はてなキーワード: 対偶とは
批判されている点のうち主要なものは以下の二点に絞られると思うので、この指摘への対処だけを論考の対象とします。(例えば、絵柄の好み等々は対象としません)
なお、私の考えは、「論点1-1」でNOとスッキリサッパリ言い切るのには躊躇がありますが、かと言ってYESと断言するのにも躊躇がある、というところです(どっちつかずですね)。
献血広告で当該の広告が批判される理由は、自発性が重要だからです。対偶をとると、自発性が重要ではない文脈、例えば強制性がある規定ならば、絶対ダメとまでは言えないことになります。
でも一方で「煽るような台詞」は当該キャラの個性ですから有効利用したいですよね。
とすると、例えばルール遵守を訴えかける広告ならばアリではないか、と考えることもできませんか。
例えば、警察が制限速度の遵守を訴えるポスターはどうでしょう。
普通の女性警察官の制服を着た「宇崎ちゃん」がローアングルではなく正面から描かれており、「先輩、交通ルールも守れないんスか?」という台詞がついたものです。
これであれば「性的対象化」も「自発性」もクリアできそうです。さらに「いつもは着ないコスチューム」かつ「キャラクターの個性を活かしている」というところで萌え的にもポイント高くありませんか。
萌えキャラや二次元キャラ全般がダメとは思わないし、むしろ問題ない範囲で使われていくと良いと思います。
命題の真偽と対偶命題の真偽は一致。逆命題と裏命題の真偽も一致。命題と逆命題の真偽の一致は偶発的(命題の意味によって一致したりしなかったりするので一般的にYesともNoともいえない)
命題と対偶命題の真偽は一致するが、命題自体が真でない(恒真でない)ことを忘れて対偶命題を真だと主張する
「成功者は努力家だ。したがって努力をしていないものは成功することはできない」
これは命題が恒真でないことが原因であるので間違いだ。現実世界では努力家でない成功者もいる。論理的には正しいが、意味的に誤っている例といえる。
もともとはあまり興味なかったが、なかのひとがどうの、魂がどうの言い出す人の多さに流石に頭くらくらしてきた。
「現実とフィクションの区別」というワードは、これまで二次元の児童ポルノの取扱に関する文脈で頻出していたが、どうやら多くの人たちがこの「フィクション」という言葉を矮小化して考えていたらしい。心底驚いた。
おそらくノンフィクション(とされる表現物)との対偶として、「物語の設定や登場人物が現実とは関係ないもの」を想像しているのだろう。
だがその区別は、表現物の内部の論理であり、現実の社会問題で語られる「現実とフィクションの区別」とは別のレイヤーの話だ。
考えても見てほしい。現行法において、同じ二次元のエロ漫画に、あとからノンフィクションだと銘打っただけで違法になるだろうか。それは望ましいことだろうか。
社会問題の文脈の中で語られるべきは、「現実と表現物の区別」であって、表現物の内部区分として「フィクション」であるかどうかは問題とはされないし、されるべきではないのだ。
表現物の内部論理として、Vtuberが既存のアニメなどのキャラクターよりも人格性がある、魂があると認められるのは構わない。大いに結構だ。
だが、それはあくまで表現論・表現者と二次創作者との倫理的距離感など、あくまで表現という枠組みの内側での話であって、社会問題での批判に対抗する方法ではない。
キズナアイというキャラクターの造形が社会問題となった場合、あくまで表現としてのキズナアイを問題とするべきである。
表現物の内部論理としての人格性を持ち出して、社会問題のステージで「このキャラクターには人格と魂があって、その自由選択の結果です」と反論することは、なんら現実を反映していないし、より厄介な問題をはらんでいる。
仮にその主張が認められるならば、同時に児童ポルノの文脈においても人格と魂のある存在として社会問題のステージに立たなくてはならなくなる。それは誰も幸せにしない事態であろう。
「そのくせ質問にはこれだし。」この時点で論点捉え間違ってるから。
なんで反論者が立論者の説明を補助する必要があるんだよ。反論が新しい立論を持つ必要がないのは学校で習うレベル
反論の根拠に「〇〇だからネットミームが起きる」なんて言葉がないのに
それを質問して説明を求めるのは自分以外の立論者、立論の協力者を求めているだけで、反駁じゃない
2「グリーン で ネットミーム(エロ)になってない」(事実)
このことから君は
を導いているがそれはできない
エレンは萌え絵の属性を持ってるだけで全体でないし代表にもできないから(統計も象徴性もない)
って題を導くことにもなる。
これは「非萌え絵 で ネットミーム(エロ)が起きた」(事実)によって 4が偽なのは覆しようがない
4が偽となると、2-4をつなぐ論が否定されるから同じ論である1-3も否定されてしまう