はてなキーワード: アンドレア・ドウォーキンとは
はい。
ミサンドリーは女性差別に対する正当な反発であって、ミソジニーとは根本的に違うものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC
「文化人類学者デヴィッド·D·D ギルモアは、ミソジニーが「ほとんど普遍的な現象」である反面、反男性的な社会制度を持つ伝統的な文化や組織的かつ一般的な反男性的な思想が浸透している例が世界的に見られないことから、男性に対する社会的な憎悪にミソジニーと相当するものはないと論じる[15]:10-13。 ギルモアは、アンドレア・ドウォーキンのように全ての男性を同一で絶対悪であると考える急進的な派閥が中にはいることを認めつつ、一般的にミサンドリーと称されるものは個人の男性に対する憎悪ではなく、伝統的な男性の役割やマチズモに対する憎悪を指すと理論立てた。すなわち、ミソジニーが女性の信条や行動などに関わらず、女性性に対する独立した憎悪であるのに対し、一般的にミサンドリーと称されるものは社会的な関係の中における男性の行動、態度などに対する嫌悪だとする(ドウォーキンのような急進的な立場はこれには当てはまらないとしている。」
本当の女社会の中ではキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンのような自立して男をはねつけるタイプが頂点に君臨することが多い。
フェミニズムの視点では「胸の大きい女性を転職情報のPRに起用する」のはまずいようだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/yomogidango0909/status/1218363032004329478
上記のような意見を「本当のフェミニズムじゃない」と感じるとしたら、それは間違いである。
それどころか、現在の日本のフェミニズムの主流やアカデミズムの主張から必然的に導かれる結論である。
このような意見はいわゆる「性的モノ化」(あるいは性的客体化、対象化)の議論に立脚している。
フェミニズムを専門とする社会学者小宮友根と、宇崎ちゃん問題の時にイラスト付きで不適切さを分かりやすく解説していたふくろさんによる以下の記事を読んでみよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
性的な女性表象の持つ差別性は、フェミニズムの中では「性的客体化(sexual objectification:対象化やモノ化と訳されることも)」の悪さという観点から議論されてきました。
(中略)
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
最初のツイートでの「女性や性的記号を利用してPRする」ことへの批判は、上記のように、女性を性的記号に還元するような悪さへの指摘として正当化できる。
なお、上記引用にもある通り「エロいから悪い」「胸が大きいから悪い」のではない、あくまでそれが表現の中で強調されるなどして、記号として利用されることがまずいのだ。
このように(ブコメでは散々な言われようだが)ツイートの批判は、実はフェミニズムとして至って正気の批判である。
ところが、そこにまずさがある。
フェミニズムがこのような批判を正気にし得るということは、フェミニズムは、時と場合によっては(件のPRのような)本人の意思に基づいた女性の行動や社会活動をも批判し得る、ということだ。
ここで一足飛びにフェミニズム批判に走ってはいけない、まずはそのような主張がどのようにして正当化されるのかを考えるべきだろう。
例えば仮に、件のPRの立案者からカメラマンからモデルに至るまで、すべて女性がやっていたとしても、フェミニズムはそれを批判する必要がある。
女性もミソジニーを持ちうるし、性的記号の不正利用も行える、レズビアンの場合を考えれば女性を性的に欲望し消費するケースもあることも分かるだろう。もちろん男性との共犯関係もあり得る。
行為者が女性であることで(男女の非対称性から)悪さを軽減することはできるかもしれないが、免除することはできない。
ここで問題になるのは主に以下の2つ。
1.女性イラストレーターや女性漫画家のような表現者が女性をモノ化して表象する場合の扱い
2.キャンペーンガールやグラビアアイドル、AV女優、風俗嬢等が、自身の身体を「性的な客体」に還元する場合の扱い
件のPRは2に該当する訳だが、その悪さはともに「性的モノ化」によって説明できる。
つまり表現であれ自分の身体であれ、女性を性的にモノ化、客体化することが悪いのだ。(※1)
ここで「1はともかく2は自分の身体、自分の意志でやってるんだからいいじゃないか」「被害者はいないじゃないか」と反論するならそれは間違いである。
直接的な被害者がいなければいいのであれば1も、宇崎ちゃんやその他のあらゆる表象も問題化できなくなってしまう。
問題は、モデルのいないイラストであれ、合意済みの女性自身の身体であれ、「女性」一般に対するイメージを歪めたり利用したり、モノ化できてしまう、その悪さなのである。
こう言い換えてもいいだろう、「女性」のイメージは女性全体の言わば共有財産なのであり、イラストも女性自身の身体もそれを傷付け得る。
例え女性個人が合意していたとしても、それ以外の合意していない女性へもダメージが波及するために、女性の身体を性的にモノ化することは許されないのだ。
従って、個々の女性の身体や女性の表象もまた、女性全体の共有財産だと言えるし、共有財産である限り、個々の女性が(集団の意に背いて)それを好き勝手にすることは許されない・批判される必要があるのだ。
このようにしてフェミニズムは、女性に対するある程度の自由の抑制や批判、そしてそれによる全体主義を正当化できる、できてしまう。
このようなフェミニズムの在り方に対して、フェミニズム自身による更新は難しい。
何故なら上記のような論理は「性的モノ化」のような基礎的な概念から論理的に導出できる以上、その更新はフェミニズム全体を大きく変えざるを得ないし、
その過程で、これまでのフェミニズムが批判しえていた(主に男性たちの)行為や現状を批判不能にせざるを得ないようなケースも出てくるだろう、そうしたことは、多くの女性やフェミニストにとって受け入れがたい。
あるいはアカデミズム側のみのマイナーな議論としてはそのような更新も期待できるかもしれないが、運動としてのフェミニズムにそれを輸入することは恐らく出来ないだろう。
例えば件のツイートに対しても、フェミニズムによる(その女性の身体を共有財産化する全体主義的な傾向に対しての)批判は期待できない、という事からもそれは分かる。
こうした問題を、フェミニズムはこれからも抱えていかざるを得ない。
そしてそこから目を逸らし続けないわけにはいかない、例えそれが欺瞞でも、解決する能力がない以上は。
ほい、屏風
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68864
フェミニズムの専門家・社会学者である小宮友根氏とふくろさんの記事。
表象の「悪さ」について、たとえば「子どもがマンガの中の暴力的な行為を真似してしまう」とか「広告に表現された差別的な価値観を身につけてしまう」といった「現実への悪影響」とは違った水準で考えよう、ということでした。
とあるように「子供への影響」はここでは主題ではない。そしてゾーニングの問題もここでは語られていない。
(付け加えれば、あなたの論法は性的モノ化の悪さが「子供への影響」や「棲み分けの不十分」に“のみ”起因する場合にしか使えない。例え子供に見えないように棲み分けても、別の原因で悪いことになればあなたの主張は意味をなさないのだから)
さて、この記事では性的客体化について、「「エロいから悪い」という考えとはまったく違う」とある。中身を見てみよう。
たとえばポルノグラフィ批判で有名なキャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンが繰り返し主張していたのは、ポルノは「わいせつ(性欲を刺激するもの)」だから悪いのではない、ということでした。マッキノンたちのポルノグラフィの定義には、女性が「人間性を奪われ」「辱めや苦痛を快楽とし」「性暴力によって快感をおぼえ」「特定の身体部部位に還元される」ような「性的な客体として提示されている」という項目が含まれています。要するに、女性を「性的な客体」として提示することが悪いと考えられているのです。
で、これらの条件に該当するなら、たとえ「少年誌じゃなく棲み分けた、規制された成年誌」でやってたとしても悪い、というのが彼らの主張なわけです。
ね、わかったでしょ。
もし上記のように表現の性質によって性的客体化の悪さを定義しておきながら、非難された途端あなたのように「ゾーニングすればいい」とまったく違う論点を持ち出すなら、それは「自分たちにとって都合が良いか悪いかで主張を変え、「何が正しいか、間違ってるか」には興味がない。」以外の何物でもないわけです。
記事の後半ではふくろさんによるイラスト付きの解説がついてるからじっくり読むといいよ、
女性エロ漫画家の表現がここでの指摘に当たらないと主張したいなら、あなたは単なる恥知らずだとしか言いようが無い。
ところでこの記事の最後にある「法規制より論争を」という主張には私もある程度同意だ。
「論争」というからには互いの主張に論理的検討を加えることになるわけだが、「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」というのはまさに、フェミニズムがその一部として持つ「性的モノ化」という論点が論理的に女性エロ漫画家を肯定しえない構造をもっている、という指摘にあたる。
このように論理的検討というプロセスを経ていくことで、フェミニズムは前に進むのであって、指摘や批判をただの悪意だと見誤ったり、「女性エロ漫画家をみてびっくりしてるだけ」などと貶めて、フェミニズムを一切批判されえない神聖不可侵なご神体にすることによってではないんだよ。
