子に禅譲したら、万民の天下ではなく夏の一族の天下となる」として拒んでいたが、結局のところ万民は皆、啓を王として認めたので啓が王となり、以降王は親から子へと受け継がれるのが慣例となった。
ここで重要なことは、天命をどう受け継ぐかは人が決めることである。現在の中国では指導者をなにやら複雑なやり方で選んでいるようだが、それに皆が従っている以上、天はそれに介入できない。
従って、現在天命を受けているのは中国の胡錦濤国家主席に他ならない。他には存在しない。
天は(アブラハムの一神教の神とは異なり)言葉を発しない。その代わり最初に書いたとおり、天は災害を起こすことにより「天命を受けた者」に対して警告する。当然、そのやり方は天命を受けた者が警告だと受け取るやり方で行われる。
そして、天が天変地異を起こして警告する相手は「天命を受けた者」に対してのみである。天命を授かっていない、正当でない政権に対して天変地異で警告を発することはない。
4.石原発言の何が問題か
石原慎太郎は今回の震災について天からの警告であるとしている。つまり石原氏は日本人が天命を受けていると考えている。すなわち『中国に国家的正当性はなく、中華地域を治めることの正当性は日本にある』と考えていると言うことだ。
これは大変な思い上がりである。中国を治めることの天命は中国共産党が受けており、日本の天皇が受けているわけではない。石原慎太郎の中国への野心を感じる侵略的発言について、我々は断固として抗議する。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
人が作ったものではあるけど、人によってデザインされたものじゃない。いわば自然現象。
もちろん、世界各地に中央銀行があるようにある程度人によってコントロールの試みがなされてるけど、
それは海に防波堤を作ったり川に護岸を作ったりする程度のものに過ぎない。
だから、資本主義の失敗っていうのは「資本主義経済コントロールの失敗」であって、
別に洪水は川が失敗したわけじゃないし、津波は海が失敗したわけじゃない。資本主義は失敗しようがないよ。
資本「主義」って言い方がこういう誤解を生む元だよなぁ。
こちらこそ、ありがとう。
無神論だった人間が宗教に傾倒していく課程の生の声って、すごく興味深い。
(大概もう倒れ臥しちゃった後の、いい事尽くめマンセー!って声しか出ないから)
どこの世界に属していても「同じ程度の悪」からは逃れられないし、逃れられていると思っていてもそれは気のせいで目をつむっているだけだと思うようになった。テロ行為そのものは何を信じていようがあるだろうし多分、水で水死する人がいるから水が悪いんだと言うようなものなのかなあ、と思うようになってきた。
個人的には現在の日本が諸外国よりもそうした宗教がらみの悪業から逃れているのって
無神論者が多いからだと思っているので、
目をつぶっているだけで同じ程度の悪が存在している、という考えは面白かった。
具体的に何を持ってそう考えてるんだろう。
「一神教という思想があるから人が死ぬんだ、一神教が悪い」というのが
「水で水死する人がいるから水が悪いんだ」に変化したのって、
宗教が(扱いによっては凶器だが)必要不可欠だという認識が生まれたからだよな。
けどその場合の死というのは自らの行為で水死という結果がでただけなんだから
水死しても自業自得だよ、という事でもあるよな。
そこまでの覚悟が生まれたのはすごいと思う。
「だから同じ水でも、水死するような水には近づかない」にはならず
むしろその水に突っ込んでいこうとしてるんだもんな。
それって自殺願望…じゃないよな?
(水死することもあれば、させる事もあるんだから、自殺とは限らないけど)
悲劇をもたらす思想は追い詰められた人や自然現象が厳しい世界の人たちに根ざしている気がする。目の前のつらいことから救いを求める際には厳しい内容が含まれざるを得ないのではないかと。そういうものにすがりたい気持ちなんだ
「悲劇をもたらす思想」の構造については全く持って同感なんだけど、
そこから「そういうものにすがりたい」ってどう繋がってるのかな。
例えば、貧困や、弾圧。家族が殺される、ってのが「追い詰められた厳しい世界」で
「厳しい内容が含まれざるを得ない」ってのは、相手の思想の攻撃的な否定や報復の事だよな。
それらにすがりたいというのは…何を求めているんだろ?
仏教でも神教でもホメオパシーでもいいんだと思うよ。ただ、区切りとしてきっぱりとしたものを求めたいと思うと洗礼だとかの形がはっきりしているものがいいと思ってる
イニシエーションはいわば信者の釣りと確保だから、これは納得できる。
会員様だけ10%割引でお得ですよ!って会員証みたいなモンだからな。
確かに期待していた答えとは違ったよ。
っていうのも、厨二病を引き合いに出した割に元増田がカトリックになりたい根拠も
同じく厨二的な
「なんか知らないけど(知らないから)響きがカッコイイ/効果がある気がする」
でしかないって事だよね?
