はてなキーワード: 紙風船とは
博士論文の公聴会を無事に終え、学位を実質的に取得しても、私の心に平穏は訪れなかった。
その日、かなりの時間を費して準備したプレゼンテーションを、会心の出来で決めることができた。
もちろんその成果は、(他の院生も同じだが)3年間の博士課程で膨大な時間を費し、壁にぶつかって紆余曲折とそれなりのドラマがあり、研究を他の何事よりも優先して手に入れたものである。
もっと言えば、大学入学から約10年、研究者を志した高校生の頃からだとそれ以上、思い憧れ続けてきた博士号の取得である。
プレゼンを準備している最中は、公聴会の後に万感の思いを感じるかもと想像したり、泣くかもしれないなんて思ったりした。
Zoomでの発表を一人終え、研究室からの帰路、キャンパスから渋谷駅まで歩くことにした。
もう日も落ち、夜のキャンパスから裏の山手通りに出たが、私の心は晴れなかった。
審査員から問われたあの問いになぜあのような回答をしたのだろう、こう答えれば良かったのに。
齢三十を前にして、学歴ばかり積み上がった人生の実態は浮草稼業の根無し草。
死にたくなった。
ここで私は気がついた、私の人生に心の平穏は訪れることはないのだと。
私は学生時代の頃から自分自身が『オタク』または『ヲタク』と呼ばれる存在であることを自負していた。
アニメはリアタイ視聴が当たり前、その翌日にはオタク仲間と共に語り合ったりSNSで感想を述べたりするからだ。
PC美少女ゲームは秋葉原のソフマップから、今は亡き紙風船に買い物に行って、神ゲーからクソゲーまで一通り触ってきた。
一時期は本気でシナリオライターとして食っていけるのではないかと夢見る時もあったが、今ではなぜか普通の社会人になってしまった。
学生を卒業して早七年……あの頃、本気でヲタクをやっていた自分がいなくなっている気がした。
翌朝六時から出勤しなければならない事が多かった日々、私が心の支えにしていたのはアニメだった。
その当時、何を見ていたのかはハッキリと思い出せないが、とにかく忙しい日々には通勤途中で見られるVODが超優秀で、スマホから月額400円相当で過去作も含めたアニメが見放題だった。
仕事に忙殺されていたせいか、SNSも頻繁に見ることもなくなった。そのために何人かネット上の友人を失ったが、なぜか全く後悔していない。
その程度の関わりだったと、どこか気持ちが切り替えられていたせいなのだろう。
当然ながら、リアタイ視聴にこだわっていた自分は、気付けばどこかに消え去ってしまっていたのだ。
などと、好きなブランドや絵師の名前は一通りチェックして回る日々も忽然と姿を消してしまった。
新作の量はソフマップが圧倒的だが、旧作だが超名作がぞろりと揃っている『紙風船』が閉店していることを知ったのは今年に入ってしばらくしてからだった。
流石に閉店を知った時にはショックだったが、何よりも驚いたことが『その情報を察知していない自分』だったのだ。
正直に言えば過去の名作をプレイしておらず、自室の押入れに何本か積んでいる時点で、新作を買う気力があまりないのだ。
早く消化したいと思う気持ちと、一週間に一日しか無い休みに美少女ゲームを立ち上げようものなら、何もかもを放り出して没頭する自信がある。
それよりも翌日にまで支障が出てしまう可能性もゼロでは無いのだ。
そう思ってから未だに一本も消化できていない時点で、自分は本当にヲタクだと呼べるのか、という自信が薄れつつあった。
職場の人に「休みの日は何してるの?」「趣味ってなんかやってる?」と聞かれる事が増えてきた。
「いやぁ、趣味という趣味は無いんですが、読書とカラオケぐらいですかね〜」
私はへらへらと愛想笑いを浮かべながら答える事が多くなった。
当然カラオケが趣味と言っても『ヒトカラ』が当たり前である私だが、社会人ともなると「友達と行くの?」と勝手に都合の良い質問をしてくれるので、肯定するだけで「社交的な自分」を伝える事が出来る。
