はてなキーワード: 消極的自由とは
近代自由主義(モダン・リベラリズム、英: Modern liberalism, Reform liberalism)は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。レッセフェール(自由放任)を基本原理とする古典的自由主義や自由至上主義とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の貧富差における経済的隷属や個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりする(無政府資本主義、リバタリアニズム、新自由主義)のではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
(中略)
日本語では消極的自由を重視する古典的自由主義とのニュアンスの違いを表すため、また、混同を避けるためにあえて自由主義ではなくリベラリズムと呼ばれることが多い。英語圏ではSocial liberalism(社会自由主義)と表現される。
フランス革命後の議会由来だというのはそうだが、フランス革命後の時点では保守対革新じゃなくて、重商主義者、対弱者重視者だと思う。
消極的自由主義(規制自体をなくす)VS積極的自由主義(結果的に自由に生きられるようにする)
とでもいいが。
ただ、封建主義を破ったあとの自由主義が格差拡大と景気低迷で行き詰まった。
解決策としてケインズ政策(国が国自身の借金、税金、金利政策で需要調整を行う)とマルクス主義(国自身が全部管理する)に分裂した。
上記の重商主義者の枠組みがケインズになり、弱者重視者がマルクスに流れていった。
相対的に自由主義から変化が少ないのがケインズで、変化が多いのがマルクスだから、保守対革新という枠組みになったが派生的なもの。
マルクスは結果的には負けたけど、ケインズもかつ直前にオイルショックがあって新自由主義に乗っ取られた。
で、ケインズ乗っ取り新自由主義が右翼を名乗ってる。だが、うまく行っているものから徐々に変えていくか、教条的に変えていくかであれば新自由主義は革新だ。
ゆえに、1980年代以前のケインズVSマルクスの時代だったら重商主義者=ケインズ=保守VS弱者重視者=マルクス=革新でよかったが、
また、重商主義者対弱者重視について、新自由主義とケインズ主義では、新自由主義=右翼が重商主義者で、弱者重視者=左翼がケインズとなる。
経済史的にだいぶ昔は封建主義と言って、偉い王様と貴族が統治するのが良いという考えだった。
そこで自由に商人が動き回れるのが理想的だという考えが生まれた。これを自由主義という。
その中でも重商よりと弱者寄りで別れていった。フランス革命後に重商寄りが右側、弱者寄りが左側に議席を配置したから、重商主義=右翼、弱者より=左翼という概念が始まっていった。
別の言い方をすれば重商主義=消極的自由主義(完全に自由にするのが良い)が右翼、弱者より=積極的自由主義(結果的に自由になるようにするのが良い)が左翼かな。
ただし、自由主義の行く末として、貧富の拡大と不景気、そして一部戦争になっていった。
その自由主義の批判として、ケインズ主義とマルクス主義が生まれていった。ケインズ主義は国が需要など経済に責任を追うこと。マルクス主義は国が全部管理したほうが良いという形。
その時点ではどちらが良いか優劣がつけ難く、世界が2分された。ケインズ主義が右翼、保守側、マルクス側が左翼、革新側となった。
ご存知のとおり、冷戦終結でマルクス主義は破れたのだが、ケインズ主義も冷戦終了の少し前にオイルショックが起きたため、完全じゃないと新自由主義に乗っ取られ始めた。
そして、冷戦終結、かつ、ケインズ主義国家の新自由主義化で低成長、長期不景気が起きている。
新自由主義はケインズの知見を全部捨てて自由放任フラット税制にすれば景気が回る程度の思想でしか無いから。
というのと、あまりわかってない国民を煽動するために、「敵か味方か、敵なら攻撃する、味方なら他のこれも賛同しろよ」という権威主義のもと右翼左翼利用しようと考えだした。
マルクスは負けたのはまあ、仕方ないが、だからそれと反対の自分たち右翼は正義だ!ということで思考停止させ、他の都合のいいことも賛同させようとしている。
更にそれが行き過ぎて、今では石破支持とか、グダグダオリンピックに反対するのまで、左翼扱いしている。
今の定義ではほぼ政権全面支持=右翼、政権をわずかでも批判するやつ=左翼ぐらいにまでなってるだろう。
もはや今では政権の問題点を批判するのすら抑え込むためのツールと堕しているもの。右翼左翼という時点で旗頭に乗っ取っている時点でバカにしていいと思ってる。
おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、