はてなキーワード: 試聴とは
母親がアンテナ工事を業者に見積もってもらったら8万したというので、私にパス来た。
という訳でアンテナを自力設置してみた。首都圏在住、総計予算二万程度で地デジカとBS化完了。
以下参考までにメモ。
かなりアバウトなので、自力でも出来るんだな~程度で。
電波の中継地と、中継地がカバーする範囲を調べるには以下のサイトでチェック。
おおよそ関東首都圏だと、区内が強電界、~60km以内が中電界、60km~弱電界と言われる模様。
字の通り、簡単に言えば遠くなるほど映りづらくなるという事。
区内だから大丈夫!とっても遠いから無理・・・と決め付ける前に、本当に視聴できるか確認する方法が有。
電磁波測定器を使うとそれを買うだけで万を超えるので、
簡単タダで調べるには、総務省の無料アンテナ貸し出しキットを借りればおk
アンテナ4種類の内1種類を選んでファックス送信か申込書を送るかして申し込み、
1週間無料レンタル(B-casカード及びチューナー、配線コード送られてくるのでテレビだけあればおk)
ただし無料で借りられる代わりに、添付の地デジアンケートに必ず答える必要有。
アンケート内容は「アンテナを室内・野外どこ設置して映ったか」「地デジアンテナを買いたいと思うか」という10項目程度で
同ホームページの【地デジ専用アンテナ受信マップ】http://digisuppo.jp/index.php/antmap/のマッピングに反映されます。
アンテナをテレビと接続し、アンテナを一階二階ベランダ等に設置テストしてテレビが映ればおK
その際必ず受信強度の数値をメモっておく事!
周りは一戸建ての居住区で、電波障害になるような建物(工場、ビルは無し)
中電界と思っていたのに強電界用の貸し出しキットでどこの局も受信強度85(100中)を出し
出来なかった方は総務省に相談、もしくは月額払ってケーブルテレビで地デジを見る手有。これはアンテナいりません。
以下視聴出来たことを前提で次へ。
どういった形にしろ映った方は、強電界・中電界・弱電界の内、自宅の該当エリア用のアンテナを電気屋orホームセンター等で買うことに。
60以上安定して出ていれば強電界用、60前後でノイズがたまに走るなら中電界用、それ以下ならば強電界用をチョイス。
簡単に言うと、一般的にイメージする細い線を沢山くっつけたようなアンテナ、
最近増えてきた所謂長方形平面状のアンテナ、最後は総務省無料貸し出しで届くような小さい形状のアンテナです。
テレビは地デジ対応である事を前提で。そうでない人はチューナーを別途購入するなり対応テレビ買うなりで。
アンテナからテレビまでどうやって繋ぐか図にすると分かりやすい。
以下簡易例数パターン。
※ブースターをかませる必要も有
中強電界ならば、一々屋根に登って串みたいな形の八木アンテナをポールに立ててワイヤーで固定して・・・という方法よりも
アンテナ本体としては串型のアンテナの方がベランダ設置型より1000円ほど安いが、設置金具等トータルや屋根に登るリスク考えたら前者をワシは選んだ。
アンテナ本体及びアンテナ取付金具は近くの電気屋・ホームセンターという手も有だが、実はヤフオクで買う方が送料入れても安い。これ豆な。
取付金具なんて市販を3、4千円するのにヤフオクだったら100円~でいくつも出てるってばよ。
とはいえ市販価格の目安としてアンテナが3000円~、設置金具が2000円~、後はケーブル線買って繋げればおK
複数のテレビに付ける場合はアンテナとテレビの間に分配器200円~をいれればおK
ケーブル線入れて総計1万前後でいける筈
最後に全部繋げて適当に東京タワーの方角へアンテナ向けるとテレビが映るので、受信強度強い方向に固定してオワタ\(^o^)/
BSを入れると通常は以下のように混合器(4000円~)が必要
更に配線が多い為ブースター(4000円~)も必要
二つも買うとタケーよと思ったので、混合器とブースター両方内蔵のUDA-200Aを5000円弱でアマゾンぽちる。
地デジアンテナ取付金具はヤフオクで200円前後、BSアンテナ&BSアンテナ取付金具はセットで5000円弱を。
分配器は3台全てのテレビでBSを見れるようにする為、屋外用全端子通電型(4000円相当)をチョイス。
分波器は900円前後で購入。計2万5千円未満。
ホッテントリ読んでいたら、昔2chに投稿した駄文のことを思い出した。ググってサルベージしたので、ちょっと修正してここに書く。ちなみに、内容についてあまり突っ込むな。いろいろな意味で。
昔オーディオの新しい波に乗り切れなかったシュレーディンガーは、 コペンハーゲンのオーディオマニアに向けてこういうことを言った。
完全防音の部屋の中にオーディオセットがある。外から鍵をかけて密室にした後、目覚まし時計によってオーディオセットが演奏をはじめる。このとき、コペンハーゲン派の立場だとつぎのようになるぞ。
すなわち:
これは明らかにおかしい。
オーディオシステムの音のよさは試聴とは無関係にあらかじめ決まっているはずだだから、コペンハーゲン派のオーディオ解釈は誤っている
しかし、ニールス・ボーアは直感に反してオーディオシステムの音は聞いてみるまでわからないだけでなく、聞いてみるまで性能すら定まらないのだとあらためて主張した(聞くまで無調整と言う意味ではない)。
