2018-12-19

ネギが嫌い

なのだが、食べ物の好みの中でもこのネギ嫌いというのはとりわけ肩身が狭いものに感じる。

ニンニクハンペンが食べられない父も、シイタケ茄子が嫌いな姉も、ネギを食べない私に常々好き嫌いをするなと非難する。鍋の材料を買ってきてと頼まれネギを買わなかった私を、人間として劣っていると批判した友人は、パクチーを食べられなかった。自分を棚に上げているではないか、そう抗議するのだが、彼らはみな一様に、ネギは他の食べ物とは違うのだと言い張る。

成程私は父のハンペン嫌いを大人になるまで知らなかったし、友人のパクチー嫌いを知ったのは彼の嫌味を何年も聞かされ続けた後だ。要するにネギハンペンやらパクチーやらと違って一般的で食べる機会が多く、故にそれを食べられないというのは異常…ということらしい。

しかし私がネギ嫌悪するのは、その一般的で食べる機会が多い、多すぎるためなのである外食をすると、どんな料理にもネギが入り込んでくる。口に入れるとネギの味が先ずする。何を食べても先ずネギを感じてしまう。その中には私にとりネギを入れる必要性の分からないものが多い。

魚介で出汁を取った醤油味のおいしいラーメン屋が近所にあるのだが、私は注文の際必ずネギ抜きで頼むようにしている。繊細なスープの風味がネギに壊されることを防ぐためである

そう、ネギというのは本来独特の風味を持つ野菜であり、その風味は強すぎるのだ。それは禅寺が不許葷酒入山門と碑に刻むほどにである。だから私にも臭み消しとしてのネギ効能理解できる。だがなぜ然程臭くもない食べ物にもネギを入れてしまうのか…

ネギ栄養価が高いという。しかし、ニラニンニクなど他のユリ科でも代用できるだろう(ニラ好き)。ネギを入れる理由にはならない。

なんにでもネギを入れるというのは、「ネギは入れるもの」という思考停止に他ならないのではないか?そしてそのように思考放棄した者が、それに否を唱えるものを弾劾する。まさしくネギファシズムだ。個人自由尊厳とを愛する私が、断固戦うべき相手だ。

今こそネギから食卓の彩を取り戻そう。ネギによる支配体制を打倒し、繊細で多様な味わいがそれぞれの個性を発揮できる、そんな社会を目指そうではないか

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