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2023-04-02

花畑住人の罪深さ

本当にcolaboを貧困女性を救ってる善意団体だと思ってるならただの情弱だし

colaboの実態を知ってなお擁護してるならイデオロギーのために弱者を切り捨ててる酷薄無情な人間だな

2023-01-04

anond:20230104111348

事情が明らかになり、逆に怒る父母に「あん酷薄なことを言える女と夫婦で居られるか」と、怒りが収まらない兄だが

「そんな冷たい人の世話になりたくなんかないよ」と母に言われて、明らかに萎んでいく。

ここでいう冷たい人とは、兄のことではないのか?

嫁の迂闊な一言激怒して離婚しようとする兄のことを母っから冷たい人だと言われたから、萎んでいくわけでしょ?

2023-01-03

年始早々、兄が離婚しそう

父が入院することになった。期間は数か月に及ぶかもしれないってくらいの長期らしい。

その間、健康に自信のない母は一人では不安があるらしく、家族の中の誰かが引き受けなくてはって事になった。

入院する父の世話もあるので、家族間の役割分担も必要になる。

これは流石の家族間の仲は悪くない我が家でも少しは揉めるかと思ったら、母の「どこかでしばらく置いてもらえない?」との問いに

長兄の「じゃあ、うちにおいでよ。久しぶりに母さんと一緒に暮らせるのは嬉しいよ」で一決。

親の金婚式に贈り物をしたり、海外旅行に連れて行ったり、家族思いの兄は兄妹が揉めてるところすら父母に見せたくなかったんだろう。


それで収まらないのが兄嫁。

同居は嫌だ、と父母が出かけたタイミングでのたまう。

「たった数か月じゃないか、生涯ずっととは言ってない。親孝行させてくれよ。」

と優しく頼む長兄。しかし、兄嫁は首を縦に振らない。

しばらくは優しく頼み込む兄に対して

「私と義母さん、どちらが大事なの?」と兄嫁が言った瞬間に、兄の顔が憤怒のそれになったのが、わたしには分かった。

兄が怒ることなんて滅多にある事じゃない、ただし、一度怒らせると父ですら手が付けられないほど頑固になるので、この先の展開が予想出来て肝が冷えた。

案の定、数年前に晩婚で見合い結婚した長兄には子供もいないのが災いしたのか「分かった、なら別れよう」と。

「お前の代わりになる人は見つかるかもしれないが、両親の代わりはない。お前が、どちらかを選べというなら、俺に悩む理由は全くない。

別れよう。そんな残酷選択肢を突きつけるお前には、用はない。」

この一言には、兄嫁も衝撃を受けたようだ。

年始早々、どうなっちゃうんだろうな・・・

追記

こんなものバズると思わなかった(笑

事前に相談ってコメントがあったけど、出来るはずない。だって帰省するまで、そんな話一切なかったしね。

「じゃあ話し合って決めます」って言うよりも「うちに来い」って言えちゃうのが、何でも先陣切って行動する兄らしさだと思ったくらい。

さて、その後。

怒った兄は全く手に負えない。勝手に怒りが収まるのを待つしかないが、母と既に故人となった前の兄嫁だけは、その怒りを治められる。

あとは母を待つしかないと私はお手上げ状態だった。

「兄嫁子さんは、1月中に家を出てください。結婚前のご自身資産と、結婚後1年強で二人で蓄えた500万ほどは、全額をお持ちください。

引っ越し費用引っ越し半年家賃は私のほうで出しましょう。結婚後に購入したもの必要ものがあれば、全て持って行ってください。

から洗濯機に至るまで、全て差し上げます。」敬語とか、完全に切り捨てモードはいってるなぁと戦慄している私たち妹。

おそらくだけど兄は結婚前に作った相当な資産と、前の結婚時に購入した持ち家がある。

成人した親族に祝いでバイクを買ってあげるくらいには経済的な余裕もある強者だ。

その立場から一方的に追い込んでくる兄の怒りを、故人なら宥めることが出来たと思うけど、兄嫁はオロオロするばかり。

「謝ったほうがいいですよ・・・」って、わたしは言ったが、固まってしまって手もない様だった。

そうこうしてる内に親戚へのあいさつ回りから戻ってきた母が、兄が何かに怒ってるらしいことに気づく。

正月早々に、どうしたの?」と尋ねる母、「何もないよ」と空とぼける兄。

まさか、私のことで兄妹喧嘩でもしたんじゃないでしょうね?」、「まさか。それで喧嘩になんてなるはずがない」と兄。

「「わたしたち」は、喧嘩してないけど」せめてもの援護である

「じゃあ夫婦喧嘩でしょう」と言うと、「喧嘩じゃないよ」と逃げる兄。

そこで感づいて「兄嫁子さん、何があったの?」と母。

事情が明らかになり、逆に怒る父母に「あん酷薄なことを言える女と夫婦で居られるか」と、怒りが収まらない兄だが

「そんな冷たい人の世話になりたくなんかないよ」と母に言われて、明らかに萎んでいく。

そんな感じで家族に対しては兄の怒りは長くは持続しないしから、兄嫁さんはまだそこまでの関係でもないのだろう。

そうした顛末を経て、兄嫁と母の間でも話がもたれ、改めて兄の家に母が厄介になることで落ち着いた。

流石に一方的離婚危機を纏めてもらっては、頭が上がらないといったところでしょう。