これが有名なシュレーディンガーのオーディオシステムというパラドックスだ。
昔、音のよさには絶対的な基準があるという説がもっぱら主流だった。だが、こうすると音のよさが見かけの上で無限大になる場合があるという計算結果がでてパニックになった。困ったことに、絶対基準があると仮定して行ったブラインドテストがこれを否定した(マイケルソン=モーレーの実験)
その後、1905年にアインシュタインが音のよさには相対的な基準しかなく、かつ上限が決まっていると仮定した理論展開を行う論文を書いた。これが特殊相対性理論だ。この衝撃的な論文のあと、加速する車の中のカーオーディオについても適用できる音響理論をうちたてたのが有名な一般相対性理論だ。相対性理論からは、「一生懸命作ったオーディオなのに友達のシステムの方がよく聞こえる」ことが理論的に導き出される。これは日本古来の経験則、「隣の芝生は青い」ともよく一致する。
数学者だったクルト・ゲーデルはオーディオマニアだったことでも有名だ。
彼はよい音を求めていつもパーツ屋に通っては怪しい部品だのケーブルだのを買い求めていた。友人はそれを揶揄して笑ったが、完璧主義者だったゲーデルは自分が買った高級オーディオケーブルが実はやくたいもない屑ケーブルであることを認めず、必死で言い訳を織り上げた。しかし、優れた数学者だった彼は自分の言い訳にほつれがあることに気づいた。次の二つを両立する言い訳が成り立たないのだ。
すなわち:「完全かつ無矛盾な小売系は存在しない」これは真に偉大な発見で彼の名声を高めた。しかし、後に音の滑らかさを追い求める連続体仮説に思いをめぐらすうちに、カントールと同じく狂気の闇へと落ちていくことになる。
日本経済が絶頂期にあった80年代初頭、一部のオーディオメーカーは将来市場が頭打ちになりかねないことを予見して体系的な市場アプローチ、すなわちマーケティングを導入し、市場の行方を占うことにした。
このとき問題になったのはオーディオマニア層だ。口うるさいくせに雑誌で発言力のあるマニアは市場としては小さいが無視できない。そこで、マニアがどのような振る舞いを行うか、その統計的な側面が研究された。
もっとも有名なのは「二人以上のマニアが同じ意見を持つことはない」という仮定に基づいて行われた研究だ。これは人の話は聞かないくせに、同意もしないというマニアの実に嫌らしい振る舞いを見事に反映したモデルだった。
このモデルに基づく市場動向の予測は、研究者の名前を取って、フェルミ・ディラック統計と呼ばれる。この統計は各社が採用して市場予測に使い、大きな成果をあげた。
なお、マニアも興奮してくると見かけの意見らしきものをつなぐことができなくなり、オーディオ好きの高校生と同じになる。この場合は古典的な統計が適用可能になる。すなわち、マニアも興奮すると大衆程度の振る舞いになり、ガウス分布に従うようになる。そのため、オーディオフェアなど興奮しがちな場所では古典統計が使われる。
同じころ、排他的でないマニアを冷静にすると、全員がひとつの意見をもつようになるというボーズ・アインシュタイン統計も発表された(アインシュタインは先の相対性音響論を発表したのと同一人物)。しかし、企業の企画担当者が「排他的でなく冷静な」マニアを想像できなかったことからこの統計は採用されず、一部研究者がその実現性を予想しただけだった。
転機は90年代半ばに訪れた。自分の意見より人の顔色を尊重する日本人に対して行われた一連の実験から、ボース・アインシュタイン統計が適用可能な場合が示された。一群のオーディオマニアを集め、彼らを数日にわたって否定することで体力と自意識を削り取ることにより、極度の低興奮状態に置く。この状態では部屋の中のすべてのオーディオマニアが尊師の言うとおり提示された オーディオセットはすばらしいと一様に誉めた。この歴史的な成功以来、同様の実験が都内各所の道場で行われたが、その後この実験は危険であるとして禁止されている。
やたらテンションの低いオーディオマニアが全員同じ意見を述べるようなキモイ状態は、ボース・アインシュタイン凝縮と呼ばれている。
以前は7階、まず入ってすぐの所には新譜を展開してる棚がレジカウンターに平行する形であり、その奥にレジカウンターに垂直の方向に特集コーナーの棚があったのだが、その特集コーナーが無くなっていた。一時的なものだろうか。
特集コーナーというのは棚ごとにいろんなジャンルの特集になっていて、例を挙げると、前回行った時はそのコーナーの一つがミニマル特集みたいになっていて、ベーシック・チャンネル、テリー・ライリー、シルバー・ アップルズなどが置いてあった。
私は音楽情報に疎くそのコーナーでいろいろ試聴をして未知の音楽に出会っていて、昨年はその特集コーナーでジャケットにひかれBillie Davisの素晴らしいアルバムに出会ったりした。
8階の洋楽フロアはまだジャンルごとに古いアルバムなんかも含めた試聴コーナーがあるのでそんなに絶望的というわけでもないのだが……
高校時代の先輩がバンドを組んでいて、今度そのライブに行くことになった。しかし、ライブに行く服がない。
と言うか、何を着ていけばいいのかわからない。
先輩はなにやらNUMBER GIRLとかそのへんが好きだった(俺も好きだ)し、曲もネットで試聴した感じではそれ系だったが、俺はCDやらなんやらは持っていてもライブには行ったことがない。