考えてない、って言われそうだけどもうちょっと絞って聞いてみる。
(そんな事どうでもいい。”カトリック”になりたいだけだから、なら無視してくれ)
一神教じゃない宗教でテロ行為があったとしても、それは”同じ程度の悪”とはならないのか?
”同じ程度の悪”であるのにもかかわらず、何故かつて嫌悪感を抱くほどの知識がある宗教を信奉する気になったのか
一神教ゆえに引き起こす「悪」の部分はどうやって無視できるようになったのか(=一神教でなければ起こす可能性もない)
そうした悲劇をもたらす思想だと分かっていても、尚信奉を始めようとするのは何故か
(一神教自体は別に信じていないからどうでもいい/悪い行為を行うのは個々の問題であって、その理由たる教義は無関係(一神教という思想から来た争いという事自体を否定))
アンチ一神教的なものは単純に十字軍やイスラム教がらみのテロリズムから来ていたと思う。じゃあ一神教じゃないところの人たちが恐ろしいことをしなかったのかというとそうでもないことに徐々に気がついた。包丁だって使い方ひとつで梨の皮をむいたり人の皮をむいたりなんだろうってことに大人になると気づかざるを得ないよね。その程度の浅い人間なんだけれどもさ。
まだ何派というところまで考えてはいないけれど、カトリック系がいいかなと思っている。
ぼんやりしすぎていて返事としては期待外れだろうで申し訳ない。
今はふとした瞬間に祈る相手がいるとそれが少しでも具体的なものだろうならどんなにか気持ちが楽になれるだろうか、それだけ。
んなこたーない。それは近代西洋基準での狭義の「アカデミズム」にすぎず、それは西洋だってニュートン以後徐々に形作られてきたものにすぎんよ。
東大の起源?昌平坂学問所からは普通に研究機関になってるけど?
日本で長い伝統のある大学がない(高野山大とか龍谷大とかは遡ろうと思えば平安時代や鎌倉時代まで遡れるし、仏教研究に関して言えば非常に高水準だが)のは、単に支配階級や支配イデオロギーがくるくる変わっていたからに過ぎない。不動の一神教があったヨーロッパ(やアラブ)と違うのはそこ。藤原氏の大学や金沢文庫や足利学校が長続きしなかったのは権力闘争の結果だし、それであってさえ延暦寺は信長・秀吉・家康が世俗化を推し進めるまでは学問の一大拠点だったし、そして家康の湯島聖堂→昌平坂学問所の流れは蕃書調書などを経て東大まで繋がっている。
まぁ、結構根が深いだけでなく、ややこしい問題ではあるんだよね。
それこそ原始母権社会から、セム的一神教圏で流行った父権社会への流れ、その後に発達した個人主義社会への流れ、みたいなのも全部ひっくるめて議論すべき事だろうし。
現在において、急にオタク系若者のネットワークの間で、個人主義社会以前の発想である、処女信仰(と言うより、非処女叩き)が復活し、しかもそれがどうも従来のものと、一部似ていながら、一部異なる、ってのは、考察対象としては、面白いものだと思う。
コレに関しては、もうちょっと詰めて考えてから、エントリーし直したいところだけど。
確かなのは、彼らは何かを猛烈に恐れていて、そのために処女性に価値を置かない現代の標準的価値観を、必死に攻撃せざるを得なくなっていると言うこと。
仮にそれが幻想の「お母さん」崇拝と、それを生み出す「男根」崇拝だったとしても、何故それが今になって、非モテのオタクの間で急に流行したのか。
このエントリとこのまとめブログに触発されてダラダラ書いてみる。
既に至る所で言われている事だが、日本人は自国を言葉で説明できない。
例えば「帰属している宗教は何だ?」と言われて何も考えずに「無宗教です」と答えて外国の人々から怪訝な表情をされる例は枚挙に暇がありません。
宗教はその人間の思考形式や価値観や、その人間が母国としている国の文化を基礎づけています。
キリスト教徒だから、こういう行動をする傾向があり、こういう話題をタブー視するんだな、と宗教を通じて外国人は異文化に属する人々とコミュニケーションを取ります。
無宗教と言われたら、その人間の何を信用していいのかわかりません。不審な動きをしたらすぐに射殺しないといけないかもしれない。
神道と仏教が日本文化に多分に影響している主要宗教ですが、日本に属さない人々と接した事が少ないせいか、
日本人は自らが何故このように考えて、このように行動することを望ましく思うのかを意識することがありません。
なぜ食事を終えたらご馳走様と言うのか。なぜ年長者を敬うのか。なぜ議論を嫌がるのか。
なぜお盆というものがあるのか。なぜ死者の死体を墓地から掘り起こして晒し者にしてはいけないのか。
外国人は勿論わからない。日本人が暗黙の了解としている事項が全くわからない人間にどうやって説明しますか?
