101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/17(金) 17:47:48.00 ID:iqLZQfBt
虐待されてる可哀相な子役なんていません!好きでやってるんです!
慰安婦は商売でやっていた売春婦なので謝る必要なんてありません!
同じじゃん
Registry Booster などで一部に有名らしいUni blue社の広告がまたVectorに出ていることに気が付きました。
SpeedUpMyPcなるものの宣伝のようです。「無料スキャン」「パンダ」「ベクターのダウンロードリンクに似た“今すぐスキャンを開始”」云々…。
物事を行う基礎体力を実力と考えるのであれば、それは努力によってのみ涵養される。
やりとげねばならぬ、という物事への責任感が、一つの仕事を完遂させ、実績として計上出来るようになる。
他者と関わる機会が増えると、大きな苦労を伴うことも多いが、それにより人格は陶冶される。
そもそも情報が正しくなければ正しい判断を行うことは出来ない。判断力には情報の取り扱い能力も含まれる。
こんな感じか?
http://diamond.jp/articles/-/23352
これ読んだ。
俺の生育環境がまさにそうだった。父親とは6歳くらいのときに死別、当時の金で200万以上の借金が残り、母親は返済地獄で、朝は新聞配達、そのあとは事務職で働き詰め。そのストレスの反動からか男関係は派手になっていく一方だった。自力で借金を返したのはずいぶんと偉かったのだな、といまになれば思うものの、男関係はどうにもならないくらい破綻し、最後には地元を飛び出ることになった。
当地での生活は30年前なりの極貧といってよかったと思う。子供のころは文房具すら満足に買ってもらえず、道端に落ちていた新品に近い鉛筆を拾って喜んでいた記憶が鮮烈にある。かろうじて食うものは食わせてもらえたが、子供のころの俺の心配は、主に「母親が消えたら食うものがなくなる」ということにあった。実際その心配は別に子供らしい杞憂ということでもない。連絡なしに一晩帰ってこないことはそこまで珍しいことではなかったし、とても現実的なものだった。
低所得者向けの公営住宅では、周囲の環境も似たようなものだった。知的障害のある子供を抱えた過程が極端に多かった。そもそも両親揃っている家庭が珍しい。昨日までいた子供が今日いなくなっている、ということは少なくとも数回あって、そのうちひとつは船から落ちたとのことだったが、どこまでが事故だったのか、そのことはよくわからない。ご多聞に漏れず、家のなかではふつうに歩いているのに、外では足を引きずっているような人も多かった。
逃げるような状況で都会に出てきて、家は狭かった。家族4人で二間で生活するような状況で、俺はひとり暮らしを始めるまで個室というものを与えられたことがない。中学の進路相談では「うちの子供を高校に行かせる気はない」と出し抜けに言われて、俺は呆気に取られた。
成績は悪くなかった。勉強らしきことをほとんどしたことがなくても、余裕で公立の上位校に行けるだけの学力はあった。頼むから高校は行かせてくれと親に頼んだときのことはよく覚えている。
環境というのは、与えられればそれが「あたりまえ」になってしまう。俺にとって、勉強をするというのはなにもプラスのことではなかった。本が好きな子供だったが、うちでは本を読むのはむしろ「悪いこと」に属した。高校に行くことに関して親が前向きでなかったのもあたりまえのことで、それは金がかかるからだ、という事情もよくわかっていた。そして頭を下げながら、それでも俺は少しだけ思った。
「なんでみんなあたりまえに高校に行くのに、俺はこんななんだろう」
進学した高校は、公立中位くらいの、大学に行く人間もいない人間もいる、くらいの高校だったが、その程度の高校とはいえ、俺は成績トップクラスを維持しつづけた。学校は嫌いだったが、勉強は嫌いではなかった。テストで点数を取るのはおもしろかった。国公立の四大への推薦という話もあったが、それは出席状態の悪さで消えた。
大学に進学しなかったのは、経済的に無理だった、というのもあるが、それ以上に俺自身にまったく進学する気がなかった。18年も学校というものに通って、このうえさらに4年も通う気にはとうていなれなかったからだ。
さらにいえば、俺の周囲に、俺を大学に行かせようとする人間がだれもいなかった。奨学金なんて制度の存在も知らなかった。大学に行けばどんなことがあり、その先の進路にどういう違いがあるのか、だれも説明できる人はいなかった。で、その当時の「大学」というものの通念は「4年間遊ぶところ」というもので、それを信じた俺は、だったら別にそういう場所には行かなくてもいいと思った。
