はてなキーワード: 二階堂奥歯とは
以前、ここで大事な言葉をくれた人の、ブックマークを辿っていた時に「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい」を見つけた
どのように感じたかは私にしかわからないので、永遠に誰かにこの感情が伝わることはないが
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
ここ、ここだ
私は、こう考えている
インターネットは、あるいは我々が生きているこの世界は、宇宙は
気付けば、私の周りには誰もいなくなっていた
私という惑星を中心としたこの領域には、私しか存在していないようだった
光子の1つ1つが、膨大な時間をかけて星々の生き死にを伝えてくれる
遥か彼方には、どうやら互いを重力で引き寄せあうような星系があるらしい
私には、関係のないことだった
1980年代に入って、天文学者の観測により、数億光年彼方には約2億光年にわたって銀河がまったく観測されない空っぽの空洞が存在することが明らかになった。その後、同じような空洞が他にも幾つか発見されて、こうした銀河の存在しない超巨大空間は「超空洞」と呼ばれるようになった。さらに研究が重ねられ、銀河系の集合した超銀河団は、この超空洞を取り巻くように膜状に連なり、ちょうど石鹸を泡立てた時のように幾重にも泡が積み重なって、宇宙の大規模構造を構成していることが分かった。
「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい 」は2022年の投稿だ
二階堂奥歯の「八本脚の蝶」に関しては、2003年が最後の投稿になっている
彼ら・彼女らの放った光が届くまで、何年も十何年も何十年もかかる
私が放った言葉も、きっと何年も十何年も何十年もかけて、誰かに届くのだろう
この孤独で残酷な宇宙の中で、ボトルシップのようなやり取りを保証する場所がインターネットという空間であると信じている
ひとりぼっち の だれか の こえ は
――「ひとりぼっち惑星」より
わたしたちの仕事の大半はリモートワークになっているのだが、その日たまたま彼と対面で打ち合わせをしなければならず、はたしてその日の晩に彼は発熱したのだった。
おたがいにマスクをしており、打ち合わせもそれなりの距離をとって、アクリル板のパーティションを設置していたのだが、わたしは濃厚接触の疑いがあるということで勤務先から自宅待機を命じられた。
結局のところ保健所は濃厚接触に該当しないと判断したのだが、勤務先から「大事をとってそのまま三日間は自宅待機してほしい」と連絡があった。
かくしてわたしは自宅でみずからを家族から隔離するように、リモート部屋に布団を敷いて起居することとなった。
リモート部屋は六畳ほどの広さで、窓際の隅に机と椅子、モニター、プリンターが置かれている。
そのほかの荷物も雑然と置かれているのだが、布団で寝るぐらいの広さはある。
自宅待機の旨を関係各所に連絡し、そのおかげで滞った仕事をなんとか終えて、夜中にようやく身を横たえるとふと文庫本が目にとまった。
リモート部屋には文庫本専用の本棚が四つあり、棚の上の方には未読の、つまりは積ん読状態の本が並べられている。
下の段には、すでに読み終えたものか、読み途中のもの(あるいは挫折したもの)が入っている。
布団に入らなかったら下段の本には目が届かなかったかもしれない。
そこにあったのは、二階堂奥歯『八本脚の蝶』(河出文庫、2020年)。
かつてハードカバーも買い、読み終えることができず、文庫が出たら文庫も買い、こちらもまた読み終えることができず、そのままになっていた。
なぜか今度ばかりは読めるような気がした。
そうしてこの三日間、仕事の合間に少しずつ読み進めている。
<1977年生まれ。早稲田大学第一文学部哲学科卒業。編集者。2003年4月、26歳の誕生日を目前に自らの意志でこの世を去る。亡くなる直前まで更新されたサイト「八本脚の蝶」は2020年現在も存続している。>
二階堂奥歯と面識はない。ただ彼女が大学にいた当時、わたしは留年を重ね、まだキャンパスをふらふらしていた。わたしのいた文系サークルには、彼女がいたという哲学研究会に出入りしている者もいた。留年を終えて、なんとか会社勤めを始め、学生時代の知人に再会したところ、「哲学研究会のOBが中心となって『記憶の増大』というサイトをやっている。二階堂奥歯という人がそこに『八本脚の蝶』という日記を書いている。あなたはボルヘスを好きなようだから、もしかしたら彼女が書いているものも気に入るかもしれない」と言われた。そのようないきさつがあって、わたしは時折パソコンで「八本脚の蝶」をのぞいていた。