彼らの議論は時期的に宇崎ちゃんを「性的モノ化」によって批判可能にする目的もあるだろうから、当然この批判はエロ漫画だけじゃなく一般漫画も射程に入るものとしてつくられてる。
従って女性エロ漫画家だけでなく、多少なりとも女性を性的に対象化するような技法を用いて描く女性漫画家もその批判対象に当然なる。
そういう意味では「フェミニズムは女性エロ漫画家を肯定しえない」でも生ぬるくて、「フェミニズムはほとんどの女性漫画家を肯定しえない」と言った方が正確な可能性もあるね。
Cornellの議論は、ポルノグラフィの危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィは男性をレイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプを輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティの世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的な手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつの表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別は同義語なのである。彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語と行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィが性差別そのものであるという一種のイデオロギーに依存した議論に対する批判そのものである。
もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉を制限的に定義することによって、そうした一般的な議論ではなく、特に女性に対して酷薄なもののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象の問題は不可避であり、言語と行為を限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制の根拠は果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語と行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり、日本におけるポルノグラフィの製作が必然的にそうした女性虐待を表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィの表象が必然的に(fuckerとしての)男性をレイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性の従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。
また、Cornellの依拠するポストモダン・フェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判の対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズムの根底的目的に対して、一定の文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムにコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまり、ポルノグラフィの規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性と被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである。
そもそも、ポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから、女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定の勢力として存在していた。これらは全く女性が使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィの概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性の性的欲望、セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたことからの解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタな二項対立の接続が否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリームは男性が製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリームは男性向けであって、女性向けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィが必然的に男女を社会的に構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。
4. 結び
前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダン的フェミニズムの見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理はポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。
日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定の表現について規制を肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史を判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィの規制は道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制を検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳を可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害が現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からのアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制を正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノ派フェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニストの議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり、特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念が同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。
こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴである。さらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在の規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力や虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段が妥当であるかが問われるべきではないだろうか。
一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制の対象となるのではなく、むしろ一つの「職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知が必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的に正業であると認知されることは、その「職場」におけるハラスメントや虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーン・ハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。
以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。
参考文献
・キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン著 中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィと性差別」(青木書店, 2002)
・ドゥルシラ・コーネル著 仲正昌樹監訳「イマジナリーな領域」(御茶の水書房, 2006)
・大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)
・キャサリン・マッキノン著 森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)
アンドレア・ドウォーキン曰く「すべてのセックスは強姦である」だそうですよ