つまり、俺にとって、勉強というものは「なんの意味もないもの」でありつづけたわけだ。学ぶ内容はさておき、基本学力というものがいかに重要であるか、そしてなにより学力をつける方法論を知っていることがいかに大事なことかを知ったのは、実際に自分と似た境遇にあった高校生たちを見るようになってからのことだ。
それでも俺には「読書」という方法があった。気がついたときには活字中毒といっていいくらいの本好きだったから、この世界に甚大に蓄積されている知の体系に触れる方法だけは知ることができた。たぶんなんだかんだで成績を維持できたのも、読書の習慣があったからだと思う。
小学生のころ、ゴミの日にはよくゴミ捨て場を回った。学校の図書室の本は読み尽くしてしまった。公立の図書館は子供が行ける場所にはない。それで、捨てられている雑誌を探した。活字と名がつけばなんでも読んだ。家に持って帰れば親に捨てられるかもしれない。隠し場所には苦労した。自分には未来があるなんて完全に想像の外だった。いま、そのとき本が読めればそれでよかった。
人格は知らんが、研究者としての能力も相当微妙だったみたいだから、
あれは一生働かずに遊んで暮らしてくれるのが一番良かった。
全然優雅じゃねえか!(小並突)
ちょっとした不調に動転することなく
これまで通り優雅に暮らしてください。
ブルジョワジーの義務っていうのは優雅に暮らしておくことだと思う。
鳩山ポッポみたいに居場所を間違いだすと、ヘタに金の力があるだけに被害甚大。
私は産まれ持って運が良い。いや、良かった。
父親は建築家、母親は音楽家の家で、世田谷にある比較的大きな一軒家に産まれ、私立の幼稚園に行かされ、小学校は両親が「ずっと私立では現実が見れないから」と公立に行かされたのだが、中学高校はエスカレート式の某有名私立進学校へ。大学はアメリカの某校。母親の影響で小さい頃は音楽の道を目指しはしたが、大学でコンピュータサイエンスの分野に触れ、魅了され、その手の博士号も取得した。
正直、そこまではほとんど何の苦労もしなかった。ぶっちゃけた話、少なくとも中学受験はおそらく裏口だったんだと思う。勉強をせずに遊んでばかりいたので試験問題の半分も分からなかったから。来てくれていた家庭教師の先生、ごめん。
お金にも困ったことはない。幼稚園小学校の頃は1日1000円持たされていたけれど、お金の使い道も特にないし、駄菓子屋的なところで使ってもお金は無くならないし、何に使ったら良いか分からなかった。中高では銀行口座を作ってもらい、必要な分だけ自分で引き出して使うように言われていた。その口座の預金額が7桁を切ったことは今まで一度も無い。渡米し大学に入り、初めて持たされたクレジットカードも数字が15桁の黒色だったし、大学の寮に入ることもなく、大学から少し遠くはなるが郊外にある丘の中腹に、プール付きの一軒家(これは流石に中古だったが)と、新車を買いそろえて貰った。友達と飲む時はいつもオゴっていた。自宅で派手な乱交パーティをしたときは警察が来たが、いくらかお金を払って見逃してもらった。というかその警察官も参加したかったようだった(お金を渡したあと、しばらく居座り、ニヤニヤしていた)。
そして昨年の頭に帰国した。父親の具合が悪くなり、3ヶ月に1度ぐらい日本の実家に帰ってきていたので久しぶりの日本という訳ではなかったが、親の体調の事も考え、日本に戻ってきたのだ。母親もあまり日本に居ることが少ないので私が父親の面倒を見ることにした。特に余命宣告されているとか、そこまで悪い訳ではないのでのんびりしたかったというのもあるが。
日本で何もしない訳にはいかないので、コンピュータサイエンスに秀でたいくつかの大学研究室に問い合わせ、研究員を探していないか、という旨を伝えるも全て空振り。どこも「足りている」らしいのだ。
仕方ないので外資系のIT企業にいくつか在籍などしてみたが、どうにも上手くコミュニケーションがとれず、どこも1ヶ月ほどで転々する生活を送っていた。
固定のお付き合いしている女性はいなかったが、寄ってくるのはいわゆる玉の輿を狙っているアラサー女性ばかり。パーティなどを開いてもつまらなかった。
結局、日本に帰ってきてもう一年半が経つが何も生産的な事が行えていない。自宅でアメリカの教授とSkypeでやりとりをしつつ研究開発を行ったりはしているが、無報酬だ。一度だけ出版社から書籍を執筆しないかと依頼が来たが断った。マネービジネス本を書けるほどの経済への知識も無い。
そしてこの半年ほど、母親が日本に帰ってこない。ネットの某掲示板ではヨーロッパで素敵な男性とよろしくやってるなどという噂もあるようだが、真相は分からない。
そうですか、あんまり興味ないのでそこはお好きにどうぞw
25で立たないのはさすがに病気じゃね?