このように日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えによってコミュニケーションを省力化しています。
だから、まったく異なる価値観を持った環境にいた人間が理解できず、コミュニケーションを取ることも覚束ない。
外交戦略を描けないのは諸外国の価値観と自国の価値観の間にあるズレを理解できないために、相手の意図と思考が理解出来ないため。
このような日本になってしまったのは、個人的には歴史的にやむを得ないと考えていて
日本はシルクロードの東端に位置する地理条件から、西(欧州中東中国インド朝鮮等)の文化が頼まなくても勝手に日本に流入する環境下に置かれ、
かつ文化を伝播させる先が存在せず他者に文化を伝える必要がなかったため、
マニアックに文化を掘り下げる事は出来ても文化を他者に言葉で説明する技能が身につかなかったからと私は考えています。
神仏が習合した多神教の宗教意識によってあらゆる一神教文化と衝突せず、
平仮名片仮名漢字という複数の文字体系を持った日本語の持つ異文化摂取能力の突出した高さに助けられて
神道と仏教に限らずゾロアスター教や他宗教の影響も日本文化に残りました。例えるならあらゆる具材を投入して長時間煮込んだシチューのようになっています。
具材が原型を留めないほどに煮込まれているため、日本人自身が過去にどんな具材を投入してシチューを作ったのか説明できません。
異文化コミュニケーションとは、どんな具材を入れて日本文化というシチューが出来ているのかを説明することです。
世界で最も複雑で面倒な作業になりそうですが、それが出来ないうちは今後も外国人とのコミュニケーションに齟齬を生じ続け、
このコミュニケーション不全は国家間のコミュニケーションに限らない。日本社会内でも暗い影を落としています。
例えば、学校を出て新卒就職しなかった人間を企業内部にいる人は理解できません。
個人的な経験を語るなら、増田は「28歳ならこれくらいの仕事が出来ないといけないのに」と言われた事があります。
当時、就職が無かったので大学卒業後に資格試験受験生になった増田は、法科大学院への制度変更を機に資格試験を断念して
27歳なのに実務未経験という状態で就職活動を始めました。なぜこのような人間が存在するのか、と複数の企業の人事担当者から好奇の目で見られたのを覚えています。
冷静に考えればそんな人間はどこにでも居て、発生し得るのですが、日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えがあるので、
20代後半で仕事に関する細かいことを説明しないと理解してもらえない人間は企業に居てほしくないのです。
また、結婚をしないで仕事に生きる女性を日本社会は理解できません(これは既卒に対する扱いよりマシになりましたが)。
デリカシーの無い人は女性に向かって「彼氏はいるのか」「この年齢で独身なんて将来どうするつもりなのか」と言います。
家事ができない女性は未だに望ましくない存在として見られます。喫煙する女性も同様です。
ここでも日本社会は言葉で説明しなくても理解して貰えるという甘えがあるので、不遇な扱いを受けた女性がクレームをつけても言葉で説明することができません。
なぜ老人は若者を理解出来ないのか、なぜ日本企業は株式公開しているくせに外国の機関投資家が株を買うのを嫌がるのか、などまだまだ例はありますが、
日本社会が価値観を異にする他者を存在しないものとして扱う事で成立している事がわかります。異文化コミュニケーションなど不可能と言わざるを得ません。
外国から相手にされる国になりたければ、現在の国内問題(雇用問題、世代間格差、出生率低下など)に対処したければ、
自らを知って語れる存在になるべきです。そうすれば自らの問題を直視できるし、他者の思考が理解できるようになるでしょう。
「空気を読め」は、その言葉を発した人間・その言葉を重用する組織のコミュニケーション能力が低レベルである事を証明する言葉であると考える事から始めるべきです。
最初に一神教の神を発明したのは、BC1300年頃のモーゼたん、もしくはその何代か前あたりのユダヤ民族の司祭の誰かさん。
キリスト教もイスラム教も信じてる神様はユダヤ教と一緒。キリストを神の預言者として認めた人たちが立てたのがキリスト教。キリストに加えてムハマンドも認めてるのがイスラム教。実は「唯一神」というのは史上ただ一度しか発明されてない、かなり変わった発想。
有名な神はイエスキリストが作り出した、全ての責任を転嫁させる抽象概念のこと。
科学などが発展していない時代に、この世の因果関係や現象を説明するのに全て神様が○○したと話したことから生まれたのだと思う。
あるいは、盗んではいけないといった共同生活するうえでの規律などを守らせるための、共通認識としての役割のために生まれた文化的な装置なのだと思う。それゆえに、神は絶対ですべてのルールでありうる。だから、神に祈れば絶対の神が助けてくれるし、悲しみも癒してくれる。一神教では、多かれ少なかれこういった類。
日本の神道や原始宗教だと多神教だけど、基本は一緒。太陽が街を照らすのは太陽の神様のおかげ。
雨が降るのは雨の神様というような・・・。とまぁ、それっぽいことを書いてみた。