「あなたはボルヘスを好きなようだから」という言い回しはやや唐突なようだが、わたしとしてはそう言われたのがわからないでもない。およそ大学というような場所にはひそかにボルヘス読者の群生地があり、わたしはそこにはいなかったけれど、きっと知人には生息地を離れてひとりはぐれているような存在に思われていたのかもしれない。実のところ、ルルフォの書くものの方が好きだったのだけれど。
彼女がみずからの死を「八本脚の蝶」の中で宣告し、日記の更新がとまってからどれくらいたっただろうか。ひと月もなかったかもしれない。
仕事を終えてひとりぐらしのマンションに戻り、夜中にネットを巡回していると、彼女の別れの言葉を見つけた。
それでも彼女を追悼する言葉がネットで散見されるようになり、わたしはそれが実際に起きた出来事だと知ることになった。
直接の知り合いではなかったけれど(知り合いの知り合いだ)、彼女の死はずっと引っかかっていた。
だから「八本脚の蝶」が出版されたとき、迷うことなく買い求めた。
読めなかった。
ずっと読めなかった。
あれから二十年近くたち、ようやく読む気になったのはどういうわけか自分でもよくわからない。
一方で、この二十年ばかりの間なぜわたしは文学書をほとんど読むことができなかったのかはなんとなくわかった。
学生の時分には翻訳文学をそれなりに好んで読んでいたはずなのだが。
わたしは社会生活を送るために、いつの間にやら自分のリソース(脳味噌のキャパシティ)のほとんどすべてを消費していたのだ。
「八本脚の蝶」を読みながら、他者が構築した架空の世界に遊ぶときのどきどきした感じ、わくわくした感じ、ひりひりした感じ、そういったものを思い出し、わたしはきっとそこに惑溺してしまうから、意識的に遠い場所に置いていたのだろうと思った。
二階堂奥歯は生活しながらも虚構と現実を往還していたのだろうと考えると、そのために使われた膨大なエネルギーは超人的なものだったと想像してしまう。
二階堂奥歯のおかげで久しぶりにちゃんと小説を読もうという気になったのだけれど、やはりわたしは本の中に沈潜してしまって、なかなか仕事が手につかない。
「八本脚の蝶」は東大寺大仏殿にある意匠(飾り)のことらしいのだが、そういえば三年ほど前に東大寺を訪れたとき、そのことを確認するのをすっかり忘れていた。
名前だけで現存する作家や漫画家をイメージしていたのだけれど、南条あややメンヘラ神と
似たような位置づけの人だった。飛び降り自殺したネットブロガーだとは想像もしてなかった。
鬱などの精神病って繊細な性格と物事を考えすぎる習慣を併発することで発症すると思ったのが一番の感想。
案外、ヤンキーや不良なんかが日頃の鬱憤を窃盗やカツアゲで発散するのには精神病にならないためのかもしれない。
すぐに怒りや暴力など感情に走らず、物事を追求し自分を環境に適応しすぎるのも精神的にはあまり好ましくないのかもね。
例えば二階堂奥歯さんの胸があと2カップ小さかったら自殺しなかったんじゃないかと、冗談半分本気半分くらいで思う。
だいたい何万年もかけて進化してきたのに、未だにオスを誘うために体の一部が肥大してるなんてナンセンス。
子どもができてから、必要なだけ膨れればいいじゃないと思う。そして子を育て終えたら萎んで無くなればいいじゃない。
生まれつき体の一部が欠損している人、逆に肥大している人がいれば皆気を遣うくせに、どうして乳の大小は明け透けに楽しげにどうこう言う。
小学校中学年のとき、学年に一人だけ腋毛のはえてる女の子がいて、陰でクスクス笑われてた。
クスクス笑ってる子たちは、身体測定のあととか、「見して見して」って私の服をつかんで襟ぐりから胸を覗き込んだ。
たぶん私も陰でクスクス笑われてんだろうなと思いつつも、本気で嫌がったりしたら余計からかわれるなと思ってへらへらされるがままになってた。
そういう私をクラスの学級委員長みたいな、女子グループからは浮いてるけど潔癖で真面目な子は軽蔑するような目で見ていた。
小学校を卒業するとき、母がお姉ちゃんの下着を買うのと一緒に、私も初めてブラジャーを買いに行った。
下着ショップの綺麗なおねえさんに「お嬢様のサイズですと、EかFになりますね」って言われたときの、母の戸惑った顔が忘れられない。
中学生のときは一回も水泳の授業に参加しなかった。私の仲良くしてるグループの子も皆参加しなかった。
スクールカーストの所謂ナードのチームにいたと思うけど、皆、実はむだに胸がでかかった。
でも、そのぶん胸の話とか異性の話とか避けてて、「自分達が女である話」には絶対ならなかったから、居心地よかった。
でも、女の子の一部は「でもあいつは胸がでかいからじゃん」「でもあれは巨乳じゃなくてただの鳩胸じゃん」とか言ってた。