でも、まぁ、遅かれ早かれ離婚するでしょうね。そうならなかったら、この先の数か月の母の働きに兄嫁は感謝すべきだと思う。

2022-12-04

anond:20221204154146

これを読んで、ふと、戦後孤児達の記録を思い出した。

第二次大戦末期、日本中都市焼夷弾で焼き払われていた頃。

家族必死で守るべきは子どもであった。

瞬く間に燃える家で、多くの親が、子どもかばって焼死した。

そして、焼け出された大量の孤児が発生した。

そして孤児でも女の子例外なく、誰かにもらわれていった。

この世界の片隅に」のラストシーンですずの家族女の子孤児を引き取るシーンを覚えているだろうか。

もし彼女が「男の子」だったら、拾われることはなかっただろう。

地方都市男子孤児は誰も見向きもしなかった。

みな生きていくために東京へ、そして上野に出てきた。

男の子に対して、警察は冷たかったが、女の子孤児には寛容だった。

そのため、生きていくために女装をした孤児が多かった。

そして少女として体を売るため、真っ暗闇の中、指で輪っかを作ってアレを偽装した。

今では信じられないかもしれないが、それでも大人が騙されるくらい、上手な子が多かった。

孤児少年達はヤクザ構成員の格好の草刈場にあった。

そして幼少時の過酷体験は、極めて酷薄性格を作り出した。

こういった人々が一線を引くまでの戦後のおよそ40年間、日本は色々な場面でそのツケを払い続けた。

2022-11-20

今更「涼宮ハルヒの憂鬱」を観た感想

【以下気になった点】


・話はスカスカ。これは「涼宮ハルヒアニメシリーズ全般に言える事だが、作品本質は単なるボーイミーツガールSFのフリをしたトッピングふりかけただけ。

中学生妄想のような主人公に都合の良い疑似ハーレムぬるま湯を、引き延ばしと誤魔化しでアニメ変換しているだけ。

原作は未読だが、まぁお察しレベルと拝察。英才美女ハルヒに強引に迫られて疑似ハーレムに放り込まれる状況を、ひたすら「やれやれモノローグで繋ぐお寒い展開をテレビシリーズ同様引っ張りまくる。

全く進歩していない筋運びでウンザリ山本監督に指摘されるのも頷ける。


・ついでに言うとキョンは恐ろしく(作者と製作の都合良くエロゲ主人公が如く)鈍感かつ頭が悪いので、異常事態に陥ってからの空回り=尺稼ぎの時間が異常に長く、これまた視聴が苦痛

別に長門からの栞のヒントが無くたって、SOS団全員にコンタクトを取ろうとくらい、普通するよな?元々世界不安定だって知っているんだし。


さらに本作は、要するに長門ハルヒヒロインを選べ、という状況に主人公が迷いなくハルヒを選んだ挙句

フッたはずの長門に「お前も好きだからな?」「命かける」と鈍感パワー全開ドヤ顔酷薄(告白)する話で、もう救いようがない。

本当に脚本家恥知らず&バカなのか?としか思えない。

きっと社会的経験が無いアンフェのキモオタなのだろう。

※とか考えて脚本家と携わった作品群を見たら、自分打率一割以下だった。ブラックリストに入れておこう・・・


オチ部分も誤魔化し次エピソードへの詳細を意図的に端折っているが、結局世界改変の解決詳細は語られず、次エピソードも公開されないので中途半端に終わっている。

アニメ変換するなら、ここはきちんと畳んで締めるように改変すべきだったのでは。

まぁ、ハルヒ全体の出来を見ると、あえて説明されても困ってしまう程度のシロモノなのは容易に想像できてしまうのよ。

2021-08-30

幼少期のメンタリストDaiGoを虐めた奴等が許せない

WikipediaによるとDaiGoは幼少期にいじめられていたらしい。

彼はお金=社会的承認に飢えている一方で(あるいは飢えているがゆえに)、既存倫理観に対してかなり挑戦的だ。

彼のこうした人格には、当時の経験がかなり尾を引いているのではないかな、と思っている。

幼少期、彼は不幸にもいじめの標的になってしまったという。

いじめられるに至った経緯は不明だが、興味は無い。いじめの経緯なんていつも些細なことだし、どうでもいい。

道徳の授業で、暴力はいけない、揉めたらよく話し合おうと教えられる。相手人格問題があったとしても、暴言暴力を向けていい道理は無い。いじめは許されない。法に触れていれば犯罪だ。

しかし、建前がどうあれ、学校というコミュニティにおいては往々にしていじめが発生してしまう。学校には何故か警察は介入してくれない。彼の場合、頼みの綱の先生も助けてくれなかったようだ。

理不尽に晒されると、人間は歪む。

社会適応的な人間からすれば、虐められた原因を正して社会和解すればいいだけのことかもしれない。

しかいじめられっ子は、たまたま生贄に選ばれてしまっただけだ。仮にいじめられる側に原因があったとしても、どこを正せばよいのか伝えられないまま、突然暴力によって存在否定される。いじめられっ子からしてみれば、理由はどうあれただ理不尽暴力を向けられただけである。気に入らない奴に暴力を振るい、尊厳を踏み躙り、見て見ぬふりをするという社会の悪性を一身に向けられたいじめられっ子は、果たしてそんな社会の仲間でありたいと思うだろうか?