ヤンキー系っぽく黒タンクトップにシャツでも着てシルバーアクセでもぶら下げときゃいいのか?
ヒップホップにだぼだぼトレーナーでサングラスでもかければいいのか?
それとも普段通りにに目立たないシャツ(あだ名は「お父さん」)でいいのか?
だれか知恵を貸してくれ。ライブハウスに行くならどんな格好をすればいい?
一時的に世の中全体が熱中して、後から振り返るとバカに見える現象がある。
今の時代の集団催眠の中で最大のモノだろう。
あれは男女の営みでなく映像向けにショーアップされた裸のダンスだ。
同じく映像向けに工夫されたものは多い。
バラエティ番組の司会者であるさんまやしんすけのマネを飲み会で友人相手にするとくどい。
テレビの向こうから場を全体として見る視聴者の距離感で面白く見えるよう調節された会話だ。
トークも二人の個人的な疎通でなく、試聴者に説明するような話の進め方。
舞台役者の化粧は普段より濃い。遠くからでも表情が目立つように。
テレビのトークや討論番組、歌番組で複数カメラを切り替えるのもそう。
。これらは2-3分同じ状況が続く。映像メディアで淡々とした動きは退屈に写る。刺激がないと人はチャンネルを変える。
効果音を出し複数カメラを次々切り替えてメリハリをつけ注意を引く。
総合格闘技がレスリングや柔道に近く地味に見えるように、人間同士の戦いは純粋に勝ちを狙うとテレビ写りは地味でつまらない。
大げさに倒れたりコーナーから飛んだり派手にしてテレビ移りを工夫し実況は叫び、受けたものを残して今のプロレスになっただろう。
エロビデオも見せる工夫だ。サーカスのように絡まって上に下になるのは、映像として単純にあきさせない工夫。
男も女もエロビデオのマネをされるとうっとおしい。経験あるでしょう。
しかし他人と話具体的に話すことでもないから、みんなエロビデオを唯一の手本にする。
あれはおそらくストリップのショーや吉原、ソープの玄人がやったサービスをエロビデオは(おそらく)取り入れただろう。
今は素人がそのままマネしている。
そもそもセックスは「気持ちいい」という言葉で表す動きではないとさえ思う。
排泄に近い。
別に死んでても生きてても関係ないんだけど。友人でもないし。聞きたけりゃCD聴けばいいし、見たけりゃYouTubeでも何でも見りゃいいし。芸能人の訃報を聞いてショック受けてるのって、豚インフルエンザのニュースでドキドキしてんのと何も違わない。自分の身体に関係ある分だけ、豚の方が切実なくらい。
では、なぜ清志郎の方が切実になっちゃうのか? それは俺が身体だけで出来てるわけじゃないからだ。目に見えない部分に、巨大な影響を与える奴に昨夜死なれた(らしい)。
でもなあ、それでもなあ。別に清志郎のニューアルバムを聴けないことが致命的な訳でもないし、「夢助」だって試聴しただけで買わなかったし。だからまじで、死んだって別に関係ないはずなんだけど。ライブだって、最後の奴に行けたからラッキー、みたいな感じさえするし、「全快おめでとう、キヨシロー!」「みんなサンキュー!」ばっかの、あんなユルユルなライブはつまらない感じもするし。正直、また行きたいなんて思えなかった。だからもう二度とライブ見られないってのも、俺にとっては致命的じゃない。
じゃあなぜ? ショックよ?けっこう。しかも微妙に横っ面を引っ叩かれた感触もありーので。なんかちょっと自分の最近の生活態度を反省しちゃうかも、ぐらいの勢いで。
気にしてたんだよな、多分、いつも。勝手に生活の指針にしてた嫌いがある。俺は「人ごみに流されて変わっていく」のが不得意な人間なので(じゃなきゃGWにこんなことグダグダ書いてない)、清志郎のように人ごみとバリバリ摩擦してる奴が大好きだったのだ。しかも清志郎の目は、どんどんクシャクシャになっていく頬の皮膚とは対照的に、いつまでたってもチンパンジーのように澄み切っていた。まさに矢野顕子の言う「心の美しさが歌に表れている人」、或いは渋谷陽一の言う「凄くエモーショナルで、センチメンタルな心を持った男だったけれど、同時にハードで前向きな姿勢を常に崩さなかった」人だった。そういう奴はあまりこの世の中にいなかったのでね。つい好きになっちまった訳ですよ。
なんで会ったこともない話したこともない奴の、そんな内面みたいなことについて知ったふりをしているのか? それはもう「歌に表れている」としか言いようがない訳で。「ヒッピーに捧ぐ」でも「雨上がりの夜空に」でも「トランジスタラジオ」でも、はたまた「ワザト」でも「石井さん」でも「激しい雨」でも、とにかくなんでも、彼の心のいろんな目に見えない部分が、声になって出ていた。誰でもそうなのかは良く分からないけど、心の中をそのまま声に出す奴がいると、そいつがめちゃめちゃ愛おしくなるな。そしてそれを聴いて、俺も何かを声に出して歌いたくなったのだった。犬の遠吠え合戦みたいなもんだ。愛し合いたかったんだな。俺と清志郎はそんな関係だった。だからリアルで友人じゃなくても、死なれるとぽっかり穴があいちゃうのです。
イヤなら自分たちが、胸に手を当てて考えても、自信と誇りを持てる仕事を、自分達がすればいい。
だいたい、世間のまっとうな会社を何社も倒産に追い込んでおいて、どの口で、
と言うか。視聴者はイヤガラセで倒産・不買(不試聴)運動をしているのではない。
混ぜ物・偽物の入っている品物は買いません、見たくありませんと言ってるだけだ。