いい先生だろうとそうでなかろうと、その人が女で、胸があれば、教師としての能力とか人柄は無視ですかそうですか。
違うクラスの男の子と図書室の狭い通路ですれ違うとき、相手の背中に胸がぶつかってしまったことがあった。
数日後、いきなりその子に告白された。ものすごい恥ずかしくてみっともなくて、死んじゃえよこいつと思った。
大学生のとき、派遣バイトに行ったら、その派遣先の担当者がものすごい感じの悪い男の人だった。
あるときバイトの子が皆着替えてるときに更衣室に当たり前みたいに入ってきた。「ごめん」の一言も勿論なし。
で、その日から私だけ評価がプラスにされて、実際の売り上げが良い子よりも給料が多くなった。
派遣じゃなくて直接雇用でバイトしないかと言われたけど断った。なんて気持ち悪い人がいる会社なんだろうと思った。
母親にも、「あなたは胸おっきいからあんまりへんなところうろつかないでね」と言われた。
へんなところなんて行きませんし、胸が大きくなかったらへんなところ行ってもいいみたいな言い方だなと思った。
それに、へんなところに行かなくても、私の胸にどうこう言うへんな人はどこにだっているのに。
頑張って筋トレして体脂肪率18%くらいまで落としたことあるけど、胸は1カップしか減らなかった。
久々にあった友達に「痩せたよね」「でも、相変わらず胸はでかいけどね(笑)」と言われた。
今はもう大人だから、多少のことでいちいち傷ついてなんかいられないし、
周囲が求めてるものに答えるのが自分にとってもいいことだと分かってる。私の胸を求める人がいるなら私もそれを利用させてもらう。
襟ぐりが開いててウエストが絞れてる服、体のラインが出る服のほうがスタイルがよく見えるから、胸が目立つことを承知で着るし、
「胸でかいからいいよねー」みたいなこと言われれば「胸だけでかくてもねー」「いろいろかき集めて寄せてつめてるだけだからねー」と笑って返す。
でも、心の奥底にある、周囲の勝手な「胸」への押し付けに対する怒りと、それを利用する自分への軽蔑は消えない。
どこか、虚勢を張っていないとすぐに周りが皆敵になる、みたいな緊張感を感じさせるから。
乳房に翻弄される自分の性への不安とそこからの開き直りというのか。
リリー・フランキーがナンシー関との対談で「地味な巨乳とか、萌える。巨乳なのに地味みたいな」とかなんとか言ってた。
で、横に裁断機使ってる事務員の巨乳のイラスト。全然面白くないと思った。そんなのでお金貰ってるなんて意味わからない。
世の中の派手な女と地味な女の比率を考えれば地味な巨乳のほうが圧倒的に多いのに、なに言ってんだろうこいつと思った。
はしごたんが暴れまわってた頃、巨乳に対して憎悪を燃やすエントリをあげてて怖かった。
「お前らは太ってるからマンカス溜まりやすくて臭いだろ」みたいなこと書いてあった。
なんでそんなこと言われなきゃならないんだろうと思って悲しい一方ですごく腹が立った。死んじゃえよこいつと思った。
ツイッターかの何かの投稿で、「マスカラを塗りやすくするために温め中」って胸の谷間に挟んでる画像を上げてる女の人を見た。
死んじゃえよこいつとまた思った。喜んでそれに反応してる奴らもまとめて死んじゃえよ。
「どうせ私は貧乳だよ~!」「貧乳いいよ!俺は好きだよ!」みたいなやりとりして喜んでる奴らも死んじゃえよ。
胸はみんな、あとから膨らませたり入れたりするものだということになれば皆納得するし世の中平和じゃない。
月経の前になると、私の肥大した胸はさらに1サイズ分くらい腫れて熱と痛みを持つ。ものすごく惨めな気分になる。
でも、そんなときに2ちゃんの女性の集まる板を見ると、同じような人が胸の下に保冷剤をいれて痛みをやり過ごしていたりする。
そういう書き込みを見ると、なんだか少しだけ心が安らぐ。理不尽に抱いた凶暴な感情も少しだけ和らぐ。
できることならずっと、こういうやさしい傷のなめ合いみたいな同調だけし続けて生きていたい。
切断萌えは意外と女性にも多い(と、思う)からなぁ。それはやはり「他者の主体性を取り除きたい」願望であったり、
「自身の主体性を捨てたい」願望だったり(二階堂奥歯日記や高原英理の評論「ゴシック・ハート」に詳しい)様々だけれど。
勿論、そういう嗜好の男性の存在に対して、侵害される性の立場としてひっそりと「恐れ」のようなものを感じる部分もあるけれど、
直接犯罪に結びつくとは勿論思わないし、彼らを目の前にして「キモイ」「殲滅したい」とは思わない。
むしろ、嗜好の表出の歪さになんとなく共感する。
三次ロリコンものを「アングラなもの持ってる俺カコイイwwなんかあったらロリに売れるしwww」とかいう考えで所持してる奴に会ったときのほうがゲロ吐きそうにムカついた。