ひとたび社会の強烈な不正義に晒された人間からしてみれば、適応不正義への降伏に過ぎない。

彼がナタを投げるという脅迫によっていじめを克服し、しかも本人がそれを成功体験としているのも悲しい話である

周りの大人先生が助けてくれたなら、まだ世の中捨てたもんじゃない、正義だってある、自分には味方もいると思えたのだろう。そうした経験を欠いた彼の世界には、おそらく未だに愛も正義もない。自分の行動によって世界は変えられるという本人の言は、承認は行動によって勝ち取るしかないという不安の裏返しではないだろうか。

無条件の承認社会への帰属意識も身につけられなかった人間は、自分に居場所があることを確認するため、社会的承認をかき集め続けなければならない。

これこそ彼が、目に見える成果が出るまで時間のかかる心理学研究でなく、すぐにお金を稼いで世間自分非凡さを思い知らせられる、うさんくさいパフォーマーとしての生き方を選んだ理由ではないだろうか。

私は、彼の信じられないほど酷薄発言も幼少期のいじめに由来するのではないかと考えている。

納税者蔑視する発言は、相手にされないことへの不安から来たスタンドプレーという一面もあるが、既存倫理観への不信からくる本音でもあるのだろう。暴力はいけないという一般論教育されつつ暴力を振るわれた過去故に「口でいくらヒューマニズムを謳っても、本心は違うに違いない」と思っているのではないだろうか。

別に私はDaiGo被害者から哀れむべきと言いたいわけではない。理由はどうあれ、非納税者への福祉に関して無理解なまま、倫理にもとる発言したこと批判されてしかるべきである

しかし「悪い奴だから懲らしめてやる!」と義憤燃えている人は、自身正義などではなく、気に入らない人間積極的排除しようとする側、いじめっ子気質人間であることを認識した方がいい。

自分の非を認めていない人間に数の暴力サンクションを与えたところで、暴力によって従わされたという心の傷が残るだけではないだろうか。

DaiGoの件に関して言えば、浮浪者への差別発言問題点を大して理解していなそうな人まで「レイシズム=ナチス=悪」という借り物の価値観脊髄反射敵に叩いているのも気持ち悪かった。Twitter支配的な反レイシズムという規範に沿わないという理由で叩くのなら、クラス空気に沿わない人間を吊るすいじめと大して変わらない。

DaiGoのように成功者になって世間を見返すのに躍起になり、果たしてそれが上手くいったとて、こんな風に問題行動を起こしてしまう。

逆に完全にいじけて人生を放り投げれば、黒子のバスケ事件犯人のように社会の敵になる。

これらは元いじめられっ子の中でも極端な例であるしかし私には、帰属意識喪失社会の正しさへの不信、自尊心の低さ、自分の影響力を確認することへの執着といった、いじめによってもたらされる人格の歪みが遠因になっていると思えてならない。

いじめの無い社会の到来を切に願う。

暴力によらない意思表示の訓練を普及させる。

学校内であっても犯罪に対しては警察を介入させる。

いじめから逃げられない構造是正する。

いじめて/いじめられてしまう子をケア対象とする。

手立ては色々ある筈だ。

これまでの話は全部私の臆測であり、一から十までこじつけである。どこかに論文があるわけでもないし、私は何の専門家でもない。

しかDaiGo本人がオリジンとして語っている以上、暴力による自力救済いじめを克服するしかなかった経験は、彼にとって大きな意味を持っていたのだろう。

DaiGoいじめたりそれを傍観したりしていた同級生、彼を救えなかった教師、もしかすると「やっぱアイツ変だったしな〜」などと考えていないだろうか。

お前らが歪めたんだ。

2021-07-01

うら若き女性が、一部の異常者のために仕事を諦めざるを得なくなる

そんな状況であっても、その女性に対して酷薄コメントがいくつも飛び交う

まったく、この国は女性が生きにくい国になってしまったものである

https://anond.hatelabo.jp/20210701020356

2021-06-10

古典教育否定論を見て思ったこ

もしも「シェークスピアバイロンシェリーブレイクコールリッジ、ワーズワーステニスンの詩なんか学校教育で教えるのは無意味」とか言う英国人がいたとして、それを見たら、英国人じゃない自分でも「うわ……」と感じるだろう。上の例でピンとこない人は、ホメロスなり、ダンテなり、ゲーテなり何なり、適当人名に入れ替えて下さい。

実際は、欧米政府首脳や政治家は、演説聖書の一節、ギリシャ/ローマ古典、有名な詩人の詩から引用することが珍しく無い。そういう場面を見ていると「風雪に耐えて残った古典」の価値を見抜ける/理解できるような頭の持ち主でなければ、国家百年の計と云う長期的なプランを建てる重職を任せられないと云うコンセンサスが、政治家有権者の間に有るように見える。

また、古典宗教その他の思想バックボーンを反映しているものなので、良かれ悪しかれ国民性を反映している。政(まつりごと)をするには民の心を理解して掴まねばならない。したがって、為政者は和漢の古典を読み、よく人の心を学ぶべしと云う旨を、江戸学者は説いていた。昔の中国でも、知識人は同じ旨を説いていたと思う。それらは理想論に過ぎなかったのかもしれないけれど、理想を失くしたら人間は御仕舞だと私は思う。

