嫌な奴のいる学校なら行かなければいいし、例えば週5で別々の学校に行ってるから、週1だけ行かなくなっても影響は少ないし。その教科だけ別の地域の学校を探せばいいし。
そして、今みたいに不合格点(30点?)を取らなければ進級できる制度はやめて、合格点(80点)を取らなければ進級できない制度にする。
そうすればもし不合格だったとしても、ダメなのはその教科だけだから、他ができてればその教科は先に進めるので、全体に与える影響は少ない。
進級テスト自体は、センター試験的な全国共通の試験とする。この試験で何級まで取得してるかがその人の現段階での実力なわけだ。だから独学でできちゃえば学校に行く必要がない。
今の受験制度だと、例えば苦手な1教科が足を引っ張って総合で合格点に達しなかった場合、そこで1年浪人しなければならなくなる。これは時間的な影響が大きすぎる。
できる科目は進めちゃっていいんだよ。なんなら入学・新年度の始まりを4月だけにする必要なんてなくて、例えば4月、9月、1月それぞれがスタートのコースがあればいい。
そうすればもし78点で不合格だった人は、もうちょっとがんばれば合格点に達するわけだから。4ヶ月がんばって合格点を取り4ヵ月後のコースから次に進めばロスが4ヶ月で済む。
この制度の最大メリットは、「教室に色んな人がいるようになる」ことなんだ。
この制度は主要5教科だけでなく技術、美術、音楽、体育、道徳倫理も同様に行なう。すると10教科になるが、1週間は五日なので、どれかの教科は後回しにすることになる。人によっては集中的にある教科だけ毎年やって、あとで他の教科をやろうと考えるかもしれない、人によっては2年かかけてどの教科も満遍なく勧めていくかもしれない。
そうすると、教室に色んな年齢の人が入ってくる。
進みの速い人、遅い人、ここでも年齢も別れる。
働きながら休みの日にある教科の学校に通う人もいる。この制度だと家があまり豊かでなく、早めに働かなければならない人も、働きながら通える。現代の夜間や定時制や2部や通信制と違い、ちゃんとしたレベルの、普通の人と同じ授業が受けられる。現代の夜間学校は、実際には「できない人の受け皿」という側面が強くあり、レベルの高い人たちが集まってレベルの高い授業をしてるかというとそうではないことが多い。
まず、教室に教師以外の大人がいるというのは大きい。どうしても教師は外の世界を知らないと言われるし、小さな世界で横暴になってしまうケースもあるし、また子供に影響されて幼稚化してしまうケースもある。が、ここに大人が入るだけで教師に多少なりとも影響を与えることができる。あまり理不尽に子供に当り散らしていたら、「先生、それはおかしいんじゃないですか?」と。
子供にもいい影響がある。子供がどうして悪い意味で子供なのかといえば、それは「モデルとする大人が周囲にいない」というのが大きな原因だ。人間は周囲のまねをして生きるものなんだ。10代前半くらいになれば、本当ならもっとしっかりした考え方や倫理観をもてるんだ。人間は。ただ現行の学校制度によって、周囲に子供ばかり配置されるためにその機会が訪れない。
もちろん、くだらないダメな大人も山ほどいる。が、大人というのはサンプル数を多く取れば平均値的にはまともなのだ。というかそれが日本人の限界ということになる。この制度だと、一人のダメな大人と同じ教室になったからといって、他の教科でもその大人と一緒というわけではない。各学校は独立して、各教科の実力はみんなバラバラだから。合うとしても週1とかだし、他の曜日に通っているほかの教室では他の大人がいる。サンプル数を多く取れば平均値には近づくから。
そしてこの制度を使った場合、現代で言う「学歴」は無意味になる。あれ「学歴」というのは実は学校暦なんだ。何々学校に行っていた、と書く場になっている。学校の名前が学力や能力の偏りと相関関係があるために、学校名を利用していただけに過ぎない。だからスポーツ推薦やエスカレーター式などという名前と実際の剥離が訪れる。
専門学校化、各教科別レベル認定センター試験化すれば、通ってる学校は多すぎて書ききれないので、履歴書には各教科の現在のレベルをあらわすレーダーチャートを使用することになる。もちろん技術や音楽や体育なども全て入れてだ。そしてこのレーダーチャートの形こそがその人の個性をあらわすことになる。この人は主要教科はできてるけど体育は全然ダメなじゃないか、とか。この人はまんべなくやってるが面積がちっちゃいなー、30歳なのに、とか。
