【要旨】
梅田望夫さんが水村美苗『日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。
ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮」9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。
(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm
【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
コメント欄やブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。
これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮」9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。
水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。「国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。
そうではなくて、水村の議論はこうである。
水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。
中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語やドイツ語になる言語)しか存在していなかった。
近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。
しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。
そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。
以上が水村さんの議論の紹介。
このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは
という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。
これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728
【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。
近代においては、国語=国民=国民文学という等式が存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、
ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが
であった。
しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。
これが水村さんの問題意識である。
このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】
【★さらに追記:
「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。
テレビ番組が低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人をテレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。
このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。
テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。
日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。
水村さんのインタビュー記事を読むと、
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。
ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版の伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】
つ★ おおー!まさにかゆいところに手が届いた感じ! イマイチ元の文章を読んでも、何がなにやらよく分からなかったのだ。 いい文章を見た。感謝。
昨日、id:umedamochioさんの紹介にインスパイアされて、 http://anond.hatelabo.jp/20081108170922 にて本の紹介記事を書いた。そこで、この本を読んで、熱く反応する人、つまり、水村さんの問題意識...
昨日、d:id:umedamochioさんの紹介にインスパイアされて、 http://anond.hatelabo.jp/20081108170922 にて本の紹介記事を書いた。そこで、この本を読んで、熱く反応する人、つまり、水村さんの問題意識...
ああ、なるほど。 これを読んで分かったのは、梅田望夫はやっぱりダメだなあ、ということか。 こういう風に書いていればコメント欄で批判を受けることは無かったろうに。
自分が読んで思ったのは、逆に元増田の崇高さとでもいうようなものに対する好感情だ。 梅田氏はくだらないはてブばかりと思っているかもしれないが、 同じはてなサービスの中で、こ...
本人は書評を書いたつもりはないんだろうし、全部書いてしまうにはもったいないというのか、 感動が生煮えになるので今はかかないのだろう。 あくまで自分が共感した部分について触...
普遍=善、特殊=悪、って思考なのか。普遍が常にいいとも限らんのに。
梅田さんって文章書きじゃないよ。 ただの経営コンサルタント。
技術者の間じゃ、普遍語はもう英語だよなぁ。 分かりやすいところじゃRFCだし、ちゃんと調べていくと英語の文献にあたらざるを得ない状況は結構ある。 オープンソースなんかだと...
「技術者」ってのをそう使わないでほしいと思った。じゃあなにって言われると「情報技術者」「IT技術者」かなぁ。いまいちだけど。 ま、他の技術者も英語が普遍語(医療系も今は英語...
よく出る話だが、そういう「IT系のごく一部」の事情だけをもって「技術」とか言ってくれるなよ。 どうしてはてなーって、日常言語とITだけで世界が成り立ってるみたいな単純な世界観...
横だが、そっちの攻め方をするなら。 俺様の技術分野は日本語が最先端の文献だぜ? 技術屋には英語が普遍語とか、一般論で語るなよ。 てめぇらみてぇな土方と一緒にすんじゃねぇ...
なぜ?俺は日本語が亡びるだのなんだのなんて下らん話はどうでもいいんだよ。生半可なIT屋が「技術」の言葉を簒奪することに文句があるだけなんだよ。
その気持ち、わかる。簒奪ってのはちょっと違うと思うけど。 「生半可なIT屋」がやってることなんて、普通の?いや、IQが日本人の上1/3に入るぐらいの人ならみっちり2週間ぐらい本気...
その辺の認識について言えばさ。 「生半可なIT屋」ってレベルの人間には、「ずば抜けた技術力」は要らないね。サンプルは俺。 対外交渉(それも国内限定)がメインの「えすいー」だ...
いやいや、俺はそこまで言うつもりはないんだけどな。 ただ、いわゆる「IT系」ってのは経営工学という、工学の中ではかなり異端な分野の応用のうちのごく狭い範囲に過ぎないわけで(...
画像処理とか音声処理とかもやるIT業界にいるが、いわゆるプログラマ系の人の言う『技術』っていう言葉の使い方には凄く違和感を感じてる。
ちょっと面白い。 別にIT特化した事を書いてるわけでもなく一般論に見えるのに、解り易い例示としてIT系の簡単な事しか上がっていないために批判されている。
本自体は読んでないから本書の内容へのコメントは差し控えるけど、これを絶賛してる文章って数年前に「ブログってすごい!日本にはない革命的な文化!」と絶賛してた文章と同じ匂い...
なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。 目次・水村美苗『日本語が亡びるとき...