自民党政治家もそうだし野党政治家もそうだけど、日本の政治家は古典引用した演説をしない(できない)。それを見ると、この人たちは、行き当たりばったりで長期的に物事を見る能力に欠けている、その場凌ぎ思考人間ばかりなんだなと私は思う。五十年〜百年経ったら、後は野となれ山となれと云う考え方の持ち主なのだろう。

虚偽答弁をする政治家に対して、対立政治家が「いつはりの無き世なりせば如何ばかり人の言の葉しからまし」とか知的洒落皮肉を言えたら、グッとくると思う。しかし、現実日本の政治家は、バラエティ番組的な物言いをする人間ばかりである

古典に関する教養は、即物的意味で役立つ訳ではないのは確かである。けれども、頭の中身や心が貧しい人間か否かを見抜くためのバロメーターにはなり得ると思う。心が貧しい人間政治家をすると、人間に対して酷薄政治をすると思う。例えば、麻生太郎言動を見ると、そう思わないだろうか?まあ、野党政治家も五十歩百歩なのだけれども。

少なくとも、口先だけは愛国心を説くくせに日本古典に対する教養を持たないような政治家を、私は信用できない。そして、それを国民が見抜ける状態でいるためには、やはり古典に対する教育必要なのだと私は思う。

2020-12-07

中国コロナ賠償金を支払わせろと強硬なことを主張する一部右翼がいるが、

今の日本の政治家、官僚国民への酷薄さをみると、

仮に中国と揉めて戦争になった場合予算がないからとか言い訳して兵站を削減、

マスク手洗いの徹底のような金のかからない精神論マナー一辺倒で戦争を乗り切ろうとするのが目に見えているので、

絶対戦争になるような、中国を脅すようなマネを行ってはならない

2020-11-16

イズムとつく服を着て

 〇〇イズムとかismとかそういう服を着るとちょっと強くなったような気がする。でもそれは服である時点でどこかしら過去性を帯びていて、つまり現在進行系で変化していく思考の変遷から零れ落ちているということでもあるのです。

 それは服なんだけど、着たら最後過去なっちゃうのだ。

 なので、僕から勧めたいことは基本的に、思想の上では服に頼ることを最低限に抑えることです。思想の上では裸でいること。これもまた一つの思想であるかと言えばそうではなく、柔軟に反省し柔軟に理解し、理解できていないことを認めること、それらの行為バランスよく行うことで、人間は違った風景を見ることができるようになります。同じ服を着たままなら、あるいは少しでも服に頼る姿勢に甘えているのであれば、その風景は固定されたままなので、少しでいいので、服を脱いで裸でいるという気持ちを味わうべきだと思います

 そして、基本的に服とかイズムというもの自分経験から編み出されるものです。「こういう経験をしたんだけれど、上手く整理できない」「こういう体験の中から、何か新しい発想を生み出せそうなのだけれど、自分には少し力不足だ」そういう時に服を着ることは間違ったことではありません。あくまで、その服は貴方が温かさを求めている時に、あるいは現状を凌ぐべき時に必要なのです。時には、却ってその服が重荷となることも、知っておくべきでしょう。


 主義とか思想とかismというもの基本的に人にとって、なければそれで良いものです。勿論、初めて袖を通したその心地よさをずっと味わっていたい気持ちは分かるのですけれど、基本的には人は思想に頼らなくても生きていけます。例えば、本当に自分にとって大事記憶とか想い出とか、そういうものがあれば、人は思想がなくても生きていけるのです。会話し、美しいものに触れ、そしてその記憶を誰かと共有することさえできれば、我々が思想必要とすることは本来ありません。

 とは言え、我々は常に美しい体験をのみ選び取ることはできません。時に、体験酷薄であり、それは冷たく薄い刃のように心の襞を裂きます。我々は、時にその刃によって自己を断ち切られさえします。切り裂かれ、本来状態に保っておくことのできない時だってあります

 そんな時、貴方は何かの服を着るべきなのかもしれません。ただ、貴方にとって何か美しい記憶とか、あるいは思い出すことで落ち着くことのできる体験とか、そういうものがあるならば、それは服に増して大切なものです。まずは、そういったものを取り戻しましょう。

 その上で肌寒さを感じられるのであれば、その時は服を着て下さい。でも、その服はずっと着ていると恐らく貴方背中を痒くしたり、あるいは初めて袖を通した時とは違った、苛々した気分にさせるかもしれません。そういう時は服を脱いで、何か想い出に触れて下さい。あるいは、美しいものに触れて下さい。そういう時には、服を脱いで身軽な心地でだらりとするのが一番なのです。

2020-08-03

なんで愛情って有限なんだろうな?