あーまあヒュームだのハイエクだの太宰と三島のメンヘラぶりだのが「生きるために絶対に必要だ」と思えてしまう人生が現実にはそこそこあるわけでして(あまり幸福ではないかもしれないが)、
う~ん、書き込みづらいっていうのは感じたことないな~。
たぶん教養を、分野を問わない知識の定量的集積に「すぎない」と考えてる人はあんまりいないよね。
本1冊にしたって、カントと浅田彰と稲盛和夫とマンガとケータイ小説では人それぞれ重み付けが違うだろうし、逆に「そんなものを読んでいるなんて教養がない」と言う人だっているわけだし。
やっぱり、なんらかの方向付けや傾向があって、それによって何らかの能力や権力が生まれるような、組織的な知識や見識の編成…って感じがするね。
とはいえ、増田のいうマウンティングみたいな形で、誰か他人との上下関係を競うゲームに直接使える、高級な知識資源のことだけを「教養」というには、あまりに貧しい気もする。
さて(今よみなおしたら元エントリの冒頭で元増田も言及していたけど)フランス社会学で有名なブルデューという人は、70年代フランスでのいろいろな職業と、文化的選好を下のような図にしてマッピングしてる。ここで彼は「教養というのは、単なるお金(経済資本)とは違う種類の資本=文化的な資本だ」というようなことをいってるのね。
http://www.ofda.jp/sakaushi/text/2004a/_img/fig03.jpg
この図では、聞く音楽、乗ってる車、好きな番組、休暇の過ごし方…なんかがさまざまな職業のクラスタとむすびつけられているね。そして、図の左にいくほど「文化資本+/経済資本−」、右にいくほど「文化資本−/経済資本+」となっている。つまり、金持ちじゃなくても教養があるのが右側、金持ってるけど教養には欠けるのが左側、というわけ。
経済学でいう「資本」には「蓄積保存でき、何かに投資でき、自己増殖できるもの」という含みがあるけど、ブルデューさんは「教養というのは、実はそういう点でお金に似てるんだよ、でも、それは必ずしもお金持ちという意味での裕福とは結びついていないけど、やっぱりそれ固有のパワーを持ってるんだよ」ということを実証的に明らかにした。日本的な言い回しなら「名家と成金の違い」といえば体感できるよね。
教養=文化的資本には階級の表示機能があるし、だから、階級を再生産することもできる。やっぱり趣味が近い人間はそういう人間同士でつるむものだから、そのクラスタの中での「当たり前」な知識や所作や価値観をお互いに共有・強化しつづけることになるし、そういうクラスタに属する家族では、子どもも自然に同じような教養のセットを身に付けるよね(文化資本の継承・相続)。婚姻選択のときにも「いくらお金持ちでも一代限りの成金の家にはウチの娘(息子)はやれませんな」みたいなのがあるし。
つづくかも。
そういう疑問を抱けるならいいんじゃないの
昔のチビまる子ちゃんで留年してるやついたぞ。確かまる子の下級生で1年生のときに病気でずっと学校休んでてもう1回1年生をやったっていう。
昔はあったんじゃねーか?
俺理系で大学院もでてるんだけど、他の増田もちょっと書いてたけど、工学系の専門知識なんかは多分教養とは言わんよな。
小説(太宰とか)を読む、クラシックを聴く、ようなのが教養って感じがする。
あと歴史とかもそうだな。語学(英語以外のよくわからん国の)もいいかもしれん。
つまり生きていくのになんの役にも立たん知識。そのくせ知っていたら「すごい」「頭よさそう」って言われる知識。
教養を身に着けるメリットは、行動や生き方に品が出る、とういか出そう(教養に見合った行動をするようになりそう)。
周りに対して「俺頭いいぞ」と優越感に浸れる(やり過ぎると嫌われる)。
くらいかな。
下品な奴がどれだけ小説読んでクラシック聞いても、下品なままだったらとても教養があるようには見えんし。むしろただの物知りなバカに見える。
ケースバイケースではないでしょうか。
暑いからのこともあれば、それが自分の好きなファッションだからなこともあるし、単に流行を追っている場合もあります。