はてなキーワード: 宗教とは
少子化の原因は悪い宗教=資本主義が消費拡大のために個人主義を広めたことにあるからな
どっかの国は他国で資本主義を広めまくってその国の伝統的家族観を人権侵害だと破壊して個人主義を広めてガンガン個人消費させて利益を得る一方で、自分の民族の宗教では伝統的教義で多産推奨して先進国が世界的少子化する中で人口を増やし続けているという二枚舌やってるわけで。
人口が増えればその分需要も増えるというが、今いる人口の経済力を上げるほうが先に来ないといけないのではないかな。
それ「ぼくのかんがえたさいきょうのかいけつさく」と言っているに過ぎないぞ。
いまのところ少子化を克服している国は存在しないので、お前の言う「良い宗教」は少なくとも地球上には存在しないということになる。
子供って、生物的な愛着さえ形成されていれば親がどんだけしょぼくても全く関係なくバッチバチに依存して役割を与えてくれるんだよな。
南無阿弥陀仏と唱えてさえいれば救われるみたいな、宗教的な機能を持っていると感じる。はっきりした宗教のない国日本において信仰の機能を果たしているのかもしれないと思う。
個人の合理主義で解決できない社会問題を、効率よく解決するのが宗教だからね。
豚肉を食べると美味いが、不衛生による食中毒死が多い社会では、宗教が豚肉食を禁止することで、
良い宗教ってなんだよ…
子供を生むことが神からの祝福だと解釈されて、伝統的な家族観で大家族で助け合う自助が生まれ、地域社会との結びつきも濃くなって共助も生まれる
政治的にも少子高齢化が起きないから年寄り中心の政治にはなりにくい
他にも上げればきりがないぐらい効果あるだろ
本音で話し合うも何も、こういう宗教じみたレベルの束縛や行動を「育児方針としてこうする事が子供にとって良いに決まってる!」と思い込んで譲らないタイプのスピリチュアル女には何話しても無駄やぞ
自分用のカレーを、「増田が自分で」「自身の小遣い負担で」であっても作るのを許可されていないだけじゃなく
と書かれているので、おそらく子供用だけ別のレトルトを出したり子供用だけ味付けを変える事も許可されてないんじゃないかと推測する。
どういう訳か子供を持つと「食卓には家族全員揃って、必ず全員が同じ物を食べて同じ時間、味、気持ちを共有しないといけない」的な思想になる女は一定数いるから、どうもこちらが諸悪の根源な臭いがするんだよな。こんなもん最早宗教の域だから理屈は通用しないんだよ。
預言者は神の言葉を啓示として預かり人々に伝える者のことで、初期ユダヤ教から一貫してアブラハムの宗教の骨格となる存在ですよね
キリスト教でもイザヤ、エレミア、エゼキエルなどの古代ユダヤの預言者らのことは預言者として認めており、初期キリスト教ではキリストや洗礼者ヨハネの他にも同時代人のロールの呼称として「預言者」は割とカジュアルに登場しますので、「預言者を名乗るからキリスト教とは異質」というのはおかしいと思います
なんだその滅茶苦茶な妄想。
現代日本じゃないんだから、ユダヤ教徒やキリスト教徒じゃなかったら無宗教(無関係)なんて扱いなわけねーだろ。
最初から預言者を名乗ってるから、最初からキリスト教とは異質な宗教だったと見た方が良い。
日本の新興宗教の多くが伝統宗教の経典を借用して伝統宗教の分派を名乗っているのと同じく、一神教の新興宗教として旧約・新約を借用したのだろう。
私も元増田に負けず劣らず無知だけど、アブラハムの宗教について言及してるのに、冒頭の以下については、ノアの7戒とモーセの10戒とを混同している模様で、間のアブラハムのことも無視していてひどいと思う
※消えてるから元記事のアーカイブ→https://web.archive.org/web/20240505110254/https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
アブラハムの宗教について語るなら、「賢者ナータン」の「三つの指輪の譬喩」についても言及しておきたい。
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1158
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1187
元増田の個々の記述についてはレスであれこれついてるからいいけど、ムハンマドとイスラムについては特にもっとよく知りたい
イスラム教がキリストをどう捉えているのかなどの教義的なことはさておき、ムハンマドがガブリエルから啓示を受けて預言者となり、地域の多神教コミュニティと衝突を始めたって辺りの経緯というか動機が良く分からない。
キリストの場合は当時のユダヤ教の教義とコミュニティに対する宗教改革者としての位置づけが明確だと思うんだけど。
キリスト教の信仰の中心地から離れたところでキリスト教を説いて回ってるうちに地域の多神教コミュニティと衝突し、追い出されてメディナで一派を作って体制と規則を固めていってるうちに元のキリスト教とはだいぶ変質して宗教として確立した、みたいなものなんだろうか。
今日レジに来たおばあちゃんは、321円の会計で百円玉を3枚と、十円玉を3枚出した。一円玉を持っていたにもかかわらずだった。聞くと、一円玉はお賽銭にするために別に取っておくらしい。確かに、一円玉だけは小さなジップロックに入れてあった。
321円の会計で330円を渡されたならば、レジとして自分は9円のお釣りを渡すことになる。釣銭機が吐き出した9円の内、一円玉が一枚、少し汚れていた。折角お賽銭にするなら、少しでも綺麗なものが良かろうと思い、自分はさりげなくドロアの比較的綺麗なものと交換してからお釣りを渡して、会計はそれで終わった。
もらった330円と、取り換えた1円玉を仕舞いながら、ふと思った。折角お賽銭にするなら少しでも綺麗なものが良かろうというのは、いったいどういう考えなのだろうか。お賽銭の一円玉が綺麗だろうが汚かろうが、おそらく何も変わらないだろう。お賽銭箱を設置している人だって使用に耐えうるなら気にも留めないだろうし、別に神だってそんなことみているわけがないだろう。そもそも、自分は彼女がどこの、なんという神にお賽銭を投げようとしているのかも知らないのだ。だからこれは本当に、意味のない行為だ。
都合のいいことにレジ周りに他の客は居なかったので、じっくりと考えてみた。その結果、自分について一つの気付きを得た。どうやら自分は、神を敬っているようだ。しかし自分には特に信仰している宗教などはないし、聖書や何やらに書かれている神々の実在もあまり信じていない。ただ、神というぼんやりとした枠組みを敬っている。おそらく神という上位的な存在は、成長の過程で多くの人が得る共通理解で、その理解を得た皆がなんとなく、特にその存在に具体的な形を与えないままで、その存在に敬意を払っているのだ。自分と同じように。
自分以外の人から見ればどうでもいい気づきかもしれないし、意味の分からないものかもしれない。だが自分にとっては、新しい自分の一面に出会えた、魅力的な気づきだった。