俺とか自分でも少し引くぐらいめっちゃ酷薄で、家族とか友達とか恋人とか全然大事にしない。優しくしないし、優しくされてもなんかいまいち芯食ってないっていうか、まあありがたいんだけど、「うん、まあ、ありがとう」みたいな感じで、でも本当はもっと全霊で感謝するべきだし、もらってる分の10倍くらいは相手に返してもいい気がするんだよな。感覚的に。

別に、周りに優しくしないことで特にしたことがあったわけじゃないし、なんなんだろうな。

他の人の優しさの分量がバケツ一杯分だとしたら俺だけ雨粒一滴分っていうか、そんなんだからもっと愛情を示せって言われても「いや、俺なりにこれが限界で…」って感じで、罪悪感とかはないんだけど、別にもっと無尽蔵に愛情があったっていいし、みんなだって俺よりははるかに多いけどやっぱり限界はあって、もっと意味わかんないぐらいお互いに優しくたっていいのにな。そうしたら死なないで済んだ人、もっと幸せ人生をたためた人も大勢たかもしれないよな。

もちろん愛情限界があるのは生物的にも社会的にも当然のことで、生命は基本が独善的設計されているものだし、世の中を生きてわたっていくだけで体も心もすり減っていく。なんなら宗教的にも愛情MAXちゃん認識されていて、キリスト教原罪もそうだし、仏教だってたぶんそういう概念があるはずだ。

から愛情が有限であることには合理的に考えるとどこにもおかしいところはなくて、「なんで有限なんだろう」って考えが出てくること自体とんちんかんなんだけど、それでも不思議なんだよな。

なんなんだろうな。なんなんだろうな、って感覚が、愛情限界があることにかかってるのか、そんなことを不思議がる自分にかかってるのか俺にもわかんないけど、なんなんだろう、ってすごい思うわ。

2020-07-19

インターステラーラスト脱力した

インターステラークライマックスラストに全く共感できなかった

序盤の無人探索機を追いかけるシーン、先細りしていく荒廃した世界。そして中盤の時間空間想像を絶するほどに隔絶した別の惑星、そんな極限状況で人類の命運を託されてさえエゴ支配される人間のちっぽけさ… そこまでの積み重ねがあまりにも圧倒的だからこそ… 最後が… あまりにも

宇宙の果のワームホールから重力を介して過去の娘と交信…?

愛の力で数万光年だか分からないけど離れた時空とつながる…?

人間意思心理論…?

それまで嫌というほどに残酷酷薄宇宙の途方もなさをぶつけておきながら

最後最後人間の愛で全てが解決されるの…?

それとも見落としてただけで、実は神様的な超越銀河文明があって

その人たちが思いを汲んで助けてくれたんだろうか…?

こんな遠くまでよく来た頑張った!ご褒美!みたいな

愛がなければ全て無意味だとは思う

でも、愛は現実世界には何も影響を及ぼさないからこそ、

人の心において、存在しえない存在理由を生み出す

親子の愛は素晴らしいものだと思うが

それで現実の難問が解決!というのは

しろ愛のあり方を貶めていると思う


追記

そういえば銀河文明的なの出てたね、そういえば

とするとむしろ愛が全て、ではなくて

超越銀河文明科学力すごい!なのか

初めて接触した生命体の心理を的確に読み取って

ワームホールをその生命体に操作させる…

追記2】

コメントありがとう

ラストも含めて好きな人もいれば、途中までは…という自分みたいな人もいるんだな

ラスト好きな人意見も知れて良かった

あと銀河文明は完全に自分勘違いで、未来人類だね

正直すまんかった

2020-05-17

anond:20200515175802

マルクス史観の影響だな

レーニンたちにさんざん苦汁を嘗めさせたロシア帝国ドイツ帝国が最も酷薄支配体制とされ、これらを悪者とする見方が広まった。

また、日本事情として戦前日本が建前だけでもアジア民族自立を謳う上で目の敵にされたのが大英帝国(とフランス

さらには大日本帝国敗戦擁護すら許されない絶対悪となった

これらの事情から昭和後期~平成初期の創作物では「帝国」は悪の象徴とされたんだよ

当時は共産圏無茶苦茶さもまだバレてなかったしな

2020-04-03

ふだん酷薄ジャップ大企業ですらコロナ対策で激甘になってるというのに

田舎中小企業平常運転

本当に救いようがない

2019-12-20

JKが考える

私はどこにでもいるJKなのだが、最近マックで級友から興味深い話を聞いた。現代日本には「キモくて金の無いオッサン」という一群が棲息しているらしいのである

キモくて金の無いオッサン。なんという悲しい呼称であろうか。属性がそのまま呼び名になっている。いくらなんでも投げやり過ぎやしまいか。我々がJKと呼ばれるように、頭文字を取ってKKNOと呼んであげることは出来ないものか。それだけでずいぶんポップになるではないか。PPAPのように。

そんなことはともかく、私はキモくて金の無いオッサンという生物に興味を持ち、色々と調べてみたのだが、どうやら彼らは概ね37才以上で、家賃六万円以下のアパートに独りで暮らしていることが多いようだ。特段、人生に不真面目であるわけではなく、むしろ性格は小心で、毎日、与えられた仕事粛々となすものが多い印象である。ただ、様々な能力が平均より少しずつ劣っていたり、運が悪かったりすることで、劣悪な労働環境適応せざるをえず、そういった暮らしの果てに「キモくて金の無いオッサン」に成ってしまったと言えそうなのである。私はJKなので詳しいことはわからないのだが、これはなかなか厳しい人生と言えそうである