まぁ、学生時代の友達と一緒にカラオケに行けばアニソン縛りが当たり前、ヒトカラでは上司にもウケるように昭和歌謡曲などもフォローしている。
誰かと歌う事が当たり前だから、一人でもカラオケに行って練習するという習慣が、学生の頃と比較すれば異常なまでに人との関わりを意識してしまっていることに気付かされる。
学生の頃は誰かと歌うのが面倒だから、自分一人で自由気ままに振る舞えるヒトカラが良かったのに、今では予行演習じみたカラオケになっていた。
読書だって、ラノベしか読まない私からすると『ビジネス書』『一般文芸』など読むはずが無いジャンルも、上司や取引先との会話の中で趣味の話題になった際「この作品って知ってる?」というフリに対し「芥川賞を受賞された作品ですよね。私も読んでますよ」という返しが出来ればポイントが稼げるのだ。
仕事で後輩が出来た際にも、ビジネス書の受け売りを酒の席でわざとらしく言ってドヤ顔もしちゃったりできるのだ。しまいには「もっとアンテナを広げた方が良いよ」なんて言っちゃったりするのだ。
でも、意識高い系の後輩が出来た際にはバッチリ効果が出てしまって、ちょっとだけ成績が伸びてしまったもんだから読書も幅広く読むようになってしまった。
私が学生時代の時は『アニメはリアタイ』『ゲームは好きなジャンルから総なめ』『SNSで情報共有』が当たり前だった、陰キャ街道まっしぐらだった人間。
性格などに関しては変わることは無いのだが、友人を見ると『好きなジャンルを深掘りしているタイプ』であるのに対し、私は非常に浅い。
その代わり、あまりにもニッチな話題でなければ、ある程度の話題に関してはコメントで打ち返せるほどのボキャブラリーは充実している。
アニメをたまにしか、好きなジャンルしか見ない人間もヲタクと呼べるのか。
ゲームも今は一切しないが、昔やってた経歴からヲタクを自称できるのか。
予め言っておくと、オタクを自称したいとか、オタクのプライド云々が言いたい訳では無い。
そんなもの、そこらの犬にでも喰わせてしまえば良いと思っているくらいだ。
私が言いたいことは自分でも名乗れないほどに『ヲタク』というアイデンティティが失われてしまうことで、自分は一体何者なのだろうか、という疑問が残されてしまう。
別にオタクであろうとなかろうとどうでも良い。ただ、友人たちの目からは『ヲタクである自分』というフィルター越しに私が見られている気がしてならない。
もうとっくにそんな姿は存在しないと言ったとしても、私はいつまでも『ヲタクである自分』で物事が進んでしまうのだ。
仮に『ヲタクである自分』が手放せたとしても、今度は『ヲタクではない自分』がどんな存在なのか、皆目見当もつかないのも空恐ろしい。
結局、私がヲタクであることを証明できるように、自らの手でヲタクという生き方を捨てきれないだけなのだと思った。
本当にヲタクであることを辞めてしまったら、どうしようもなく薄っぺらい、何も無い人間になってしまうような気がして怖いだけなのだと思う。
食べ物は買ってはいけないと親に厳しく言われていたから駄菓子そのものへの思い出はとても少ない。
駄菓子屋がなくなったらどこで手に入るのかわからないものばかり。何円で売られていたのかはほとんど忘れてしまった。辛うじて覚えているのはシャボン玉液の30円とメンコは5枚で20円だったことくらい。
メトロポリタンミュージアム
http://www.youtube.com/watch?v=wPdc8v-lzvg
真っ暗森の歌
http://www.youtube.com/watch?v=jkAnpPENjXs
http://www.youtube.com/watch?v=Cr4p42J3Rhw
ハピハピバースディ
http://www.youtube.com/watch?v=azGf4tlm5rc
http://www.youtube.com/watch?v=s34QQoF0Sxs
恋花火
http://www.youtube.com/watch?v=b4tr9W5_gKM