世間だってそうさ。
いくらタダといえど、クーポンマガジン(ホットペッパーなど)や求人フリーペーパー(タウンワークなど)が、
ウソ・大げさ・紛らわしい記事に満ちていては、読者も広告主も離れていく。
いくら受け手から直接お金をとっていないといえども、広告収入モデルで商売をしているならば、
2008年12月2日、音楽ニュースサイト『ナタリー』にてこんな記事が配信された。
http://natalie.mu/news/show/id/11396
9nineのCha-ponこと西脇彩華が、GOATBEDの石井秀仁とエレクトロポップ・ユニットORDINARY VENUSを結成。12月17日にデビューアルバム「ORDINARY VENUS」をリリースする。
このユニットでは石井がトラックメイキングやアートワークを手がけ、Cha-ponがボーカルを担当。松田聖子、工藤静香、Wink、南野陽子、中森明菜、宮沢りえ、早見優などの1980年代名作アイドルポップスが、GOATBEDならではのキラキラした艶やかなサウンドで蘇る。
どうやらperfumeのメンバーの一人である西脇綾香の妹がメジャーデビューするらしい。
perfume妹+電子音? これはもろに便乗じゃないか……。そんな考えが脳みそに掠める。
プロデュースする人物はGOATBEDの石井秀仁という人物が行うという。石井秀仁? いったいどんな人間だろうか。
ヴィジュアル系バンド『cali gari』のボーカリストで解散後の現在は『GOATBED』の名前でソロ活動中……。調べてみると2chのテクノ板にスレッドがあったりとやはりそちら寄りの人間らしい。「perfumeみたいのを作ってくれ」と頼まれたのだろうか?
しかし、楽曲を聞かずに便乗だ、パクりだと言うことはできない。
それに80年代のアイドル歌謡をカバー、とそれなりの一捻りは加えてある。全然違う雰囲気のものになる気もする。
では、聞いていただきたい。
http://jp.youtube.com/watch?v=5GoY0wnE8xY
こ れ は ひ ど い 。
わざわざ全曲ボコーダーで声を変えてperfumeのパクリであることを強調している。
身内がこんなに堂々とパクリ楽曲を出していいのだろうか? 臆面もなくよくできるものだ。トラックも安っぽくてチープ。
ポストモダンな状況では既存のピースの組み合わせこそが創作であり未来を思考するならパクりまくるべき、
これは「新ジャンル・近未来パクリポップ」だとでも言うつもりだろうか?
最近は音楽業界も斜陽だと聞く。様々な要因が考えられるがこのような志の低い作品をリリースしてしまうのも一因なのではないか。
──最近は中田さんのフォロワー的存在も増えてきましたが、それはどう捉えていますか?
中田ヤスタカ:好きでやってるんだったら良いと思いますけど、売れると思ってるんだったらいらない(笑)。あと、作ってる奴がインタビューとか受けた方が良いと思う。それは歌ってる人じゃダメって訳じゃなくて、作ってる人が好きなのかが気になる。「今はそういうのやっとこうぜ」ってやってんだったらもう死んで欲しいね(笑)。
中田ー、うしろうしろ!
【要旨】
梅田望夫さんが水村美苗『日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。
ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮」9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。
(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm
【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
コメント欄やブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。
これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮」9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。
水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。「国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。
そうではなくて、水村の議論はこうである。
水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。
中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語やドイツ語になる言語)しか存在していなかった。
近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。
しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。
そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。
以上が水村さんの議論の紹介。
このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは
という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。
これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728
【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。
近代においては、国語=国民=国民文学という等式が存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、
ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが
であった。
しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。
これが水村さんの問題意識である。
このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】
【★さらに追記:
「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。
テレビ番組が低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人をテレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。
このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。
テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。
日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。
水村さんのインタビュー記事を読むと、
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。
ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版の伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】
殊に、マスメディアを通じて公衆に対して特定の弁護士に対する懲戒請求をするように呼びかけ、弁護士に極めて多数の懲戒請求に対応せざるを得なくするなどして不必要な負担を追わせることは、弁護士会による懲戒制度を通じた指揮監督に内在する負担を超え、当該弁護士に不必要な心理的物理的負担を追わせて損害を与えるものとして、上記弁護試聴会制度の趣旨目的に照らして相当性を欠くものと判断され、不法行為に該当すると判断される。なお、ここで問題とすべきは懲戒請求を呼びかける行為自体の違法性であって、個々の懲戒請求が不法行為としての違法性を具備していないとしてもそのことからそのような呼びかけをすることが違法性を具備しないということにはならない。
ってことらしいぞ。
via アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の秋葉原オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分の秋葉原を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない秋葉原の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、秋葉原のことを紹介するために
見せるべき10店を選んでみたいのだけれど。
(要は「もえるるぶ」の正反対版だな。彼女に秋葉原を布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「電気街口」なので、時間的に過大な負担を伴う昭和通り口、万世橋の向こうは避けたい。
あと、いくら秋葉原的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
秋葉原好きが『東京青果市場』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
秋葉原知識はいわゆる「素敵なサムシング」的なものを除けば、ラジオ会館のビットインは知っている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「とら以前」を濃縮しきっていて、「とら以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。店舗も隣同士だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な店について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな店(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「秋葉原としてはこの二つは“家電量販店”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のマイコンオタが持ってるチップへの憧憬と、18時閉店のオタ的な営業へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも秋月的な