キモくて金の無いオッサンは、現代労働市場において、最も弱い存在と言って良いだろう。知識経験を蓄える機会を持たないまま生きてきたので、自然最低賃金での単純労働従事せざるを得ない。また、体力や脳の働きなど、個体としての衰弱も進行している為、集団内部でも下位に位置付けられてしまう。自分の息子であってもおかしくないような、髪を金色に染めた暴走族上がりの青年に、顎で使われたり、脇腹を蹴られたりすることもあるようなのだ

キモくて金の無いオッサンは、労働後の歓楽に興じる機会も奪われている。周囲の年若い集団から基本的に疎まれている為、酒席に誘われるようなことはまず無いのである。結果、発泡酒と値引きの惣菜を買い込み、帰宅してインターネット動画を漁りながら、明日労働に備えることになる。 JKの私には信じがたいライフスタイルである

キモくて金の無いオッサンは、人生の全てがバカらしくなり、大暴れして周囲に迷惑をかけるようなことはない。夜中にいそいそと自慰を行い、翌朝にはまた働きに出るのである。私はJKなので、これらはすべて想像に過ぎないのだが、なんだか泣きそうになってきた次第である

キモくて金の無いオッサンは、時に恋に落ちたりもする。職場で一回り以上年下の女性に気安く話しかけられたり、笑顔を向けられたりすると、てきめんに恋をしてしまう。そして、これらの恋が成就した例は、有史以来、ただのひとつもない。それどころか、大抵は、悲劇に発展する。キモくて金の無いオッサンは、恋をすると、とんでもない間違いを繰り返し、キモさが数倍、時には数百倍にまで膨れ上がり、全身がヌメヌメと湿り気を帯び、激しい異臭を放ち始める。そうすると、いよいよ駆除対象とされてしまうのである

恋に落ちたキモくて金の無いオッサンは、職場を追われ、アパート家賃も払えなくなり、親の年金寄生するしかなくなる。一度寄生してしまったら、もう自立することは出来ない。社会酷薄さを知ってしまたかである。それでどうするかというと、一日中オンライン将棋に没頭するか、近所の図書館ソファー瞑想に耽るか、いずれかである

では、寄生先を持たないものはどうなるのだろうか。それはJKである私の口からは何とも言えない。いずれにしても、チョベリバである

こんな想像をしてみる。ある朝、気がかりな夢から目ざめると、ベッドの上でキモくて金の無いオッサンに変ってしまっていることに気づくのである。私は昆虫のように固い背中を下にして、寝そべっている。ほんの少し首を上げると、無数の弓形の筋が刻まれ茶色の腹が見える。私の腹である。たくさんの細い足が生えている。私の足であるしかし、それらの足はあまりにか細く、力が弱いため、どうしても立ち上がることができないのである

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

2019-07-12

走れタヌキックマスター

タヌキチは激怒した。

必ず、かの邪智暴虐の王、カポエイライオンオーを除かなければならぬと決意した。

タヌキチには政治がわからぬ。

けれども、邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。


タヌキチは駆け出した。

必ず、かの酒池肉林王宮ピィアールへと向かわねばならぬと決心した。

タヌキチには道順がわからぬ。

けれども、タヌキチが道を尋ねた人々は、人一倍に親切であった。


タヌキチは苦悩した。

必ず、かの悪逆無道の王を倒すと決意したのに。

タヌキチは、門番カタハライタチノスケにすらかなわぬ。

けれども、タヌキチは、強くなることには、人一倍貪欲であった。


タヌキチは奔走した。

必ず、かの深山幽谷に住む伝説武術家に教えを請わねばならぬと思案した。

タヌキチは、その武術家サイキックマスターの居場所もわからぬ。

けれども、王を倒すためには、人一倍修行必要だった。


タヌキチは修行した。

必ず、艱難辛苦を耐えて強くならねばならぬと我慢した。

タヌキチの全身は、タヌキ血に塗れ、もはや時間感覚もわからぬ。

けれども、師匠指導に対しては、人一倍努力したのであった。


タヌキチは疾走した。

まずは残忍酷薄の部下を倒さねばならぬと疾駆した。

強くなったタヌキチには、メスイタチ門番をはじめ、部下は誰もかなわぬ。

けれども、王は、人一倍に強いと言われていた。


タヌキチは対峙した。

必ずや、この剛力無双の王を倒さねばならぬと改めて決意した。

タヌキチは、修行の際、何度サイキックマスターに蹴られたかからぬ。

王が蹴れども蹴れども、その攻撃は、人一倍に敏捷なタヌキチには当たらなかった。


タヌキチは退治した。

乾坤一擲の蹴りが当たり、もはや王は立ち上がらぬと確信した。

王は二度と民衆を虐げられぬ。

けれども、人一倍に繊細なタヌキチの心中には、一抹の不安が残った。


タヌキチは失踪した。

以暴易暴のタヌキチが、過度に賞賛されてはならぬと熟慮したのだ。

人々は、タヌキチの名前も居場所もわからぬ。

けれども、その姿と蹴りの力強さ、美しさは、人一倍記憶に残った。


人々は、名も知らぬ英雄をこう呼んだ。

「タヌキックマスター」と。

2018-05-03

第一回 ゴールデンカムイ

ゴールデンカムイ」見てますか? 面白いですよね! 原作全部読んじゃって「もっと・・・状態

そんなあなた明治維新前後(18世紀20世紀前半)の北海道舞台にした伝奇/アクション作品を紹介してみようと思います

1)

