はてなキーワード: 自由意志とは
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。
夜ふかしをして以下の動画をみた。
収穫があったと思うのは、まず自由意志というものがあるなら、それはランダム性とは関係がなく、また生きていく上で便利なものであろうということ。
例えば大統領演説の原稿を書くという作業があるとき、自由意志が使われるなら的を射たものであるはずだ。
自由意志に関係がありそうなものとして「意識的努力」と「自動操縦」について話しているが、
意志力が強いと言われる人の多くは習慣化能力が高く、それは自動操縦的であり、意志力が高いわけではない可能性があるという。
では意志力を要する「意識的努力」がどこで使われるかというと、例えば「計画」という作業には意識的努力が必要だが、これは将来的に行われるであろうタスクのエネルギーを減らすために行われることが多いという。
一部の科学者は人々に対して「自由意志は存在しない」ことを説得しようとしているが、実用的に見るとこれは逆効果だという。
どういうことかというと、自由意志が存在すると信じていれば悪さをする可能性が減るわけである。
自由意志が無いと考えれば「コントロールできない、なら悪さもしょうがない」と考えてしまうわけである。
「自我の枯渇」という点は興味深い話だが、要するにタスクをこなせばこなすほど消耗し、自制心は減っていくということだ。
このため、意識的努力をするためには、十分なエネルギーを残している必要がある。
「自制心」と「知性」は基本的に向上させればさせるほどよく、マイナス面が無いという。
つまり意識とは存在する意味の一つであり、意識を持った主体がこの世に存在しなければ宇宙の存在も無意味である。
そして自由意志は、意識の持つ機能の一つである。予め決められた通りの人生を決定論的に歩むなら、それもまた存在の意義を失わせるに違いない。
厚生労働省の出した「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」に対して飲酒の自由の妨害だと切れてる人がいる。
でもどんな害があるのか知らないままでいる方がむしろ自由意志を奪われてるんだよ。
「世界で最もコカコーラ中毒で人が亡くなる街の闇の実態が恐ろしすぎた」ってYoutube動画を見てほしい。
住人が毎日2リットルくらいコカ・コーラを飲んでいて、住人の35%以上が糖尿病にかかっているのに、住人たちは「糖尿病にコカ・コーラは関係ないよ」と語ってる。
コカ・コーラ社のマーケティングに住民が完全に洗脳されていてる街だった。
そういう状況に市民が対抗するためには正しい科学的知識を広めるしかない。
厚生労働省は20年以上前から「日本人の食事摂取基準」や「健康づくりのための身体活動・運動ガイド」など科学的根拠のある健康情報を発表し続けている。
応報刑っていうのが、お前の言ってる奴。被害をあたえたらその被害のぶんだけ罪を負う。眼には眼をやね。
抑止刑っていうのは、悪行に罰則をつけることによって、その行為を止めようとする刑罰。
車の運転の、携帯電話のやつとか、一時停止違反なんかが典型的だね。まだなんの事故も起こしてないけど、罰を科される。
現在の、強姦の刑罰の設定には、応報刑と抑止刑の考えの両方が強く反映されているわね。
抑止刑は分かりやすいだろ。罰則が高いほうが強姦は減る。リスク高いから。増田の言うように風俗と同じ値段とかだったら、そりゃ強姦するでしょって話になってしまう。
プラス、応報刑のほうも、あるんだよね。つまり人権概念によって人間の自由意志とかの値段が爆上がりしている。性的価値ではなくて、自由意志の毀損なんだよね強姦ってのは。
催眠アプリでギャルからOL、パパ活中◯生まで自由意志を奪い肉オナホとして好き放題に犯し続けてきた増田。
しかし、たまたま公園で見かけたいかにも陰キャな高校生に催眠をかけたところ、彼女はわずかな催眠耐性があり、
体は言うことを聞いても心は催眠にかからないと言う体質の持ち主であった。
体を好きに弄ばれながらも心は屈しない彼女の存在は隠されていた増田の加虐性癖に火をつけ、
彼女は毎日のように増田による過激な性の調教を受けることになったのだった。
ってのが最近のオナネタなんだけど、抵抗催眠系はあっても大抵1回か2回でチン負けしてしまうので、
やあ。
いまだ経験がない男です。
こういうのネットで相談されるたび「風俗行け」って言われてるけどさ。
みんな全然分かってないよ。
ただカネを出すだけで得られる消費体験なんていらない。
そんなのって意味ない。
俺は、男として成長したいんだよ。
だけど、どうすればそれを達成できるのか、全然ヒントが見つからなくて泣いてる。
当然、すぐに達成できるなんて思ってないし、努力が必要な困難な道なのは理解してるよ。
どうやら世間では「恋愛レベルを上げる努力」というもの自体が、反ポリコレな邪悪な考えとして忌避されてるらしい。
「女性の自由意志はモノじゃない」「人心操作は対等じゃない」「下心って不誠実」
本当にウンザリ……。