の二つをはじめとして、オタ好きのするパーツを店内にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「超超超超激やーす」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜のチェーン店がその後続いていないこと、昔、格安AT互換機を売っていたこと、
アメリカならdellになって、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり秋葉原はPCのためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「TSUKUMO」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この店でかける「HELLO,SOFMAPWORLD」のアレンジが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも11店舗、っていう店数が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
ソフマップの無軌道な店舗拡大を俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
ビックやヨドバシだったらきっちり本店に集約してしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて時空館を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の在庫を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ野口がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。買い取り自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でぷらっとホームに行ったたことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
Linux Cafeよりも前の段階で、本多の哲学はこの店で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの店が秋葉原でこの時代に売っていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくLinux好きとしては不思議に誇らしいし、
すがやみつるの看板でしかオヤジを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
ダイナの「画」あるいは「音づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「どうせiPodで128kbps ACCを聴くくせに、やけにヘッドホンに拘る」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそSTAX『SR-007』の試聴はダイナミックオーディオ以外ではあり得なかったとも思う。
「買えもしないヘッドホンを被る」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はダイナミックオーディオにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうサンボ風味の牛丼をこういうかたちでサンボ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9店まではあっさり決まったんだけど10店目は空地でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
とらから始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ヨドバシ以降の秋葉原時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい店がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10店目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
RYOJI & THE LAST CHORDSが、大変格好良かったのです。POTSHOT好きじゃないけどこっちは好き。あとはもちろんゆら帝。あんなに綺麗でメロディアスでなんでウンコの歌なんだ。格好良すぎる。