「地の果ての獄」

 言わずと知れた山田風太郎大先生明治もの

 ”北海道一般の人にとって地の果ての島だった明治19年。薩摩出身青年有馬四郎助は月形の樺戸集治監の看守に着任した。そこは刑期12年以上の凶徒を集めた人間運命の吹きだまりであった。正義感あふれる四郎助は、個性的囚人たちが起こす奇怪な事件に厳しく対しようとする。だが、元与力キリスト教教誨師・原胤昭との出会いがその運命を変え始め...。明治に生きる人々の姿をつぶさに拾い上げた圧巻の人間ドラマ。”

 原さんは『明治十手架』にも出てきます

2)

「旋風(レラ=シウ)伝」

 北海道出身朝松健先生作品。本作はクトゥルーネタあんまりない。

 ”明治二年、箱館五稜郭は陥落し、戊辰戦争最後の戦いは終わった。南部藩出身の若き遊撃隊士・志波新之介は、古参兵士たちのはからいで死をまぬかれ、榎本武揚から手渡されたスペンサー・カービン銃を手に北へ向かう。前途に広がるのは、コロポックル邪悪な罠を仕掛け、犬神が姿をあらわし、淫魔が歌声を響かせる、いまなお伝説が息づく蝦夷の大地。残虐きわまりない北海道開拓使・仙頭左馬之介が率いる討伐隊と死闘を繰り広げながら、新之介は自由の地を目指して歩を進める。” 

 現代北海道ものでは「魔犬召喚」「凶獣幻野」がお勧めです。北海道こわい!

3)

五稜郭残党伝 」「婢伝五稜郭

 こちらも北海道出身佐々木譲氏の作品

 ”戊辰戦争もあと二日を残し、五稜郭で幕を閉じようとしていた。「降伏はせぬ。」と、陥落前夜、自由を求めて脱出した旧幕府軍の凄腕狙撃兵、蘇武と名木野。逃げのびる二人は、アイヌ土地を蹂躪する新政府の画策を知り義憤燃えた。だがその背後に迫る、新政府軍残党狩り部隊足音酷薄執拗な追撃戦が開始された…。広大な北海道を血にそめて追われる者と追う者が、男の誇りを賭けて戦う冒険小説。”

 佐々木氏北海道舞台キング風の現代ホラー「白い殺戮者」で「アイヌ・ライケ・ウパシ」=「人を殺す雪」というアイヌ民話について登場人物に語らせていたりします。

4)

蝦夷地別件」

 船戸与一氏の作品

 ”十八世紀末蝦夷と呼ばれるアイヌ民族は和人の横暴に喘いでいた。商人による苛烈搾取、謂れのない蔑みや暴力、女たちへの陵辱…。和人との戦いを決意した国後の脇長人ツキノエは、ロシア人船長に密かに鉄砲三〇〇挺を依頼する。しかし、そこにはポーランド貴族マホウスキの策略があった。祖国を狙うロシア南下政策を阻止するべく、極東に関心を向けさせるための紛争の創出。一方で、蝦夷地を直轄地にしようと目論む幕府と、権益を死守しようとする松前藩の思惑も入り乱れていた。アイヌ民族最後の蜂起「国後・目梨の乱」を壮大なスケールで描きだす超大作。”

  脇長人て何?って思って検索したら 夷酋列像 が はてなキーワード登録されていました。

5)

天動説

 山田正紀作品山田氏の北海道舞台作品というと「謀略のチェスゲーム」「人喰いの時代」なんかがすぐ思い浮かぶけど、昭和なんですよ。時代を合わせると「ツングース特命隊」「崑崙遊撃隊」あたりになるんですが…

 本作は第一部が江戸編(ザ・”江戸時代”)、第二部が蝦夷編の伝奇小説ラストはむりくり明治維新期まで到達。あんまりアイヌは出てきません。

6)

カムイの剣

 矢野徹作品アニメもある。

7)

王道の狗」

 安彦良和のまんが 全編北海道ってわけではない。

 ”明治時代中期、北海道開拓使役させられていた若い囚人二人は脱獄し、それぞれの道を歩み始めた……。壮大なスケールで描く歴史長篇漫画

どうでしたか? アフィサイト並みに読んでない作品も挙げてみました。

ちなみに「ゴールデンカムイ」読んでません! ごめんなさい!!

2018-04-29

女性セクハラ問題、「コミュ力」か「気にしない」かのどちらかで頑

ニュースではなく、私の姉の話をしてみたい。

姉は勤め人で、私や実家とは離れて暮らしている。

姉の上司(既婚者の男性らしい)に当たる方から、ある腐女子需要があるアニメに「興味がある」と話を振られたそう。

それからというもの、二人きりでそのアニメ関係している場所に二人きりで旅行していたらしい。

姉は土壇場で勘のいい方で、宿泊先で同じ部屋で、という話になった時に「さすがにちょっと」と断り、事なきを得たらしい。

上司としてはその日に関係を持ちたかったらしく、姉にとっては致命的な過ちを犯さずに済んだようだ。(まあ、その上司ストーカーまがいになって転勤する羽目になったようだが)


私としては、そもそも異性が都合よく自分好きな物を好きになる可能性あるか?とかまず疑問に出てきた。そこから色恋沙汰には疎いとみて、こういう時の男の心理を教え、厄介事がまた降り積もらなくする程度の協力はした。

我が姉は悲しいことに、乙女ゲーム自然気持ちでやると、なぜか誰からも振り向かれない系のバッドエンドに行き着いてしまうらしい。(筆者でも好感度調整という発想ぐらいは出てくるぞ…)

思ったこととして、世の女性は、父、他の家族、あるいは元カレなどから、どういう男がマズいか、男がいかケダモノか、正しい知識を身に着けているのか?

