今日レジに来たおばあちゃんは、321円の会計で百円玉を3枚と、十円玉を3枚出した。一円玉を持っていたにもかかわらずだった。聞くと、一円玉はお賽銭にするために別に取っておくらしい。確かに、一円玉だけは小さなジップロックに入れてあった。
321円の会計で330円を渡されたならば、レジとして自分は9円のお釣りを渡すことになる。釣銭機が吐き出した9円の内、一円玉が一枚、少し汚れていた。折角お賽銭にするなら、少しでも綺麗なものが良かろうと思い、自分はさりげなくドロアの比較的綺麗なものと交換してからお釣りを渡して、会計はそれで終わった。
もらった330円と、取り換えた1円玉を仕舞いながら、ふと思った。折角お賽銭にするなら少しでも綺麗なものが良かろうというのは、いったいどういう考えなのだろうか。お賽銭の一円玉が綺麗だろうが汚かろうが、おそらく何も変わらないだろう。お賽銭箱を設置している人だって使用に耐えうるなら気にも留めないだろうし、別に神だってそんなことみているわけがないだろう。そもそも、自分は彼女がどこの、なんという神にお賽銭を投げようとしているのかも知らないのだ。だからこれは本当に、意味のない行為だ。
都合のいいことにレジ周りに他の客は居なかったので、じっくりと考えてみた。その結果、自分について一つの気付きを得た。どうやら自分は、神を敬っているようだ。しかし自分には特に信仰している宗教などはないし、聖書や何やらに書かれている神々の実在もあまり信じていない。ただ、神というぼんやりとした枠組みを敬っている。おそらく神という上位的な存在は、成長の過程で多くの人が得る共通理解で、その理解を得た皆がなんとなく、特にその存在に具体的な形を与えないままで、その存在に敬意を払っているのだ。自分と同じように。
自分以外の人から見ればどうでもいい気づきかもしれないし、意味の分からないものかもしれない。だが自分にとっては、新しい自分の一面に出会えた、魅力的な気づきだった。
おばあちゃんの行為を尊いと敬っているんじゃないんや…🥺