ポップパンクに燃えます。ラウド過ぎないロックも素敵なものです。とはいえ遡って聞く程音楽好きでもないので、最近のバンドや曲「しか」知りません。興味ないのよごめんあそばせ。趣味でも教養でもないものを知り尽くそうとしないのは、さすがに恥とは思いません。がなり声は好きですが、金切り声は苦手。シャウトは好き。酒焼け、煙草でかすれた声はセクシーです。酒飲み喫煙者が好きかと言われたらそうでもないんですが。
なんでこんなことを書いてるかっていうとさ、切ないロックは恋の味がするし、走るパンクは初恋の匂いだよねみたいな話。小難しいこと考えてないで、恋をしようとか思った。新しい恋を始めるんだ。始めたい。男の人の素敵なところを見つけよう。そんでもってその人が私のことを好きになってくれると良いな。
音楽に詳しくなりたいと思いながらオリコンのヒットチャートくらいしか知らなかった。
無料音楽配信サイトやインディーズ系のサイトを覗いて片っ端から試聴して、
自分の服装がいかにダサいかがわかった。
ファッション誌を買い漁った。入ったことのないショップに勇気を出して入って
顔を真っ赤にしながらスタッフの人と話をしてコーディネートを教えてもらった。
金がないことがわかった。
未経験の自分を雇ってくれる会社はどこにもなくて派遣に落ち着いた。
派遣先はWeb制作会社。HTML、CSSの知識はあってサイトの運営もしたことがあるから
なんとかなるだろうと思って決めた会社だった。
実践力がなにもないことがわかった。
派遣のくせに何も知らないのかと毎日怒られた。
ストレスに負けて、家で何回も吐いた。本当に悔しかった。
タグ辞典を読みながら来る日も来る日も真似をした。
時間がないことがわかった。
無駄を省く方法を毎日頭をひねって考えて、思いついたら即実践した。
何回も失敗して散々怒られたけど、成功も何個かあって
半年後には月の3分の2は定時にあがれるようになった。
勉強と遊びに使える時間が増えていい感じになったところで
人間としての面白みが失われていることがわかった。
運気が少しずつ上向きになってきたことに浮かれて自慢話が増えていた。
自慢話を自重して、昔のその場を楽しめる会話へと舵を切り替えた。
友人から「元に戻って安心した」と言われた時は嬉しかった。
セルフ千本ノックは要するに恥をかくことだ。
「本当は僕は○○だから」という逃げ道を消して、
本当に笑われるくらいに必死に自分にノックを課した。
思い描いている自分はここまで必死にならないとなれないとわかった。
工業系大学を出て就職したソフトウェアの会社でプログラマーやってた。学生時代から付き合っていた彼女と2年前に9月に結婚もした。
それが、去年の3月に鬱手前でぶっ倒れてドクターストップ。3ヶ月休職してやすんだんだが、そのままドロップアウト。7月から無職になった。
嫁は働いてるし、病気で仕事ができなくなったから退職してからも傷病手当もそこそこ出てさ。ボーナス+退職金も貰ってたから、当面の生活の目処もついた。もちろん、何ヶ月もニートでやっていけるわけもないから、すぐにでも復職はしようと思ってたんだけど。でも、体調が良くならないと無理だと思ってたから、まぁ1・2ヶ月は就職先を探しながらのんびりしようかと思ってた。
ただ、地元を離れて知り合いは嫁しかいねぇ土地で、日中は一人で生活するってのはツラかった。
朝起きると10時→時代劇の再放送→いいとも→ごきげんよ→昼ドラ→草野仁→時代劇の再放送→刑事ドラマの再放送→テレ東アニメ
基本はこれ。ちなみにネットは並行試聴。時期によっては甲子園。地区予選から全部見た。こんな生活してたらさすがに気が狂う。でも、科捜研の女は見逃せないとか言ってるオレがいるわけよ。そりゃあさぁ。図書館にでも行けばとも思うんだけどね。図書館の前に辞めた会社があってさ。近づくだけで鬱だし。
そんなこんなことしてたら10月になってさ。ふと面接を受けた某工場の事務の仕事にありつけちゃって無事転職。プログラマやってた前職より全然給料良いのね。なんだよ、ガンダムをうまく乗りこなせるより、ジムを適度に操縦できる方が生活安定するのかよってさ。いや、そんなことはどうでもいいんだ。今回は環境に恵まれたんだってことはわかってる。
さて、ここまでが前置き。実は、この復職するまでの3ヶ月間。一番の支えになった人。それが、隣の部屋に住んでる人妻。旦那さんは長距離トラックの運転手で、あんまり家にいないらしい。
ある日、食材を買出しから帰ってきたときに、なんとなく世間話をするきっかけがあった。仕事してた時は、何度か家の前で挨拶してた程度だったんだけどさ。さすがに、今まで日中は誰もいなかった部屋から、突然毎日人の気配がし始めたことに気づいたみたいで、「なにかあったんですか?」みたいな話をして。そしたら、どうやら同じ歳みたいでさ。すんげぇ意気投合。なんかねぇ。水を得たオレ。精神的に弱ってるときには、人の温かさが一番の薬だわ。
それからは、毎日がメイショウドトウのように過ぎていった。
気づいたら、隣の部屋に上がりこんで一緒に昼飯食ってるオレ。
気づいたら、隣の部屋に上がりこんで一緒に科捜研見てるオレ。
気づいたら、隣の部屋に上がりこんで一緒に酒飲んでるオレ。
気づいたら、隣の部屋に上がりこんでノコノコでカートに乗ってるオレ。
気づいたら、隣の部屋に上がりこんで人妻に乗ってるオレ。
就職してから約半年。新しい職場でうまくいってる。ここまでこれたのも、その人のおかげだと思う。
どーすんの?ちょっと・・・どーすんのオレ!?
[5年連れ添ったセックスレスの妻]
[半年前に出来た心の支え]