はてなキーワード: 人格神とは
とりあえず状況を整理してみた
人格神を信仰する論者の「神の思惑は人間には測れない。人間から見て間違えていると思える事も、それは人間の能力の限界から来ているものである」という詭弁を崩す有効な反論を教えて下さい。
この質問に無料版のgpt3だとまともに回答できない。gpt4なら答えられるのか?そもそもこの信者を納得させる回答というのは人間もAIも含めて現在の「知」で可能なのか?
という事で gpt4 だと「神の思惑は人間には測れない」と言う人が不誠実だよね、という方向の回答になるね、という事だった。
これに対して
神が不誠実で無責任だとしたら
「いや、神が不誠実という話はしてないだろ」
「横だけど、文脈に沿ってるよ。宗教理解できてないからグダグダになる。お前が理解できてない」
という流れになっている。
さあ、どっちがおかしい?神が不誠実だとしたら、なんて話に急になったかと思ったら、今度は日本的感覚の歪みって話になって、話題が拡散していってるように見えるんだが?
たしかにマシになってるね。
しかしそれでも「神の思惑は測れない、という事自体も含めて神を信じています」という人にはまったく響かないだろうな、と思った。
結局「思惑は不明だが人格神は存在すると感じるし。俺はそれを信じてるんだもん」には「その態度は不誠実です」とか言っても「でもそれが真実だもん」で終わりだし、
俺の問い
人格神を信仰する論者の「神の思惑は人間には測れない。人間から見て間違えていると思える事も、それは人間の能力の限界から来ているものである」という詭弁を崩す有効な反論を教えて下さい。
GPT返答
人格神を信仰する論者の主張に反論するために、以下のポイントを考慮に入れることができます。ただし、これは議論の一部として提示される可能性がある反論であり、信仰に関する議論は個人の信念や哲学的視点に基づいており、感情的な側面を含むことに留意が必要です。 1. 神の意図と矛盾: 人格神を信仰する論者の主張に対抗する際、神の意図が矛盾する場合、それが人間の限界によるものであると主張することがあります。しかし、矛盾や不合理性が神の意図からくるのであれば、その信仰は論理的にも宗教的にも問題があるかもしれません。一貫性や論理的な説明が欠如している場合、信仰の妥当性に疑問を投げかけることができます。 2. 問題や苦悩の存在: 信者が「神の思惑は人間には測れない」と主張する一方で、世界には問題や苦悩が存在している場合、この点について問題提起できます。なぜ神の思惑が人間には理解できないのに、神の存在を信じる上での困難や苦悩が存在するのか、という疑問を投げかけることができます。 3. 神の属性と矛盾: 人格神を信仰する論者は、神を普遍的に愛と賢明さを持つ存在として描くことがあります。しかし、世界には苦しみや不条理が存在し、これが神の賢明さや愛に矛盾する場合、この矛盾について議論できます。なぜ賢明で愛に満ちた神が、苦しみや不条理を許容するのか、という問いが提起されることがあります。 これらの反論は、信仰と神に関する哲学的な議論の一部であり、異なる信念や哲学的立場に基づく反論も存在します。一般的には、信仰や宗教についての議論は感情的で複雑であり、相手の立場を尊重することが大切です。
他にも色々と別の聞き方をしてみたけど無料版だとこの程度の回答が限界っぽい。
正直まったく反論として成立してない。これらの反論には「なぜなら神の思惑は我々人間レベルの知能では全く理解できないからだ」で終わってしまう。
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
なんていうと死んでるっぽいがまだ存命だ。でもそろそろ死にそうなので、よく言ってたことを書き出しておく。
最近よく言われてるやつだ。「キリンは高いところの葉を食べるために首が長い身体に進化した」みたいな表現にはかなり怒りを覚えているようで、たびたびそうじゃないんだと愚痴っていた。
ポケモンの「進化」なんかもあくまであの世界における独自の用語だということは認めた上でもっといい語はなかったのか、これだけ誤解が広まっている原因の一端はポケモンにあるんじゃないかと言っていた。あれどっちかというと変態っぽいよね。
俺が全然女の子の話をしなかったからか俺のことをゲイだと思っていたような気配があり、10人に1人くらいは同性愛者だ・同性愛は基本的に生まれつきのもので古来からあるし全然悪いものではない・同性愛差別をする奴はバカ・イスラム教はその点ダメ、みたいなことをよく言っていた。高2くらいの時とかマジで隙あらば同性愛の話をしてくる感じでブキミだった。いや、いいんだけどさ…俺は照れるから恋愛の話をしてなかっただけだ。
生物は原核生物みたいなところからチマチマ進化してきて今みたいな感じになってる、って話を講義でしたらコメントシートに「私たちの祖先が微生物みたいなものだったなんて驚いた」というようなことが書いてあったらしく、お前じゃあこれまで生物の歴史はどんなもんだと思ってたんじゃボケ!と言っていた。高度な話をはじめから知ってろとは言わないけど、アウトライン的な科学常識すらないのはどういうことか、と度々ボヤいていた。
俺はさすがに「イキナリ人間が生まれた!世界は最初から今みたいな生物多様性!」って世界観の大学生がいるとは思わないし、コメントシートに書くことが思いつかなくてテキトーに書いたんだと思うが…。
神はいるか?みたいな話をしたとき、進化論に乗っかるにしたって「進化する性質をもつ生物をなんらかの高位存在が生み出した」って言われたら反論できなくね?と言ってみたところ、オカルト系はそういう証明不可能なところまで逃げられるからズルいと言っていた。
俺はキリスト教的人格神がいるとは全然思わんけど、物事の原理を遡っていったらどこかでそれ以上遡れなくなる、理屈での説明ができなくなるポイントがありそうだなと思っていて(宇宙はなぜあるのか、物理法則とは何でどうしてあるのか、みたいな)、いわば世界の骨格となっている説明のしようがないものが強いて言えば神なのか?と思う!と言ったら微妙な顔をされた。ウーム…
世の中よく分かってないことのほうが多いのは事実だし科学は少なくとも現時点では万能なんかでは全然ない、知れば知るほどわからなくなる…だから良いんだけどね!みたいなこともよく言っていた。ようやるわ、と思うけど楽しそうでもある。
阪神を応援していて、金本をメチャ嫌っていた。アイツが監督になったら私は野球を卒業する!みたいなことを言っていたが、監督になった後も普通に観ていたのでダメだと思った。
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