わかりやすく極端な例を挙げてみよう。

不動産投資営業に対するあなたイメージはどうだ?銀行の窓口で勧められる定期や投資信託あなたの為を思っての銀行の厚意か?

あなたの僅かな銭を増やす為に、なぜ彼らはあなたに大真面目に勧めるのか?

あえて答えは挙げない。

もし男性からのそういった行為に拒絶するなら、ラグビー部テニス部主催する飲み会に参加するべきでもないし、二人きりになりたがる男と一緒になってはならない。

なんか危なそうな空気になったら、なりそうなら逃げ道を確保しておくのも重要だ。

万が一そんな男の絶滅を望むのであれば、それはオタクの5000兆円欲しい!ぐらいの態度で日々に臨んでいた方があなたのためだ。

必然的に、社会とはラグビー部相撲協会のようなメンタリティーの男性を望むので、彼らの絶滅ゴキブリ絶滅並みに絶望的だ。)



レイプとかではなく、より身近な、結婚しろとかケツ触られるとか、こういうのが嫌な場合もあるだろうが、これは気にしない方がいい。

しろなぜいちいち腹を立ててしまうのか、私には理解しがたい。

私も歳が歳なのもあって、しょっちゅう結婚彼女について聞かれるようになった。

そういう時には、私は決まって「なかなかいい人がいないんですよー。誰か紹介してくれませんかー?」と答えることにしている。

大抵はそこまで深くは突っ込まれないし、もしお見合いにでもなれば儲けものだ。

(お前を見る限り、今結婚できなきゃ一生結婚できないぞ、と暗に注意されていることには申し訳ない気持ちでいっぱいになる。)

ケツを触られることについては、男である私が語るのは僭越なのだが、会社内ではワンタッチ100円、みたいな割り切りで済ました方がいいのでは?と思ってしまう。

耐え難いなら、私の家系プロテスタントでうんたらかんたら、みたいなめんどくさいこと言っとけばいい。

いちいちお冠にならず、相手は天気を聞くつもりでやってる、程度の認識でいい。


総括すると、まずはコミュ力を身に着けた方がいい。

危なそうな空気、とか、情報共有とかを含めてのコミュ力だ。

後は、もっと人の悪性を学んだ方がいい。

あなただってDQN一般ヤンキー)やキモオタマナーのなっていない老人やリア充など、あなたにとって腹立たしい存在に向ける眼は、きっとあなたの悪を象徴しうるほど酷薄ものだ。

その悪性をどうして時と場合に応じて活かせないのか、内省すべきだ。

2018-02-05

お金こそがコンテンツ創作者を支援する方法って話だけど

岡崎体育とかソシャゲとか漫画家小説家とかで「結局お金支援になるんだし、支援した人がメリットを受けられるのは当たり前。がんばって稼いだお金を、がんばって注いだ人が報われるのは道理」みたいな話を最近よく見る。

理屈としてはそうだけどなんか頷けねーなあと考えてた。

私としては、金を稼げてる稼げてない、生活に余裕があるないっていうのは運だと思うんだよね。

たまたまラッキーで、稼げる職、頑張れる環境、十分な能力健康な心身などなどが揃った結果として稼げてるだけ。

お金ある人もない人もそれぞれ頑張ってて、ただその頑張りがお金に結びつく幸運がどれだけ味方してくれたかが稼ぎの差になってる。

裕福さなんてそんな運で決まってる序列しかないのに、「金を払える奴、稼げてる奴が善。金が払えないのはそいつ無能さが悪い」っていう意見が主流っぽいことに納得できない。

せめてビジネス提供者側としてはその理屈で動くのが妥当だとしても、ネット大勢の人たちの意見までが、お金のない層は冷遇する・切り捨てることが当然ってなってんのは、酷薄すぎるんじゃないの。

2018-01-25

彼氏の顔がとにかく好み

世界で一番好きな顔。もちろん、中身や雰囲気などからにじみ出るかっこよさから来る好きもあるけど、単純に顔の造形が好み。切れ長な目、冷たそうな(言いすぎると酷薄そうな)顔つき、顎のライン、色白な所など…。顔が好みな人とするセックスもたまらない。

2017-11-11

anond:20171111201902

女はお気に入り以外の格下には酷薄から

おう、男はそうじゃないとでもおっしゃるおつもりか

anond:20171111201156

上で書いたけど、女はお気に入り以外の格下には酷薄からネオリベには親和的だと思うよ

おっさん既得権益を貪っている」というのもまさにポピュリズムの発想だし

もちろん個々の女性に対して決めつけてはいけないけど、そういう傾向はあると思っている

anond:20171111194511

政策解決する気もないんじゃないか? というのを警戒してるんだよ

お気に入り以外の格下の存在に対する女性酷薄さというのを見聞きしていると、

女性権力を握った時こそ社会ネオリベ化すると割と本気で考えている

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