スパゲッティとか好きなんだが、あまり作らない最大の理由は「乾燥めんが長すぎるから」なんだよね。
片手鍋だと無理な長さ。
大きな鍋だと沸騰に時間がかかるし、取り回しも悪く、洗うのも面倒くさい。
ショート麺や麺を折ってもいいけど、そうすると食べるときに短すぎて具合が悪い。
インスタントラーメンみたいに、片手鍋に適したサイズになるようにグネグネに曲げて纏まってれば、今の3倍は売れると思うんだがね。
そばとかうどんも同じ。(そばうどんは一応あるっちゃあるが、あの麺はいわゆる乾燥麺のそばうどんとは別物な気がする。)
「片手鍋で作れるか」というのは、俺みたいな一人暮らしにとっては大きな差異なんだよ。
最近24㎝の雪平鍋という強力な片手鍋を買ったから、そばやうどんは片手鍋の範疇に入ったけど、スパゲッティはこれでも無理。
つまんない所で損してるもんだなと思う次第。
他人が不特定多数に向けてやっていることを自分一人の不快感だけで止めさせようとする神経ってすごいな。
なんで自分がその不特定多数に該当しなかっただけだと思わないんだろう。
自分にとって不快なものが送り手と受け手の間で流通してることすら気に入らないんだろうか。
https://anond.hatelabo.jp/20170818192110
「誕生日を祝うのが当然」っていう意見が多いんだけど、そういう習俗のない家庭もあるんじゃないの?
はあ?頭ダイジョブ?お薬飲んだほうがええよ?
ディズニーの映画を見たり遊園地に行ってあそぶ暇があるなら、この社会から差別をなくすために活動するほうがいいよね?
それが最も正しい態度なのに、なぜそうしない?
ディズニーとその支持者って、たかが娯楽の分際で、なんでポリコレを気取っているんだろうか。
娯楽を作るやつも、そういうのを楽しむやつも、どっちも政治から逃避しているじゃん。
お前らって金儲けをしたり、おもしろおかしく遊んでいるだけだよね?
社会を良くするためなんかじゃなく、わがままな欲求を満たすためにやっていることなのに、なんでそんなに偉そうなんだよ?
なにがポリコレだ。ふざけるな。
元増田です。ただのぼやきにこんなにブコメがつくと思ってなかった!ありがとうございます。
色々雑な内容で分かりにくいのが申し訳なくて追記しにきました。
例えば、1年後の大会までにフルマラソンを走破するという任務が与えられたとします。
■ゴール(最終到達点)
・1年の間に、フルマラソンの42.195kmを体を壊さずに走破できるようになること
■現状把握(のために走ってみると)
・1km8分ペースで、3km走るのが限界であった
現状のままではクリアできないことがわかったので、42.195kmを走破できるようになるまでどのようにトレーニングを積み重ねていくかの計画(戦略)を立てる。なんですけど、
ランニングに関して知識経験ともに豊富であれば、ゴールのために必要な計画が立てられるんですが、
知識経験がない場合は着実に目標に近づけるトレーニング計画なんてすぐに作れないので
・お金をかけて、プロのトレーナーに練習メニューを作ってもらう
など、自分で知識を仕入れる / 知識経験豊富な人に助けてもらい、練習計画を立て→トライアンドエラーを繰り返してしてみて、状況に合わせて計画を変えていくということになると思います。
とはいえ、
を判断した上で、
念のため、相手に無理強いはしていません!
(1)若いうちに稼いで自分の店を持ち、オーナーとなって若い美容師を使う立場になる。
(2)一般客を相手する美容師で修行を積んだのち、スタイリストに転身。
(3)一般客を相手する美容師で修行を積んだのち、夜の嬢専門の美容師となる。
(4)若い頃は美容師として経験を積み、老けたら床屋やクイックカット店に転職する。
私の知る範囲ではこんなところかな。
美容師学校時代は(1),(2)を夢見て就職するも、いかんせん、接客業なので若い人しか需要が無いのよね。
年取ってくると契約更新されずにクビになるので、若さを求められない(3)(4)になる。
それもままならない人は、別の業種に行くしかない。
あほか。周囲の研究者が知らないだけで、人事には全部見えているに決まっているし、そういうのも考慮して人事しているに決まっている。
つまるところ、元障害者の人間は、この国には必要とされていないんですよ。まぁ、私がすねているだけなのかもしれないが、すねる原因は元障害者である事なのだから、やはり、そういうすねる要因を持った人間は要らないという事で、かわりはないですね。
せっかく助かった命だが、俺が生まれた時に親はまだ30代前半で、もう一人産もうと思えば産める年齢だったが、俺が病気で生まれたことで、俺は一人っ子になった。
そして、俺には大した才能もないようだ。俺の病気は遺伝しない。
計算してみよう。俺が生まれてきた事で、社会は重度心臓病患者を一人ゲットした。
しかし、俺が幼児期に死んでいれば、親はもう一人子供を作って、その子は99%以上の確率で健常者であっただろうから、社会は健常者を0.99人ゲットできたはずだ。
どう考えても、これは、俺が生まれてこない方が社会にプラスになったのではなかろうか。
なぜ、世の中の人は、自分が生まれてくる世の中の方が無条件に良くなると信じられるのか。そうやって無条件に信じるのは、傲慢ではないのか。あなたが物心付く前に死んでいた方が、社会は少し良くなったかもしれないのに、なぜ、エビデンスも理由付けもなく、自分は生きていて当然みたいな顔をしているのか。それが腹が立つ。
自分が死んでいた方が少しは良い社会になったはずだと確実に信じられる私みたいな事情があれば、生まれた罪を自覚するのではないか。生まれてこない方がよかったのに生まれてきてしまった罪を持っている人は、私だけではないはずなのに、なぜ、正しい罪悪感を持って生きているのが私だけなのか。それが納得がいかない。
健常者の中にも、生まれてこない方が社会が良くなった可能性があるのにもかかわらず、生まれてきてしまった罪人がいるはずだ。なぜ、罪人としての自覚を持って生きる人がこれほど少ないのか。なぜ、自分が罪人であると理解している人がこれほど少ないのか。なぜ、社会は私だけを罪人扱いして、健常者を罪人扱いしないのか。健常者の中にも、罪人がいるはずなのに。
私は生まれながらの罪人であることに自覚的に生きてきたし、そのための償いも社会に十分して、働いて還元してきたはずだ。私は生まれた罪を償った。もっと、生まれながらの罪人を探し出して、引っ張り出して、働かせて罪を償わせる仕組みを社会に実装していかなければならない。
生まれながらの罪人を探し出して、引っ張り出して働かせて社会に貢献させることこそ、正義だ。私が苦しむのは正義。これを読む、生まれながらの罪を持たない無垢な人が私を苦しめるのも正義。無垢なのに私を苦しめないのは不正義だし、生まれながらの罪人なのに罪を償わないのも不正義だ。私を苦しめない大多数の人間は不正義だ。
動けない