文脈は読んだ
あってるよな?
イギリスで音楽自体が盛んでなくなったわけではなくて、むしろ聴く方は盛んだったので、コンサートがたくさん開催されて音楽ビジネス自体は興隆したので大陸から多くの音楽家が渡ったわけですしね。ヘンデルとかJ.C.バッハとかモーツァルトとかハイドンとか。それにアマチュアの音楽家の数も多くて楽器を嗜む人が非常に多かったはず。音楽は盛んだけど音楽文化の輸入超過みたいな状態だったとか。(今の日本みたいw)
そもそもアレとかコレとか現実に起こってはいけないから興奮するんであって、架空のポルノのジャンルを実際したいセックスみたいに「性癖」って言うのオタクの悪い癖だなーって笑ってたら
平然とブログ主が「貧乳の女子中学生が好き」ってなんんの留保もなく書いてあって目眩した
エロ漫画とかの二次元の「貧乳の女子中学生」ってジャンルが好きです、二次元美少女大好きってちゃんと書かねえとただの小児性愛者だろ
勃つだけでヌける
考えれば当たり前の話だが予約の埋まり方が客の人気だぜ
カフェインを控えていたのに、ふと飲みたくなって夜にコーヒー淹れて飲んだ
そのせいかこの時間になっても動悸がして妙に目が冴えて眠れない
以前はカフェイン漬けで日に5〜6杯飲んで平気だったのに
断つだけで抜けるもんだなあ
地獄のNV丁Me
自分はあまり恋愛脳じゃないので今のパートナーのことは大好きだけど
ファンにはなるけども推しと言えるような激烈な感情を抱いたこともない
胸がきゅーんとなって息が苦しくなる感じ
でも現実には世界が人種ごとに分かれてつるんだことは近代ではほぼ無いので無理感が強いかも。一次大戦も二次大戦も冷戦もそうだったし、今の中露vs自由主義陣営もそうだし。
自分はトップクラスの成績で、彼らの卒業したであろう大学より偏差値の高いところに進学することが目に見えていたから
けれど大人になった今ふと思い返すと、彼らは公務員で、自分は底辺ブラック企業でITドカタ 自分は彼らの遥かに下になっていた
なんだかやるせなく自分を恥じる
というか完全に理解することと、自分の将来に対する「子供を生むかどうか」の選択をすることになんの関係性があるのか
知的好奇心を満たすことは大いに結構だが、なぜ子供を生む理由に対して完全に理解する必要がある?
別の言い方をしようか。「子供を生むかどうか将来の選択を決めるために、世界中の蔵書をすべて読破しようと思っている」と俺には聞こえる。問題解決のために知識を集めようとする探究心旺盛なようで、単に無意味で無駄で無価値なことをして時間を浪費しているとしか思えない。なぜなら君ののぞみは
それは子供を産む理由に人間の本能だと答えるのと同様にぼやっとしすぎているから、わかりやすい答えを出すと、子供を産むという選択が自分のライフプランに大きく影響すると思っており、その選択によって今しなければいけないことが変わってくるから、他人の意見も参考にしつつ出来るだけ早く自分の答えを見つけたいからだよ
という部分だろ?だったら子供をもつという他人の心情を完全に理解するという探究心を満たすのは後回しだろ。そんなことを理解する前に君は死んでしまう
あなたがした行動の原理を説明してくださいと言われて、明快に説明できる人であればあるほど、人とのコミュニケーションで理不尽を被ることが多くなると思います。というのも、世の中には自分の行動原理に対して無自覚的、あるいは全くもって自信が無い、という人が多すぎるように思うからです。
AさんがBさんに告白して、結果は残念だったとしてもそれは理不尽だとは言わないでしょう。それは、恋愛に対する個人の自由という前提の元、Bさんの行動原理は、Aさんのことを(他の人間と比較して)よく思わなかったから、という明快なものだからだと思います。ここでAさんがBさんに「なんで振ったのか」と言うのは間違っているように感じます。つまりBさんはAさんに対して、「あなたの事が気に入らなかったからだ」と言えばいいからです。それに対して「でも優しくしてくれたし、デートもしたじゃないか」と醜く食い下がるとすれば、「それは対人間の一般的な気遣いである範疇だと私は思っています」とこう言えばよろしいと思うのです。
こう質問されてこう答えられることが自分の行動原理について明確に認識してるということだと思います。さらに、最後の言葉を言う自信が無い人が多く日本にいるように感じられますが、それは自分の感性に自信が無いからなのでしょうか。そもそもこの状況で自分の感性に自信が無いというのはおかしな話です、というのもここは完全に主観のテリトリーだからです。恐らく最後のセリフを言い切らない人は、なにか日本共通の「認識」があってそれとズレているかどうかを気にしているのでしょう。この2人のコミュニケーションは2人の世界で完結していないとおかしいので、日本共通の認識を取り出してくるなんて馬鹿げたことです。
ともかく、僕は相手がある程度どんなことをしてもその人が行動原理に対して、それを明確にしてなおかつ自信をもっていれば、道徳的にどんな良くない理由だろうが、尊重したいと思う人間です。それを理由に人間関係を切る事だって当然あるでしょうが、その行動に怒りを覚えたりはしません。「行動原理」が違うだけで、そんなことはよくある事だからです。
ただ、自分の行動原理が明らかでない、あるいはそれに自信を持ってない人間と対峙した時、この世界の理不尽さに直面することになります。それは言わばボクシングの会場にピストルを持って入ってきてるようなものです。いくらルール通りに戦っても殺されてしまっては意味がありませんね。ソクラテスの弁明に描かれるソクラテスのように、それを受け入れる心の強さを人生を通して持てるのは理想でしょうが、多くの人間にとってそうはいかないでしょう。それに対して自分の弱さを嘆かざるを得ないことが理不尽そのものです。なぜなら相手はそんな事考えもしないから。
これに対する対処法など多分ないのでしょうが、少なくともそういうことを考える人間がここにいることを明示しておくのはなにかの役にはたつと思っています。