ホリエモンやひろゆきやヤマカンやキンコンの嫌味な方やウーマンの目が小さいやつ
あいつらって事あるごとにケチつけてるけど、なんか批判しないと生きていけない呪いでも食らってるのか。
ホリエモンは自分が元犯罪者と言われると怒るくせに、他人にはクズだなんだと侮辱して、
10年くらい前に何かの雑誌で読んだ小熊英二と雨宮処凛の対談の中で
若者がデモに参加すると他のデモへの参加を促されるので定着しにくい、みたいな話は出ていた。
例えば労働問題に関心があってデモに参加すると年上の参加者から「原発問題に関心はあるのか?基地問題はどうだ?憲法は?」と迫られるみたいな具合。
地下の立場がない
なのだが、食べ物の好みの中でもこのネギ嫌いというのはとりわけ肩身が狭いものに感じる。
ニンニクとハンペンが食べられない父も、シイタケと茄子が嫌いな姉も、ネギを食べない私に常々好き嫌いをするなと非難する。鍋の材料を買ってきてと頼まれネギを買わなかった私を、人間として劣っていると批判した友人は、パクチーを食べられなかった。自分を棚に上げているではないか、そう抗議するのだが、彼らはみな一様に、ネギは他の食べ物とは違うのだと言い張る。
成程私は父のハンペン嫌いを大人になるまで知らなかったし、友人のパクチー嫌いを知ったのは彼の嫌味を何年も聞かされ続けた後だ。要するにネギはハンペンやらパクチーやらと違って一般的で食べる機会が多く、故にそれを食べられないというのは異常…ということらしい。
しかし私がネギを嫌悪するのは、その一般的で食べる機会が多い、多すぎるためなのである。外食をすると、どんな料理にもネギが入り込んでくる。口に入れるとネギの味が先ずする。何を食べても先ずネギを感じてしまう。その中には私にとりネギを入れる必要性の分からないものが多い。
魚介で出汁を取った醤油味のおいしいラーメン屋が近所にあるのだが、私は注文の際必ずネギ抜きで頼むようにしている。繊細なスープの風味がネギに壊されることを防ぐためである。
そう、ネギというのは本来独特の風味を持つ野菜であり、その風味は強すぎるのだ。それは禅寺が不許葷酒入山門と碑に刻むほどにである。だから私にも臭み消しとしてのネギの効能は理解できる。だがなぜ然程臭くもない食べ物にもネギを入れてしまうのか…
ネギは栄養価が高いという。しかし、ニラやニンニクなど他のユリ科でも代用できるだろう(ニラ好き)。ネギを入れる理由にはならない。
なんにでもネギを入れるというのは、「ネギは入れるもの」という思考停止に他ならないのではないか?そしてそのように思考を放棄した者が、それに否を唱えるものを弾劾する。まさしくネギ・ファシズムだ。個人の自由と尊厳とを愛する私が、断固戦うべき相手だ。
今こそネギから食卓の彩を取り戻そう。ネギによる支配体制を打倒し、繊細で多様な味わいがそれぞれの個性を発揮できる、そんな社会を目指そうではないか
好きなものを好きでい続けることが苦しくなってきた。
子どもだった頃は、好きなものは理由などなくてもずっと好きでいられたけれど今はそれがとても難しい。
きっかけはあった。私はいわゆるオタクだったのだが、成人してから出会った友人に自分が好きな作品を否定されたことだ。友人は明確な理由を述べてその作品を好きではないと言い、その内容は決して理不尽なものではなかったけど私はそれを好きな自分ごと否定された気持ちになってしまい、そのままその作品を見ることが出来なくなってしまった。
今SNSがとても発達して好きな作品情報をたくさん得られる反面、作品や個人に対する攻撃的な発言も不意に入って来てとても辛い。
私はただ好きなものを好きなままでいたい。
まず「価値観」が何故「価値感」とならないのかについて考えた方がいい。
価値観というのは感覚ではなく観点という事。英語で言うと“feel”ではなく“view”という事。
価値観=観点を評するからには、自分の観点を全体との相対関係において理解している必要がある。初歩的な数学と同じで、点Aの座標を確定するには少なくとも1軸以上の軸と原点(=自分の座標)が必要という事と同じだ。しかも純粋に1軸でもって点Aの座標を確定するには自分(原点)から点Aに向かって直線を引かねばならない。
数学はその直線を引く難しさが省略されてしまうが、現実で相手と自分に直接交わる直線的な価値など引けるわけがない。だからまずは自分(原点)の既知の軸=価値を判断基準にするしかない。ここまで書けば数学が好きな人は判ると思うが、2軸では3次元空間にある点Aを確定する事は出来ない。少なくとも3軸が必要になる。
話を引き戻すと、ここで言う3次元空間というのは世界の価値が3つの軸しか存在しないという事。しかしそんな事はあるはずもなく、我々の世界はおそらくn次元の価値空間なのだ。nが仮に有限であったとしても当面の我々には到底定義しかねる領域なのは間違いない。だとするなら自分が持つ機知の軸を増やしておくに越したことはない。軸が多いほど沢山の観点=価値観を理解できるからだ。
翻って、普段の会話で「こう思う」とか「こう感じている」と表現する事で「価値観が合わない」とか「価値観がぴったり」などというコミュニケーションが多々あるが、これは価値観=座標の表明なのだから、そこで止まらずに自分の座標軸を駆使して相手の座標軸を理解できるチャンスなのだ。
しかもその座標軸は自分が通らない座標軸であっても自分の座標軸との相対関係から間接的に価値観の評価に利用できるようになる。これは単に理解の幅が広がるというだけでなく、自分の価値観が相対的に他者の価値観にとっても重要になるという事で、つまり自分自身の存在価値の向上につながる。端的に言うと、博識な人間や人脈が多い人間が何故重宝されるのかという事に近い。
私は常々こう考えるので、価値観が合わない事に本能的ストレスは感じるが、探究心を掻き立てるものであるので、むしろそうした状況をどこかで望んでいる節もある。
>すごく納得いく
はてなブックマークの連中も含めて、チョロい。
一連の記事には「実際に在籍していたんだな」と思わせる具体性があった。
しかし「某ゲーマープロ団体を辞めた(anond:20181217093803)」の退職エントリには、それが無い。
実際に在籍していたと思わせる知見も無い。